第五話  ユミル







夜の闇にじんわりと溶けていくようなその色が視界に飛び込んできたとき、出会えた嬉しさと目線も合わせられない恥ずかしさとが混ざった複雑な感情が、胸の中で一気に弾けた気がした。

「……あ」
「……え」

ふざけているのではない。
ただ、互いに互いが再びそこにいるとは思っていなかったのだ。
同じような反応をしてしまったことを笑い飛ばす余裕もなく、在紗は信じられない気持ちで、「あ」と口を半開きにしたまま目の前に立つ人物を注視した。

「樹サン……またいた」
「失礼ね。それはこっちの台詞よ」

辺りはすっかり夕闇に包まれていて、片面がガラス張りになっているアースガルドの長く広い回廊には彼、光の姿しか見受けられない。
ちらちらと輝く数多の星や月の淡い光に照らされた光の表情はぼうっと青みがかり、どこか幻想的に浮かび上がっていた。

まるで忘れられない夢をもう一度やり直しているみたいだ。と、在紗は思った。
最初に光と出くわしたときと寸分も変わらない状況に、なぜか身体の奥底に埋まっているはずの心臓が、今や手のひらの上で拍動しているかのような奇妙さを覚える。
在紗は、途端に震え出した指先をなるべく光に勘づかれないよう一つ深呼吸をした。そうして、今出てきたばかりの部屋の重い扉を、ありったけの力を込めてガシャンと閉める。

「友常君こそ、こんな時間にどうしたの? 迷子?」

今日の昼間、不意に光と視線が合ってしまったことをこれっぽちも気にかけていない風を装って近づく。
在紗の問いに対して、光はその場に立ち尽くしたまま軽く首を横に振った。

「違うよ。散歩」
「今日は迷子になってない?」
「うん。もう覚えた」

覚えたのか。在紗は、何日か前、男子寮まで案内する道中しきりにきょろきょろと周囲を見回しながら首を傾げていた光の姿を思い出した。
きっと道順を覚えるために相当がんばったのだろうなと、彼の努力を手放しで褒めてあげたくなった。

頭を触ったら怒るだろうか。いや、それよりも自分の手が彼の頭のてっぺんに届くかどうかが問題なのだが。
背伸びすればなんとか、と、光との距離を推し測る在紗に気づいているのかいないのか、「覚えた」と言ったきり黙っていた光は、在紗の背後にちらと目をやるとふと口を開いた。

「樹サン」
「えっ、なに?」
「そこ、制御室でしょ? あまり入るなって言われてるけど、いいの?」
「知ってたの?」

道に迷うくらいだ。だから光は、一つ一つの部屋の詳細までは知らないと思っていた。
在紗はひょいと肩を竦めてから、なんとはなしに言った。

「制御室って言っても、一番末端のところだけどね」

一緒に行く? 在紗は寮の門限があったことを思い出して、光を追い越す間際に足を止めた。
光はガラス張りの壁の向こうを一瞬名残惜しく見やったあとで、ゆっくりと歩き出した在紗の横に並んだ。

航空要塞アースガルドの動力源を適切に運用する制御室、通称「ユミル」は何箇所かに分散されている。
最も重要なエネルギー部や最終決定を行う管制システムはアースガルドの深淵に設けられていて、組織の子供はおろか普通の人間も立ち入りはできない。だが、俗に制御室と呼ばれる小さなコントロールルームは入ろうと思えば誰でも足を踏み入れることができた。

コントロールルームと言っても、在紗が出てきた部屋のような末端の制御室に至っては、なにかを作動させるようなボタンはない。ただアースガルドを裏から支える太いパイプがごろごろと転がっているだけであった。
在紗は歩きながら、先程まであの部屋にいたせいもあってか、記憶の底に眠りかけていた在りし日の出来事を次々に思い出した。

「小さい頃にかくれんぼしたじゃない?」
「……かくれんぼ?」
「うん。あの部屋で」
「……してない」
「あれ? 友常君はいなかったっけ?」

おかしいな。組織の子供なら一人残らずかくれんぼに参加しているものだと思っていたのだが。
光はなにか理由があって不在だったのだろうか。そう考えながらも、在紗は話を続ける。

「特に私と静過と未佳はね、なかなか見つからなかったの。例の――あ、そっか。かくれんぼしていないから友常君は知らないのかな? あの部屋には白い花が咲いているんだけどね、その花を茎のところで折って口に咥えるの。そうすると、“かみさま”が鬼のときに全然見つからなくて」
「どうして?」
「さあ、どうしてなんだろう? でも本当に最後の最後まで見つからないの。みんな『裏技』って呼んでた」

ふうん、と、光が生返事をする。それでも在紗は喋り続ける。

「でもずっと見つからないのって案外暇なのね。それでも、隠れた場所でじっと息を殺していると、身体中にあの部屋の、制御室の低い唸りが響いてくるの」
「唸り?」
「そう。まるでアースガルドが呼吸するような、あ、でもそれは正真正銘機械の音なんだけど。それでもあの振動が私にはすごく心地よくて、忘れられなくて、だから今もときどきあの部屋に行くんだ……」

言いながら、在紗はうっとりと目蓋を閉じた。過去と現在の区別が、この瞬間だけ境界線をなくして胸の中で溶け合う。
今にして思えば、あの振動の心地よさは、「絶対に見つからない」と言う一種の安心感からくるものだったに違いない。
『裏技』を用いて、絶対鬼に見つからないと言う確信があったからこそ、あのすべてを震わすような低い唸りに身体のすべてを預けることができたのだ。

部屋には太く長いパイプが何十本も転がっていた。扉から地面から天井からなにからなにまで無機物で、一般的には安心とは程遠い場所だったのかもしれない。
けれど在紗にとってはそれでよかった。あの空間こそが、「樹在紗」と言う存在とぴったり合致するところだった。
長くあの振動に包まれていると、自分でも覚えていない幼少期を思い出せる気がして、その懐かしさがどうしようもなく愛おしかった。かくれんぼをしなくなった現在においてもこうして重い扉を開くのは、きっとあの感覚を呼び起こそうとしているせいなのだと考えていた。

しかし、そこまで過去を回想した在紗はすぐにはっと正気を取り戻した。
今のは少し夢を見すぎた表現だったのではないか。時間が経つにつれて自分の口走った言葉が恥ずかしく思えてくる。

「って、あの、比喩みたいな感じ? 本当にアースガルドが呼吸してるわけじゃなくてね?」
「分かるよ」

だが、それまで聞き役に徹していた光は、慌てて弁解に走る在紗の言葉を潔いほどにぶった切る。そのあとで、ぽつりと呟いた。

「そっか、『呼吸』か……。文学的だね」

ほんの一瞬だけ、光がこちらを見て口元を緩めた気がした。
それは褒められたことへの嬉しさなのか、それとも光が少しでも笑ってくれたことに対しての快楽なのか分からない。しかし、その感情がなんだったにせよ、在紗は胸の奥がきゅっと委縮するような感覚を覚えた。
あとちょっとでいい。もうちょっとでいいから今みたいな顔をしてほしい。と、在紗は足元を見つめながら心の中で祈った。

けれど、その願いはかなわなかった。在紗がふと顔を上げると、いつの間にか数メートル先には女子寮の大きな扉が聳え立っていた。
ついいつもの癖で、無意識ながら女子寮へ繋がる道を選んで来てしまったらしい。
せっかく誰の目もないところで光と会うことができたのにもったいないな、と思う反面、無事何事もなく女子寮に到着できたことになぜか在紗はほっとする。

「もう寮だ」
「しょうがないよ、門限があるから。友常君もあるでしょう?」
「……あるよ」

ここで別れるのが状況的にも妥当だと言うのに、光は不思議とその場から動こうとしない。
いったいなにが不満なのか。しばらく考えた在紗は、最初に彼と会ったとき、外を見るのが好きだと言った光の言葉を思い出した。

普段は朝から夕方まで休むことなく勉強。自由にアースガルド内を探検できる時間は、夕食後のほんの二、三時間しか設けられていなかった。
こんな日常では、確かに、光がもどかしく思う気持ちも理解できないことはない。

「散歩、ちょっとしかできなかったもんね。夕ご飯を食べたらすぐに見て回ればいいんじゃない?」
「……そうじゃない」

なにが、そうじゃない、のだろうか。
在紗が彼の言葉の真意を汲み取れずに悩んでいると、光はその身体をくるりとこちらに向けて、じっと在紗の顔を見つめてきた。

「樹サン、もう行くの?」

身体の横に張りついている彼の手が、在紗の服の袖を掴もうとして寸前で思い留まったかのように見えた。
在紗は急にわけが分からなくなった。思考回路がショートしたとは、こう言う状況のことを指すのかと思った。
いったい光は、自分になにを求めていると言うのだろう? 道案内か? ただの話し相手か? それとも、自分の存在そのものなのか?

最後の考えに至ったとき、在紗は身体中からどっとあふれ出た気恥ずかしさに押し潰されそうになった。
そして、上手く説明できないが、「この場から逃げたい」と思った。だから、一刻も早くこの状況から脱するために咄嗟に嘘が口を衝いて出た。

「大丈夫! また会えるよ!」

男女が顔を合わせる機会は滅多にないから、この一言は誰が聞いても完全に賭けであることは明確だった。
どくんどくんと、身体中を巡る血液が頭のほうにまで激しく流れ込んでくるのが分かる。
光は解せないような難しい表情をしている。そんな彼を納得させようと、在紗はそれまでまったく思ってもなかったことを口にする。

「今度会ったら、私がいろいろ案内してあげるから。ね?」
「……分かった」

そうして大人しく頷く光はいつもの光に戻っていた。さっきまで別人のように険しかった光の雰囲気は、元の読み取りにくい独特の彼の佇まいに変わっていた。
在紗はこのとき内心ひどく安堵して、女子寮の扉へと続く道に一歩踏み出した。

「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」

けれど在紗は、同時に男子寮に向かって歩き出した光の背中を見た途端、これまでにない後悔の念に苛まれた。

――あれは、嘘だ。

突然、在紗はつい数秒前の自分を殴りたい衝動に駆られた。
光ともっと話をしていたい。ずっとずっと会話が続くまで、永遠に意味のない言葉たちを投げ交わしていたい。
寮に帰る道中、心の奥底では光と同じことを考えていたはずだった。なのに、その感情に気がつかないふりをして強引に蓋をした。そんな自分がどうしようもなく恨めしかった。

在紗は、光の姿が廊下の角を曲がって見えなくなるまで女子寮の扉の前から立ち退こうとはしなかった。
次に光と会えるのはいつになるのか、約束を交わした当事者である在紗はもちろんのこと、他の誰も知る由はなかった。













BACK/TOP/NEXT
2012/11/18