第九話 ノルンの泉 ずっとずっと、この感情とはまるで縁がないものとばかり思っていた。 だって仕様がないではないか。ここ何年かの組織は子供たちに異性との関わりを一律に禁じていたし、「晩餐会」を除く日常における些細な男女間の交流にさえ鋭く目を光らせていた。 けれど、それはきっと現実から目を逸らすための言いわけにすぎなかったのだと、最近の在紗はそんなことを考えるようになった。 そうでなければ今頃、未佳と武史はあんなにも生き生きと顔を輝かせてはいないはずだ。 だからと言って自分が彼らのように振る舞うか否かは別の次元の話だった。 未佳は大切だ。未佳と静過とそれと自分と、昔からなにをするのも三人一緒だった。今まで築き上げてきた関係を壊したくない。それは、対象を光に置き換えてみても同じことだった。 ここ数日の間、文字通り在紗は二人との距離について頭を抱えに抱えた。そして、ある瞬間にふっと、どちらをも切り捨てない最善の方法を見出した。それは――。 「在紗ぁ、人をすきになるって言うのは悪いこと?」 それまで在紗の前を颯爽と歩いていた未佳が、振り向きざま突然まったく脈絡のない話題を振ってきた。 なんの心構えもしていなかった在紗は返す言葉が見つからず、ただぎょっと瞳を丸くしたそのすぐあとで、周囲の誰もが今の未佳の言葉を気に留めていないかを慌てて確認した。 幸運にも、講義がすべて終わって寮へ戻ろうとしていた女子の列の一番うしろを歩いていた在紗と未佳のやりとりは、誰にも悟られていないようだった。 それにしても、と、辺りを見回してほんのわずかばかり安堵した在紗は、まるで未佳にそっくりそのまま心を読まれたかのような居心地の悪さを覚えた。 ぼうっと未佳のうしろ姿を眺めながら、昨夜固めた決心を思い返していたのが彼女には分かったのだろうか。 未佳はたまに、誰もが予期していないところで妙に勘が鋭いときがある。 「えっと、なんのこと?」 在紗は精一杯の冷静さを取り繕って、素知らぬ風でとぼけてみせた。 気づかれたくはなかった。自分がこんなにも愚かな感情に惑わされているなど、あまりにもみっともなくて絶対に知られたくはなかった。 そもそも、組織において必要以上の男女間の交流は禁止されているのだった。そんな中で、光にとっては恐らく極普通のことなのに、ことあるごとに親切にしてくれたからと言ってそんな彼にうっかりでも絆された自分が情けなかった。それが、未佳に好意を寄せている人物ならなおのことだ。 だから、自分一人がこの感情を封じ込めてしまえばなにもかもが上手く収まる。 それが、在紗が数日かかってようやく捻り出した答えだった。ここで光への想いを一思いに閉じ込めてしまえばいい。そうすれば自分は、“これ以上傷つかなくて済む”――。 「……もー、在紗ってばあ」 しかし未佳は、在紗の心はすべて把握しているのだとでも言わんばかりに困ったように眉を八の字にすると、歩幅を狭めて在紗の隣に並んだ。 「規律を破ってるあたしがこんなことを言うのもなんだけど、誰かをすきだって感情がいけないことだって、あたしはそうは思わない。だってしょうがないじゃない。すきになっちゃったんだもの」 「未佳! 誰かに聞かれたら……」 「だいたい最近の組織は変なのよ。あんなに規律規律ってピリピリしちゃって、昔はそうでもなかったのに。まるであたしたちを根っこから変えようとしてるみたいでさ……」 それまでの饒舌が嘘のように、未佳はそこでぷっつりと言葉を切る。 急にどうしたのだろう。と、在紗はそれとなく横を歩く未佳の顔を覗き込んだ。 「あんな規律、クソ喰らえだわ」 俯き加減のいつもは人形のような未佳の顔からは、苦虫を噛み潰しているかのような怒りを滾らせているかのようなどこか他人を凄ませてしまうオーラがありありと見てとれる。ああ、彼女はこんな顔もできるのかと、在紗は意外に思った。 同時に、いつもは朗らかで優しい未佳をそこまで言わしめる「すき」と言う感情が、途端に少しだけ怖くなった。 「おーい! 未佳ー!」 「……あれ」 在紗が険しくなった未佳の機嫌をどう回復させたものかと慌てふためき始めたのとほぼ同じタイミングで、遠くから聞き覚えのある台詞と声が聞こえた。 未佳は細めていた金色の瞳を大きく見開くと、弾かれたようにぱっと顔を上げる。 「武史? アンタたちここでなにしてるのー?」 「俺ら今日噴水掃除担当なんだよー。あともうちょっとで終わりそうだから水泳大会やってた」 寮へ帰還する女子の集団は、いつの間にかアースガルドの最下層の巨大な噴水の前に差しかかっていた。 噴水は持ち回り制で掃除当番が定められている。今日はどうやら武史をはじめとする男子の何人かが当番に当たっているらしい。 しかし、先程の武史の言葉からも分かるように、噴水掃除に従事する男子の恰好はどこからどう見ても掃除をしているようには見えなかった。 肩まで服の袖をまくりあげているならまだ理解できるにしろ、完全に頭のてっぺんから水を被っていたのだ。 呼び止められて足を止める未佳や在紗以外の女子は、全身びしょぬれの武史たちの姿を見て互いに顔を見合わせてはおかしそうに笑いながら寮への帰路に着く。 「あんたたちってなんて言うか、ほんと元気ねー」 「ほら、未佳も泳ごーぜ!」 「はあ? 大人に見つかったらどーすんのよ!」 「今の時間はあいつらヴァルハラで会議やってんぜ。あと一時間は降りてこないっつの」 ヴァルハラとは大人たちが常時話し合いに使うための広い会議部屋であり、アースガルドの中でもかなり上部に設けられていた。 したがって、最下層に位置する噴水からは遠い場所にあるため、ここで少しくらい戯れたとしても大人には気づかれないだろう。と言うのが武史の言い分らしい。 嫌がる未佳の腕を強引に掴んだ武史は、そのまま未佳の身体もろとも噴水の深みへと倒れ込んだ。 バシャアン、と、普段なら上がらないはずの豪勢な水飛沫が天高く舞い上がり、その残滓とも言うべき水滴は在紗の頭上にまでパラパラと降ってきた。 さっきの今だ。未佳がおかんむりにならないといいのだが。在紗は、ぎゃあぎゃあとまくし立てながら武史をど突いている未佳の姿を遠くから眺めて漠然とそう思った。 「まったく、だからと言って大げさにはしゃいだらさすがの大人も降りてくるわよ……」 「だよねえ……大丈夫かなあ」 てっきり静過も寮に戻ったものと思っていたのだが、面倒見のいい彼女は見捨てられなかったらしい。 プールのような広大さを持つ噴水のど真ん中で派手に戯れる未佳と武史に視線をやっては、頭に片手を添えて嘆息交じりの溜め息をつく。 在紗は、仕方ないよ、と、言葉だけでも静過を慰めようとした。だが、ふと静過のほうを向いたとき、紺色のストレートヘアの向こうにある人物を見つけた在紗は勢いぎくりとして身体を強張らせた。 武史がいることから薄々勘づいてはいたが、まさか本当にいたとは。そして、こちらを気にかけるとは微塵も思っていなかった。 在紗が静過の向こう、噴水の波打ち際に見つけたのは、癖っ毛の黒髪とすらりとした体躯の少年――光だった。 光は足首まで噴水に浸しているだけで、衣服はほとんどが乾いている。他の男子のように水泳大会に興じてはいないようだった。 どんなときでも自分を貫く姿勢がつくづく光らしいなと、いつもの在紗ならば悠長に考えることができただろう。 だが、今は違った。在紗は、光へ抱くすべての感情をつい昨夜閉じ込めたばかりだった。 そんな在紗の心情を知ってか知らずか、在紗の視線にいち早く気づいた光はこちらへ近づいてくると同時にゆっくりと口を開いた。 「樹サン」 どうして、私のほうを向くのだ。どうして、真っ先に口にするのが未佳ではなく私の名前なのだ。その行動すべてにわずかな可能性を見出して期待してしまいそうになる。 在紗は早鐘を打つ心臓を鬱陶しく思いながらも、素知らぬ顔をして数歩手前まで近づいてきた光に問うた。 「友常君、は、泳がないの?」 必死に冷静を装って喉の奥から絞り出した声はかすかに震えていた。 光はなにも言わず、ただ噴水の中央辺りではしゃいでいる未佳と武史を遠くに見て肩を竦めただけだった。 「ほら、その、未佳もいるよ?」 「今あの二人にかかわったらとんでもないことになりそう……。あんまり濡れたくないし」 「そっか」 意外と淡白なのだな。在紗はこれ以上なにも考えなくていいようにそう思い込むことに決めた。 しかし、次の瞬間彼の口から零れた言葉に、世界がすべて新たな色で塗り潰されるのが分かった。 「久しぶり」 なんでもない光のたったその一言が、在紗には魔法の言葉のように感じられた。 一秒にも満たない光の言葉の響きをもっとずっと長い間聞いていたいと思った。 「あ、うん……久しぶりだね」 話しかけられて、思わず在紗は光と視線を合わせた。途端、胸の奥がぎゅっと締めつけられたように感じた。 いとおしい。ただひたすらにいとおしくてたまらない。 彼がなにかを口にするたびに、彼が自分に焦点を合わせるたびに言葉では表せないくらいにつらくて、けれどそれがこんなにも嬉しさをまとっている。こんな感情に震える瞬間がくるなんて、考えてもみなかった。 光の顔をこんなにも真剣に見つめたのはいったいいつ以来のことだったろう。 「久しぶり」と言ってから互いになにも切り出さないことに在紗は若干困惑しつつも、ここで光から目を逸らしてしまったらなんだか負けであるかのような気持ちになって半分意地になって光の黒の双眸を覗き込んでいた。 しかし次の瞬間、光がふっ、と、口元を緩めて微かな笑みを見せたとき、突然在紗は泣きたくなった。 そのときの自分がどんな顔をして光と相対峙していたのかは分からない。 だが胸中では、今にも表へ出てきそうなほど壊れかけた感情を必死に押し殺していた。光に、自分に向かって笑うのはやめてほしいと、狂気染みていると捉えられても仕方のないことをうっかり零してしまいそうになった。 せっかく昨夜、決意を固めたのにな。在紗はぎゅっと唇の内側を噛んだ。どこからかじんわりと鉄の味がした。 そうやって、ありもしない希望を抱かせないで。そうやって、未佳へ向けるはずだった感情を私にも分け与えようなんて惨いことをしないで。 そう言ってしまえたらどんなに楽だったろう。けれど、そうやって彼を無下に扱うのには、まだ在紗はふっ切れてはいなかった。 すきなのだ。今も胸に燻るこの感情は、きっと未佳が抱いているものと同種に違いなかった。 在紗は、脳味噌を第三者の手によって勝手に掻き混ぜられていくような彼への想いにもうどうしていいのか分からず、それでも光の顔を見つめ続けた。 光はなにかを言いたそうにしていた。しかし、彼が口を開くほんの直前、在紗は光の横に急に現れた人影に気づいた。 「おら! そこなに青春してンだこらー!」 「在紗ぁー!」 えっ、と、思う暇もなく、在紗の腕は背後から誰かに強く引っ張られる。 すぐに眼前がブラックアウトし、続いて鼻に大量の水が入り込んで脳から頭が痛くなるひどい感覚に襲われた。半ば反射的に、在紗は急いで体勢を立て直した。 ばしゃあと、両手が水を掴んで身体は仰向けの状態から起き上がる。久しぶりに吸った空気は少し埃っぽいような金属臭いような微妙な匂いがした。 なにが起こったのかと在紗が足元を見渡してみれば、普段着のまま、膝下は完全に噴水の水に浸かっていた。 「はっはー! いい気味だ!」 「ねえー! 在紗もこっち来なよー!」 少し離れたところから、武史たちと同じく完全に髪の先まで濡らした未佳と口を大きく開けて腹を抱える武史が見える。 どうやら、未佳と武史が自分たちを引っ張って噴水の深くなっている場所へと投げ込んだらしい。 間一髪のとこで難を逃れたらしい静過は、未佳と武史の巻き添えを喰らわないよう先程よりも随分噴水から遠いところまで避難していた。 「大丈夫? 樹サン」 「……う、うん。大丈夫」 「濡れたね」 光の手が立ち上がろうとした在紗の手首に触れる。 在紗は思わずびくっと肩を震わせて光を見上げた。予想以上に近い位置に、自分と同じく水をかぶった光の顔があった。 「……ふっ」 そのとき、光が笑った。いつもの微笑ではなく、ちゃんと声に出してしかもこんなにはっきりと。 在紗は突然の光の笑顔に呆気にとられて、なぜ自分を見て笑っているのかさえもまったく心当たりが見つけられないまま、それでもただ「幸せ」だと思った。 全身が喜びでいっぱいに満たされていく。今まで感じていた痛みとは違う遙かにすっきりとした感情に、在紗は自分で驚いた。 光のことを「すき」だと認めただけだと言うのに、たったそれだけでこんなにも世界が美しく塗り替わるものなのか。 そうやって在紗が呆然と彼の笑顔を受け止めていたせいなのだろうか。光がいつの間にか在紗の服の袖を掴んできたとき、在紗は反応するのが幾分遅れた。 ぐっ、と、光が触れているのは指先だけなのに、なぜかとてつもない引力を感じた。 在紗が手元から再度顔を上げれば、光の顔からは先程までの笑顔は消えて、妙に真剣な色を帯びている。 在紗は、今まで過ごしてきた鳥籠の中のような狭い世界に愛着を覚えながら、震える目蓋をそっと閉じた。 だめだ。今も胸の奥で絶えず湧き続けるこの感情を、とても抑えられそうにない。 光は正気に戻ったのか、ふと在紗の服を掴む指先から力をなくして遠ざかりかけたが、今度はその光の服の袖を在紗が必死の思いで掴んだ。 「待っ、て……!」 顔が完全に紅潮しきっている自信はある。今の、光を呼び止めた声だってすっかり裏返ってしまっていた。 けれど、光があんなに真剣な顔をしてまでこちらに触れたことの意味は、今まで通りなにも見ないふり知らないふりを貫こうとした在紗でさえ嫌でも理解できた。 だからこそ、在紗は伝えておきたかった。勘違いでもいい。今ここでこの瞬間彼に伝えなければ、一生後悔し続けるだろうと言う確信があった。 なにせ何日か前の、高熱に魘されたときも同じことを考えていたのだ。 光と会って話がしたい。たとえ夜が更けたとしても、寮へと続く道を途中で違えたくはない。そうしてその先に待ち受ける自分の胸の内を素直に吐露できたらと、遠くなり行く意識の向こうで何度も何度も考えていた。 あのときの自分は確かに悔やんだ。思う侭に行動できない自分と運命を、変えたいと思ったのだ。 「……ねえ」 しかし、在紗は早くも自分の仕出かしたことについて猛烈に後悔していた。 自分が今組織の規律を破りつつあるのだと気づいて彼の衣服から手を引っ込めようとしたときには、既になにもかもが遅かった。 軽い水音をまとって、そんなに俊敏だったのかと疑いたくなってしまうくらいの素早さで、光は戻りかけた在紗の手を強く掴む。 後退しかけた在紗は、現在の場所に留まらざるを得ない。光に触れられた部分から直接彼の熱が伝わってくるようだった。 在紗は途端に現れた気恥ずかしさと、徐々に実感するようになった組織への背反と言う事実に泣きそうになりながらも、自分の手のひらをすっぽり包んでしまうほど大きい光の手を決して嫌だとは思わなかった。 「ねえ、樹サン」 いつもの光の声とはどこか違う、どこか甘ったれたような光の声が耳のすぐ傍で響く。 顔を上げたくない。 顔を上げたら今まで築いてきた彼との距離感が変わってしまう気がする。 「……俺になにか、言うことある?」 分かってるくせにわざと聞くのね。 在紗は心の中で恨めしげにぽつりと呟いて、光に悟られないように一つ大きく深呼吸した。それから、あるかもしれない、と、俯いたまま小さな声で答える。 すると、光はまたふっと笑い声を漏らし、 「じゃあ俺も」 と、どこかこの現状を楽しんでいるかのような声色で言った。 光のその言葉を聞いた在紗は、ああ、私はもうこの運命には逆らえないのだなと、回り始めたいくつもの歯車を脳裏に思い浮かべて覚悟を決めた。 「そこ! なにをしているの!」 しかし、在紗が勇気を振り絞り顔を上げたところで、唐突に子供たちの声にはとても似つかわしくない成熟した女の怒声が辺り一面に飛び交った。 急いで声の主を探すと、最下層に広がる噴水を覗き込むようにして、三、四階辺りの手すりから身を乗り出す大人の姿が視界に飛び込んできた。 「やっべえー! 見つかった!」 「だから言ったじゃない! アンタたちほんっとーに馬鹿ね!」 「ずらかるぞ!」 武史の一言で、それまで噴水の中でたむろしていた子供たちは蜘蛛の子を散らすように一斉にその場をあとにし始めた。 こう言うときの子供たちの機動力は目を見張るものがある。 もちろん大人に捕まって罰を受けるなどと言う悲惨な目に遭いたくなかった在紗も、すぐに身を翻して女子寮への道へ飛び込もうとした。 しかし、なぜか強い力でその場に引き止められる。 「待って」 何事かと振り向けば、光がいつものなにを考えているのか分からない顔をして在紗の腕を引いていた。 なんの躊躇いもなく、光の顔が在紗の鼻先の一寸前まで近づく。 「会える?」 どこで、とか、何時に、とか、どうやって、とかいろいろな情報がほとんど抜け落ちていたが、在紗には彼が言いたいことすべてが分かった。 そしていつもの在紗なら気恥ずかしさで黙り込んでしまう彼の問いにも、なぜかこのときばかりは積極的に応えることができた。 「あ、会う!」 在紗の力いっぱいの返答を受けた光が眩しそうに目を細める。同時に、そっと指先を軽く絡めてきた。 それは半ば反射だったかもしれない。けれど、在紗も思わずきゅっと光の指を握りしめて、それから名残惜しい気持ちで手を離す。 その日光に触れたのは互いに別々の寮への道を行く寸前、別れ際のその接触が最後だった。 BACK/TOP/NEXT 2013/05/31 |