第七話  大蛇のささやき







もしかしたらこれは自分だけの話なのかもしれない。
けれどひとたびでも治療室に入って出てくると、必ず言っていいほど、しばらくあるイメージが脳裏に付き纏うのだ。

簡単に言ってしまえば、それは水で、泡で、ゆらめく波間だ。
たんなる夢なのか、それとも本当に目にしている光景なのかは分からない。治療室に入っている間の意識はいつも熱や感冒のせいでほとんど残っていないはずだった。
それなのに、治療室に入っている長い期間のどこかで、ゆらゆらこぽこぽと揺れる水の向こうをぼんやりと見つめていたと、起きてから在紗は思い出すことがある。そして時折その水のカーテンの向こうに、誰かの顔がふっとよぎっていく気がするのだ。

それが誰なのか、在紗は知らない。思い当たる人もいない。そもそも、それは自分が知らない人かもしれない。
けれどその朧げな人の形をした顔は、眺めていると妙に胸の奥がほっこりするような感覚になるのだ。
例えば、そう、幼少の記憶の針にもひっかかることのない、自分の産みの両親だとか――。

「樹サン」

はっ、と、在紗は一瞬にして意識を取り戻すと同時に、反射で肩をびくりと震わせた。
随分と聞き慣れた声色で自分の名を呼ばれた気がして振り返ると、赤い蛍光マーカーで大々的に“関係者以外立ち入り禁止”と書かれた治療室の鉄扉の横に、今や一人の黒髪の人間が立っていた。光だった。

治療室の周りは普段から人気が少ない。それは治療室が生活居住区とは一線を画した航空要塞アースガルドの深淵部と言う辺鄙な場所に設けられていたためでもあったし、治療室は治療を受ける者以外は立ち入り禁止だとする組織における暗黙の了解があったためでもあった。
だから、夜も更け始めた頃、ようやく体調が回復して外出許可を得ることに成功し、さらには明日になるのを待ち切れずに治療室から出てしまった在紗が突然の人間の出現――とりわけ光の存在に驚嘆してしまうのもあながち無理はなかった。
在紗は何度も何度も瞬きをして、わずか数メートル離れた場所で微動だにせず立ち尽くしている光の顔を見つめた。これこそ夢ではないかと思った。

「と、友常君?」

在紗が驚き顔のまま質すと、光は口の端を心持ち薄らと上げて笑ったかのように見えた。

「風邪治った?」
「あ、うん。治ったよ。ありがとう」

そうやって在紗が答え終わるのを待っていたかのように、光は在紗の言葉が途切れると同時に歩き出した。そのまま在紗を追い越すと、アースガルドの上階へと続く道を先導し始める。在紗は、いつの日か自分が光を追い抜きざま寮へと続く道をリードしたときとどこか似ているなと思った。
もしかしたら寮まで送ってくれるつもりなのだろうか。そう考えたとき、在紗はどうしようもなく嬉しくなった。
在紗は久々の歩行に若干足をふらつかせながらも、光に悟られないようやっとのことで彼の背に追いついた。

「ええと……友常君、久しぶりだね?」
「樹サン、二週間も治療室に入ってたよ」
「えっ、二週間? ウソ!」
「ほんとう」
「二週間、ってことは……。ああ、演習のテスト逃しちゃった……私だけ追試かな……」
「悩むところってそこ?」

だってテストだよ? 先生に怒られるかもしれないじゃない?
在紗が両手で頬をすっぽりと包みながらぼやくと、でも治療室に入っていたんだからいくら先生だって咎められないと思うけど、と、小さな声で光がフォローしてくれた。

「治療室にいると日付は分からないんだ?」
「うん、今回は熱があったから日付とか記憶があやふやなの。大分寝てたってことだけは分かるんだけど」
「二週間だよ」
「そう、なんだよね……」

二週間もの月日がすぎた記憶はない。あるのは、ただ水の中をゆらめく大小様々な気泡と紋様だけだ。

「あ、そう言えば。友常君?」
「ん」
「どうしてここまで来てたの? 今夜も散歩?」
「うーん……、うん」

その微妙な間はなんなのだろうか。なにか治療室周辺の散策に好ましくない理由でもあるのか。
前述の通り、治療室一帯は華やかなアースガルドの中枢部と比較すると見事なまでの無機質な灰色一色で、ゴウンゴウンと唸る制御室の振動がダイレクトに伝わってくるほどだ。
人が多く行き交う道でもないし、遊ぶ場所でもない。これまでの光の行動から推測される散歩コースにはとても似つかわしくなかった。

だが、在紗はそれ以上光の行動に余計な詮索をするのをやめた。
今の彼の声色から、この話題には首を突っ込んでほしくないと言う感情が容易に読み取れたからだった。

それでも、光は星を見るのがすきだったはずだ、と思う。だから光はこんな錆びれた場所、すきこのんでやってくるはずがないとばかり考えていたのだが。
在紗は首を捻りながら、横を歩く光を少しだけ見上げて彼の表情を窺い見た。光は至極普段通りの淡白な表情をして、前方の一点のみを漠然と見つめていた。
そこで在紗は、最後の足掻きとでも言わんばかりに別の問いを投げかけた。

「でも、よく私が治療室にいるって分かったね」
「未佳に聞いた」

それは完全に光のなんでもない一言だった。が、在紗にとっては十分に意味を持っていた。
在紗は思わず自分のスカートの裾を掴んだ。同時に、ずくん、と、心臓の真下のあたりが低く呻ったような気がした。

「……あ、そう? 未佳って、えっと、“あの”未佳に?」

こくりと、光は一回だけ首を縦に振る。在紗はもうなにも言葉が見つからなかった。
未佳のことは下の名前で呼ぶのね。そう言ってしまいたい衝動を、寸でのところで強く抑え込む。

不思議な感覚だった。二週間前、熱に魘されていたときとはまた違う痛み、まるで精神のほうから徐々に嬲り殺されていくような鈍くて長い痛みだった。
在紗は、少し時間が経てばこの奇妙な感覚はすぐに治まると思っていた。けれど、それから光と並んで歩きながらどんな会話をしようとも、そのあと無事に寮に着いたあとベッドに入って寝よう寝ようといくら念じようとも、その胸の痛みは消え去ることはなかった。

光が誰を名前で呼ぼうが、自分にはそれを咎める権利はない。まったく関係のないことではないか。
そうは思うのに心がついていかない、こんな感覚は初めてだった。いったいぜんたいこの感情をどう処理していいのか、在紗は皆目見当がつかなかった。













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2013/01/28