第六話  運命のわずらい







それはほんとうにすごく稀なことなのだけれど、何年かに一度くらいの頻度で体調が優れない日がやってくる。
昨日までは元気に実戦演習をこなしていたのに、翌朝目が覚めてみると別人のように身体が重くなっている。そうして、ずきずきと頭が痛かったり、高い熱に魘されていたりするのだ。

他の子供は皆元気なのに、どうして私だけがこんな身体なのだろう。
たいていの子供は滅多なことでは病に罹らない。だからこそ在紗は、自分の思う侭にならないこの肢体がなおさら疎ましかった。
いや、そう言えば何ヶ月前は未佳が、その前は静過の体調が悪かったっけ。しかし、当時の彼女たちの容体は、今こうして女子寮のベッドの中で高熱に喘ぐ自分ほどひどい有様ではない。

「在紗、在紗」

遠くから何度も呼ばれて、ようやく在紗は薄らと目を開けた。白くぼやけた視界の中心には誰かの顔が映っている。が、誰なのかは分からない。
聞き覚えのある声だと、このときの在紗はただそれだけ思った。

「“かみさま”が呼んでる。治療室に入りなさいって、立てる?」

誰かが自分に向かってなにかを諭している。けれど腕を動かすことはおろか、イエスやノーと言った簡単な文句を口にすることさえもできなかった。

「大丈夫、大人にきてもらうわ。未佳、やっぱりさっきの、頼んで」
「分かった」

ぱたぱたと、軽い足音が遠ざかっていく。その心地いいリズムを耳にしながら、在紗は気だるげで重くなってきた目蓋に再度幕を下ろした。
これから治療室に入るのだと言う事実が、時間が経つにつれ頭の中ではっきりとしてきた。

治療室に入れば最低でも三日は外に出られなくなる。病気を治すための処置だとは理解しているのだが、その間にアースガルドの誰とも接触を許されない。それは在紗にとってひどくつらいことだった。
在紗は、朦朧とする意識の中、ふと一人の人間の顔を思い浮かべた。瞬間、きゅうっと心臓が締めつけられたのが分かった。
会ってないな。会えなくなるな。

(喋りたいなあ……)

一見なにを考えているのか分からないような顔をして、それでも優しくすれば嬉しそうに応えてくれる。彼と話がしたい。彼が飽きるまで語り明かしたい。
何日か前の門限間際に会ったきり、在紗は光とまだ顔も合わせていなかった。
別れ際の約束、私のほうからやぶっちゃったなあ。早く病気が治ればいいのに。胸の奥からあふれてきたやるせない感情に、在紗はもどかしくなった。けれどどんなにその感情を抑えるため胸に蓋をしようとしても、やはり腕は持ち上がらなかった。

しばらくして、在紗は腕や脚を第三者に掴まれる奇妙な感覚を覚えた。
それからどうやって深い眠りについたのかは覚えていない。気がつけば、在紗は熱のせいでぐるぐると渦巻く精神世界に身を投じていた。







空になった何枚もの白い食器のプレートを一箇所に積み重ねながら、静過は、おや、と思わず目を見張った。
アースガルドの子供たちが一堂に会することのできる数少ない機会の「晩餐会」は、既にお開きになっている。静過の周囲は、運動場のようにだだっ広い食堂から退出しようと席を立ち始めた多くの子供たちでがやがやと騒がしい。

そんな喧騒の中、人の波を掻い潜り、珍しいタイプの人間が近寄ってきたのである。
いつも静過の隣に座っていた在紗の空席を埋めるようにして、今日の静過の隣には未佳が詰めて座っていた。その未佳のうしろに今、とても未佳と親しくなさそうな――つまり、社交的で人付き合いが得意な未佳とはおおよそ真逆の部類に属するであろう少年が立っている。
彼の背はそれなりに高かったがあどけない顔つきで、首元の辺りでくるんと小さく跳ねた癖っ毛が印象的だった。しかし、なんとも人畜無害そうなその表情が、余計に彼の存在感を薄めているような気がした。

そこまで考えたとき、静過は彼の名前がどうしてか思い出せないことに気がついた。はて、おかしいな見たことはあるはずなのに。いったい彼は誰だったか。
そうして静過が考え込み始めたとき、少年は未だに彼に背を向け続ける未佳に向かって恐る恐る言葉を発した。

「……あの」

すぐに察した静過とは異なり、話しかけられてようやく未佳は少年の登場に気がついたようだった。
しかし、未佳は目の前の少年を無視して途端にきょろきょろと辺りを見回す。
なにをしているのだろう。反対側の席のプレートも片づけながら静過が未佳の行動を怪しんでいると、未佳はややあってから視線を少年のほうに戻した。

「あたし?」

問われて、少年はこくりと一回だけ頷く。そのあとで、なにかを探すように女子テーブル全体に視線を走らせながら彼は静かに口を開いた。

「あの、樹サンは?」
「樹?」
「……樹在紗サン」
「あー在紗のことね! 在紗は今風邪引いてるの。治療室に入ってるわよ」

未佳がなんでもないことのように答えると、少年の黒の瞳は意外とでも言わんばかりに見開かれた。
無表情だとばかり思い込んでいたが、案外考えていることが顔に出るのだな。静過は少年の一挙一動を観察しながら漠然と思った。

「いつから?」
「一週間くらい前の朝から」
「いつまで?」
「さあ、治ったら出てくるんじゃない?」
「ただの風邪?」
「多分ね。……って言うか、さっきからアンタ誰?」
「友常光」

未佳と少年のやりとりを盗み聞きしながら、静過は、ああそうだ、と彼の顔と名前とが脳内で綺麗に合致するのを感じた。どうして今まで思い出せなかったのかが不思議なくらいだった。
静過が一人光の存在に納得する傍ら、未佳はじろじろと彼を頭のてっぺんからつま先まで隈なく眺めて吟味したあとで、挑戦的な目つきでもって応じた。

「ふうん、光ね。で、在紗に用事でもあるの?」
「別に。見かけなかったから」
「はあ? それだけ? アンタ在紗と仲よかったっけ?」
「分からない」

あ、これはまずい。と、静過は未佳の様子を横目で窺った。
これまでの経験から、未佳は光のような手合いはあまり好かない場合が多い。つまり、答えをあやふやにしてその場の雰囲気に流すような、まさに今の光の受け答えそのものだ。
光の口調は驚くほど淡白ではっきりとしていたが、この場合の問題点は、未佳が期待する答えと随分違った返答を光が口にしてしまったところにある。

静過は光に助け船を出すべきかどうか一瞬迷った。あまり光とは面識がなかったが、どうやら光に悪気がなさそうなのは確かだった。
だが、彼に助言をしたところで、一度負の方向に形成されてしまった未佳の感情が好転するとも言い難かった。
どうしたものか。しかし、静過が抱いた心配はすぐにある人物によって払拭された。

「おいおい、光。お前なに未佳にちょっかい出してるんだよー」

赤茶色の短髪と、威勢のいい声色。静過が今度こそ完全に未佳のほうを振り返ると、未佳と恋仲の関係で既に組織の子供たちの間では有名人となった武史が、今や光の背後に立ってその肩に慣れ慣れしく腕を回していた。
しかし、光は途端にむすっと顔を曇らせると武史の手を淡々と振り払った。

「……林サンにはちょっかい出してないよ」
「うわっ、その『林サン』ってやめて! ぶわって鳥肌が立った!」

武史は、光に手を払われたことをこれっぽちも気にかけていない風で、未佳の反応を面白そうに眺めるとにっといっぱいに笑った。

「おー。未佳が林って呼ばれてると不思議だなー」
「やっぱり? やっぱりそう思うわよね?」
「つーか、おっまえー光ー! そんな無愛想だと未佳に相手にされないぞ! ほら、笑え笑え!」
「……頬引っ張らないで。やめて」

なにかとちょっかいをかけてくる武史に、光は至極迷惑そうな顔をしている。
静過はどこからどう見ても相性がよくなさそうな二人のやりとりに吹き出しそうになりながら、テーブルの上の食器の片付けに戻った。
しかし、そのあとで耳にした第三者の意外な一言に、静過は勢い胆を冷やした。

「あら、そう? あたし意外と光に興味があるわよー?」
「はあ? マジで!」
「だってあの在紗とねえ……ふんふん? うん、いいんじゃなーい?」

腕組みをしながら面白そうな顔つきをし始めた未佳がいったいなにを考えているのか、静過は嫌な予感しかしなかった。

「ま、仲良くやっていきましょ! とりあえずあたしのことは『未佳』でいいわよ。天然くん」
「おい未佳! どう言うことだよ興味ってー! 詳しく話せよー俺は認めないからな!」

絶対にわけが分からないまま未佳と握手しているに違いない光の姿を視界の端に捉えながら、静過はやれやれと肩を竦めた。
こうしてどんなタイプの人間ともほぼ仲良くできるのが未佳の長所だ。しかし、光とのそれは明らかに、在紗をからかうための口実作りに他ならなかった。

仕方ない、病み上がりから数日は在紗に加勢するとしよう。
なにやら怪しげな結託を結び始めた三人を置いて、静過は内心深く溜め息をつきながら、ゆっくりと席から立ち上がった。













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2013/01/15