第四話  ヴィンゴールヴ







この頃の私はどこか変だ。
以前がまったくそうでなかったわけではない。けれど最近は特に、夕方になると「惜しい」と思ってしまう。明日が来るのがいつも以上に待ち遠しい。

「ゆえに探知距離の延伸や電波妨害への対処能力の向上、また射程の長い空対空ミサイルの装備が可能となり、電子戦能力に優れた航空機にも対応できるのです」

くあっ、と、未佳が盛大な欠伸をする。静過は教壇に立つ教師の言葉を一言一句漏らさないよう、真面目にノートに鉛筆を走らせている。
そこで在紗はどうなのかと言えば、未佳と静過を足して二で割った感じと言えばちょうどいいだろうか。
つまるところ、一見授業を真剣に受けているように見えるものの、頭の中では授業とはまったく関係のないてんでばらばらなことを考えていたのだ。

半円形の、一〇〇〇人は収容できるであろう広さの講義堂に最低限の採光として取りつけられている横長の窓からは、穏やかな日の光がこれ見よがしに漏れてくる。
うららかな昼下がりだった。教師の熱心な解説も、意味を深追いしようとさえしなければBGMとしてはちょうどよかった。

「では、本日の講義はここまで。分からない箇所は各々把握しておくように」

教師の一声で、講義堂に集まっていた女子たちは途端にぱたぱたと教科書を閉じて、それぞれに席を立っていく。
最初はぼうっとしていた在紗も、数秒後に思い出したように慌てて教科書とノート類をまとめると、今まさに講義堂を出ようとしていた未佳と静過の組に追いついた。

「次の小テストっていつだっけー?」
「さあ……そのうちやるんじゃないかしら」
「あーあ、成績がいい人は考えることが違うわよねー。こっちは及第点を取るために必死なのにさー」
「普段からちゃんと勉強していればいいのよ。テストの前に焦って詰め込むから痛い目を見るの」
「分かってるってばーもー!」

痛いところを突かれて憤る未佳を余所に、あくまでも冷静な静過はひょいと在紗の顔を覗き込んだ。

「在紗はどう?」
「うーん。ちょっと航空史は苦手かも……」

この頃講義をまともに聞いていないからなのかもしれないが、それにしても「歴史」と名のつくものは昔からどうも得意ではなかった。
実技なら他の誰にも負けない自信があるのだが。在紗はうーんと考え込みながら、ぱらぱらと手元の航空史の教科書をめくった。
だが、苦手とは言え落第だけはなんとしてでも避けたかった。ここはやはり、自習の時間をもっと増やすためにも夜間の“アレ”を減らすべきか。などと考えていた在紗は、ふと顔を上げた。

「あれ、そう言えば次の教室はどこだっけ?」
「ヴィンゴールヴの生物棟で植生実験」
「本当? やった!」

ヴィンゴールヴは女子だけが使用を許される講義棟の総称だ。一番新しく着工されたとあってアースガルドのどこよりも清潔感があり、ヴィンゴールヴでの講義があると分かるとそれだけで愉快な気分になった。
ちなみに先程まで授業を受けていた講義堂は、男女どちらも使用できる共用の施設である。
しかし、このとき在紗が喜んだのにはヴィンゴールヴ以上の理由があった。植生実験は、在紗がすきな実技のうち最も得意とする分野だったからだ。

「在紗ってほんと、植物関係は強いんだよねー」
「ええ? 未佳だって実戦演習は女子断トツじゃない!」
「あんなのテキトーに照準を合わせてぶっ放してるだけよ。まったく、こんなのいつ役に立つんだか……」

それもそうだよね、と言って、在紗は笑った。
いつの間にか、在紗たちの集団はアースガルドの中枢部を歩いていた。

アースガルドの中枢部は、まるで巨人が天からスコップで掘り下げたかのような大きな吹き抜けになっていて、アースガルドが何層もの階からなっていることを如実に視認することができた。
吹き抜けの周囲は金の手すりで縁取られており、それはどこか高級デパートさながらの様相を呈していた。余談ではあるが、この手すりから一旦身を乗り出せばいつもはあまり感じられないスリルが体験できるとあって、組織の一部の人間にはなかなか好評の穴場スポットでもある。
そうして恐怖を抑え込んで垣間見る最下層には、いっそプールかと錯覚してしまわんばかりの規模の人工の噴水が、昼夜を問わず飛沫を上げている幻想的な光景が待ち受けていた。

その吹き抜けに差しかかったとき、在紗はなんとはなしに階下にちらと目をやった。
一番下の階の噴水の近くでは、ちょうど何人かの男子の集団が通りすぎるところだった。彼らは互いに談笑しながら、どうやらこちらと同じく次の教室へ移動している最中のようだった。

「あ、」

そのとき、在紗と同じく吹き抜けの下に目をやった未佳の表情がぴくりと動いた。
在紗がなにごとかと思って未佳の視線の先を辿ってみると、そこに噂の赤茶色の髪をした少年がいることに気がついた。

ああ、彼が例の――と、在紗が彼の姿を認めると同時に、赤茶色の髪の少年、武史はこちらの視線を察知したのかぱっと弾かれたように上を向いた。
すると、にかっと、それはそれは嬉しそうな表情をしてこちらに向かって右手を振り翳す。

「未ー佳ー!」
「うっさい! 早く授業に行け!」

未佳は手すりを掴みながら、階下に向かって怒鳴りつけている。
けれど、そう言う未佳の頬はほんのりピンク色に染まっていて、在紗は自分のことではないのに胸の奥がくすぐられるようなこそばゆさを覚えた。

彼のその屈託のない笑顔は、在紗の隣に立つ金髪の少女に向けてのものだと知っている。
それなのに、どうして他人の情愛を伴った顔がこんなにも眩しいのだろう。どうしてそんな顔を向けられた未佳を、「羨ましい」と、妬みそうになってしまうのだろう。
これは、組織の人間に見られでもしたら処罰を喰らうかもしれない非常に危険なやりとりだ。それでも在紗は、このときの未佳と彼の応答ほど心揺さぶられた瞬間を知らなかった。

(でも、なんでだろう……?)

突如心の奥でふつふつと湧き上がってきた疑問に、あれ、と、在紗は小首を傾げた。
なぜ彼らが羨ましいのか? なぜ妬ましいのか? その根本にあるものは、いったいなんなのだ?
しかし、在紗がいくら考えを巡らせたところで納得するような答えは一向に顔を出してはくれなかった。

「未佳……」
「分かってる」

それまで沈黙を貫いていた静過の手が、すっと、武史の視線から庇うように未佳の肩を引き寄せる。
恐らく静過は、この二人の交流をこれ以上組織の人間に感知されないようにと警戒しているのだろう。
未佳も今回ばかりはやりすぎたと思ったのか、あっさりと手すりから手を離すと階下が視界に入らないところまで身を引いた。

代わりと言ってはなんだが、在紗がもう一度吹き抜けの下に目をやると、武史が他の複数の男子にどやされているなんとも微笑ましそうな様子が見えた。
女子と男子では処罰に対する危機感の度合いが異なるものなのだろうか。
在紗は、ちらと、ヴィンゴールヴへ向かう寂しげな美佳の背中と見比べてから、なんだかやるせない気持ちを抱いた。

奇妙なこともあるものだ。早足で歩き始めた未佳と静過に置いていかれないよう踵を返そうとした在紗は、しかし遅れ馳せながらその男子の集団の一番うしろに見慣れた姿を発見して、内心ぎょっとした。
癖っ毛の黒髪に誰にも左右されないような独特の佇まいの彼は、何度目をこすっても光に他ならなかった。

なんだ、光もいたのか。武史に気を取られて今の今までまったく気づかなかった。
在紗は予期せぬ光の登場に若干驚いたが、どうやらあちらは気づいていないらしい。光はぼんやりとした風で、武史たちがわいわいと戯れているのを遠目に、その場に留まっているようだった。

先日、自分と出会ったあのときは親しげに会話をしてくれていたのに、普段はけっこう大人しいと言うか、そうでもないのか。
在紗は彼の意外な一面を捉えられたようなどこか新鮮な気持ちで、最後にもう一度だけ、と、光の姿に目をやった。
しかし、他の誰ももうこちらを気にかけてなどいないと言うのに、タイミングをズバリ合わせたかのように、何人もいる男子の集団の中から光の黒の双眸だけが唐突に上を向いた。

在紗は自分でも知らないうちに手すりから離れて歩き出していた。
既に未佳と静過の姿は数十メートル先にまで遠ざかっている。急いで二人のあとを追う。
けれど、あと数歩で未佳たちの集団に加わろうかと言うところで、在紗は足を止めた。今のこの顔では、彼女たちに不審がられてしまうかもしれないと思ったからだった。

きちんとなんでもない風を装えただろうか。と、在紗はさっきの光の視線を思い出して口を噤んだ。
鏡を持っていなくても分かる。きっと今の自分の頬は、すっかり紅潮してしまっているに違いない。
どくんどくんと激しく拍動する胸を、教科書を持つ手とは逆の手で必死に抑えながら、在紗は先程の光の顔を思い出した。あの真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は、完全にこちらに気がついていた。それくらい真っ直ぐな視線だった。

どうか偶然でありますように。でも、もし万が一、光のあの視線のタイミングが偶然でなかったとしたら――。
しかし、どんなに光の心情を予測したところで、そこに本人の言い分が加わらない限り、正解は靄の向こうに隠れたままだった。













BACK/TOP/NEXT
2012/10/31