第八話 女神たちの戯れ その日の朝の寝起きは、これまで在紗が細々と紡いできた人生史上最高に芳しくなかったのをよく覚えている。 まるで濃密に混ざり合った野菜ジュースの中を手足を縛られたまま泳いでいるかのような、そんな息が詰まるような悪夢を長い間見ていた気がした。 手足を持ち上げるのさえ億劫なそのひどい感覚に、在紗は目覚めた最初こそは倦怠感しか感じられなかった。 おかしいな、風邪は昨日で完治したはずなのに。しかし、そう思いながら仰向けになって深呼吸を幾つか繰り返しているうちに、だんだんと気分がよくなっていくのが分かった。 ふとベッドの横に視線をやれば、円形にくり抜かれた金縁の窓辺から差し込む高度一五〇〇〇メートルの陽光が穏やかに在紗を出迎えてくれていた。 よかった、風邪の後遺症は残っていない。これで今日から講義が受けられる。 一日のスタートが大きくマイナスから出発したために錯覚に陥っているのだろうか、先程までの憂鬱な気分はどこへやら、在紗はむしろ普段滅多に得ることのできない開放感さえ覚えた。 そうして図らずも気分転換に成功した在紗は清々しい気持ちのまま上体を起こそうとした。しかしそのとき、視界の端になぜかそれまではなかった輝かしい金色が動いた残像を捉える。 「在紗ぁー! おっはよー!」 「うっ」 起きあがろうとした在紗を遮るような形で、どん、とベッドの上に重量が加わった。 在紗たち子供の部屋は蟻の巣のように一人ずつ割り振られていたが扉の代わりとなるものなどはなかったので、誰でも気軽に各部屋を訪問することができた。それでも他人の部屋には用事がある限り行かないのが常だ。 在紗は眠気眼を擦りながら、部屋中に響き渡るような澄んだ声色で盛大に朝の挨拶を叫んだ金色を眺めた。 「うん、未佳……? おはよう」 「ちょっとー! なんで外出許可が下りたその日の夜に帰ってきてんのよ! せっかくあたしたちが治療室まで迎えに行ってあげようと思ってたのにー!」 きゃんきゃんと甲高い響きとともに、未佳の金髪のツインテールがさも悔しそうに上下に揺れる。 早朝からなんでこんなに元気なんだろう。在紗は他人事のように歪んだ未佳の顔を見上げながら、未佳が自分の体調を気遣っていてくれたことを素直に嬉しく思った。 「迎え……? いいよ、別に」 「よくないのー! こっちは事前に組み上げた綿密な計画があるんだから!」 「計画、って、なに?」 在紗がそれとなく聞き返すと、途端に未佳は、「だからあー」とか「それはあー」と、なにやら言いにくそうに、それでもどこか楽しそうな表情で言い淀んだ。 今日の未佳はどこか変だ。そうは思っても、具体的にどこが変なのかと問われると明確な答えを出すことはできなかった。 「あ、でも昨日は友常君に送ってもらったから。大丈夫だったよ」 未佳の不審点はひとまず見送るとして、在紗は昨日あったことを正直に話した。 すると、それまで幾重にも皺が寄っていた未佳の額はすうっとこちらが驚くくらいまっさらになった。 「は? 友常君って、えっ? 光のこと?」 「う……うん」 一瞬にしてぽかんと間の抜けた表情をした未佳だったが、在紗が首を縦に振るなりチッと、明後日の方向に向かって舌打ちをした。 「……クソッ、あたしの指示を待たずに行動とはやるわねアイツ」 「なんの話?」 どうも未佳の行動の意味が読めない。それと朝から未佳の一挙一動に踊らされている感が否めないのだが、気のせいだろうか。 在紗は、そろそろ朝食の席に着かなければ大人たちに叱られてしまうと思い、今もぶつぶつとなにかを呟いている未佳の目を盗んでベッドから抜け出ようとした。 しかし、そんな在紗をこのとき血の気が盛んだった未佳が見逃すわけもなく、在紗の両肩はすぐさま未佳の手によって強引に捕獲された。 「在紗! ぶっちゃけ聞くわ! 気になってる人がいるでしょう!」 「えええええいきなりなに……?」 ぐわんぐわんと両肩を激しく揺すられながら、在紗の目の前には猛々しいと形容するのが適切であるかのような未佳の顔が迫っていた。本人には悪いが、その形相はどこからどう見ても歴史学の講義で習った鬼の能面そのものだった。 在紗はいよいよわけが分からなくなった。 「もう調べはついてんのよ! 白状しろ!」 「ま、待ってってば! 白状ってなにを……」 「未佳! 病み上がりの人間の胸倉を掴むのはやめなさい! 在紗もまともに相手なんかしないの!」 そのとき、ちょうど朝餉に向かうために在紗の部屋の前を通りかかった静過の手によって、奇妙な攻防戦は収束を迎えた。 結局その日は朝以降ずっと未佳の奇行が現れることはなく――在紗のすぐ傍で静過の鋭い監視が光っていたせいもあるのだろうが――在紗は無事に昼休みを迎えることができた。 アースガルドの食堂の、縦に長いテーブルの真ん中辺りで昼食を取り終えた在紗は、いつも通り未佳と静過とともに貴重な昼休みの残り時間を特になにをするわけでもなくゆったりと過ごしていた。 「晩餐会」のように全体がぼんやりと薄暗く厳かではない、ただ何十もある窓から自然の陽光が流れてくるこの素朴な雰囲気が在紗のお気に入りだった。 昼休みの時間帯は男子と女子とで異なっているので、今このだだっ広い食堂に集っているのは全員が女子だ。 テーブルのあちこちで小さな集団ができてはあははと笑い声が上がったり、はたまた気晴らしに食堂の外に出ていく者もいた。 「在紗さあー」 そんな中、なんとなく昼食のフォークを口元に持っていったまま、演習のテストの遅れはいつ補えばいいだろうか、とか、この前の講義は出ておきたかったな苦手分野なのに、などと他愛もないことを考えていた在紗は、突然テーブルの向かいから自分の名を呼んだ声に顔を上げた。 そこには、ちらちらと静過の視線を気にしつつも、テーブルに顎を載せながらこちらを見上げてくる未佳がいた。 静過はもう未佳の言動をいちいち気にすることなく、悠々と未佳の隣で読書に耽っている。 「うん?」 「今日はなにをそんなに怒ってるのー」 「? 怒ってないよ?」 「ウソだーウソウソ!」 未佳はぶんぶんと首を横に振った。 そうだろうか? 自分のことは自分が一番知っているに違いないのだが、怒っているような素振りを見せた記憶はない。そもそも、この半日を通して見ても怒るような要素などこれっぽちもなかったはずだ。 在紗がきょとんと瞳を見張る傍ら、未佳はしゅんと肩を落として、恐る恐る口を開いた。 「あたしが朝からうるさくしたから?」 「えっ? だから怒ってないってば」 「……怒ってるもーん」 いつもの未佳らしくない弱弱しい声を上げると彼女はべったりとテーブルに顔面をつけた。 しかし、それからややあって静かに顔を上げて、 「在紗ぁ、ごめんね?」 本当に申しわけないと言わんばかりの表情とともに、未佳の大きい金色の瞳が在紗を見た。 在紗は、きゅうっと胸の奥が締めつけられるような愛おしい感情を抱いた。思わず、よしよし、と、テーブルの反対側にある未佳の頭を腕を伸ばして優しく撫でる。 「なにも謝ることなんてないもの。未佳は悪くないよ」 「そう?」 「うんうん」 「ほんとっ!」 うん。在紗がにっと笑って答えると、未佳も嬉しそうに身体を起こしてはにかんだ。 未佳はかわいい。こうやって素直に感情を表に出せるところも自分にはなかなかできないから、羨ましい。いっそのこと、未佳と入れ替わることができたら、とさえ思ってしまう。こう言う行動を取ることができるから、だからこそ未佳は男女問わず人気があっていつも周囲に絶えず人が集まってくるのだ。 そう、だからきっと、「彼」も――。 在紗は、突然自分の中でふつふつと湧き起こった感情に自分で驚いた。 それは昨夜ベッドにもぐりこんでから在紗を悩ませ続けたあの醜い塊に他ならなかった。 「あらあら、やっと二人は仲直りしたのかしら」 「えへへー! 静過にはご迷惑をおかけしました!」 「まったくよ」 ふうと溜め息をつきながら本を閉じる静過にじゃれつく未佳を見て笑っていた在紗だったが、心の奥では別のことを考えていた。 きっと、この感情が未佳には怒っているように見えたのだ。 昨晩、光に女子寮まで送ってもらったとき、それと寝起きでうっかりしていたが、朝、未佳がそれとなく口にしてた光の呼び方。 いつの間に未佳と光は親しげに下の名前で呼び合うようになったのだろうか。なにをしていても、そのことばかりを在紗は頭の片隅で考えてしまっていた。 決して未佳を恨んでいるわけではない。だって未佳はかわいい。男子が未佳のことをどう思っているかなど、想像に難くない。 けれどなぜか光が未佳のことをどう思っているのかを想像するだけで、いつもは愛おしくてたまらない未佳のことを羨み、果ては嫉妬しそうになる自分に吐き気を催すのだ。 まるで、身体のどこかにどす黒い感情が溜まっていってぐるぐると永遠に渦巻くかのような感覚だった。 この浅ましい感情を切り捨てたいと、在紗は強く思った。 未佳も光も大切だった。だからこそ、こんな感情を抱いてしまう自分に蓋をするべきだと在紗は思った。 BACK/TOP/NEXT 2013/04/27 |