第三話  林檎







運動会でも開催できるのではと思うくらい広いアースガルドの食堂には、細長いテーブルがずらりと並べられている。
けれど肝心の明かりはと言えば、机の上に等間隔に置かれたたった数本の蝋燭だけで、この場が異様な雰囲気に包まれていることは部外者でも容易に理解できた。
今日は月に一度だけ開かれる、アースガルドの恒例行事「晩餐会」に当たる日だった。

組織の子供たちは男女のテーブルに分かれ、各々木製の椅子に座ってじっと下を向いている。
目の前にはいつも以上に豪勢な食事が並んでいたが、誰一人として表情を明るくさせる者はおらず、また隣の友人と話し出す者もいなかった。
食堂に集った全員の服装も、白のワイシャツや黒のパンツ、スカートと言ったように礼服で揃えられていたので、まるでお通夜にでも出席しているかのような光景だった。

しかし、そんな固い空気の中、在紗だけは違っていた。
在紗はほんの気持ちばかり顔を上げると、好奇心のこもった瞳でざっと食堂全体を一瞥した。探していた人物は意外にも早く見つけることができた。
在紗が座っているテーブルと一つ隣の、男子テーブルの真ん中辺りの席に座って、首元まで襟のある晩餐会用のシャツを身につけながら窮屈そうに眉を顰めている黒髪のその人は、在紗が昨夜寮まで道案内した少年、光だった。

よかった。と、在紗は彼の姿を見てなんだか微笑ましく思った。
ちゃんと晩餐会に出席している、と言うことは、あのあと寮に戻ることができた証拠だ。

「皆さん、準備はできましたか? 今日の食事は特別ですから、全部食べなきゃいけませんよ」

晩餐会のときだけ登場する組織の若い女性が、壇上に立って、食堂をぐるりと見回してから優しい声色で説く。
なにが特別なのかは分からなかったが、この行事が重要なのだと言うことだけは皆理解していた。

「では、いただきましょう」

にこり、と、女性が笑う。
すると子供たちはさっきまでの沈黙が嘘のように、一斉に腰を浮かせんばかりの勢いで、テーブルいっぱいに並べられた食事へナイフやフォークを伸ばした。
一瞬にして食堂は喧騒に包まれた。

「はあー、まったく。毎度毎度、食べさせてくれるなら食べさせるで早くしてほしいわよねー!」
「未佳、行儀が悪いわよ」
「そう言う静過だって! ちょっ、そのソテー独り占めしてるんじゃないわよ! 信じられない!」

在紗の隣席では早くも紛争が勃発していた。
月に一度の食べ放題、もとい晩餐会とあって、子供たちは己の空腹を満たそうと血眼だ。ただでさえ豪勢な食事を前に数十分待たされていたのだ、その反動は大きかった。

一方の在紗は、自分のプレートに好きなものを適当に盛りつけると、誰に干渉されるでもなく一人黙々とフォークを口に運んではいつも通り騒がしくなった食堂を静観していた。
しかしふと、そう言えば、と、顔はそのままにして視線だけを動かす。
きっとこうやって見られていることを彼は気づいていないだろうなと思いながら、在紗は居場所を突き止めたばかりの光の姿をそれとなく見つめた。
髪と同じ色をした漆黒の睫毛は伏せられていて、彼も在紗と同様、周囲の騒ぎに感化されることなく食事に手をつけていた。

このまま見続けていたらさすがの光も気がつくだろうか。と、在紗はしばらくして身体中を僅かばかりの興奮が駆け巡っていくのを感じた。
いや、自分とは昨日知り合ったばかりなのだし、むしろ自分がここに座っていることも知らないに違いない。それでも、少しでもいいからこっちを向いてくれないだろうか。向いてくれたらくれたで困るのだけれども。
在紗は突如にして沸き起こった謎の感情に耐えきれなくなって、一瞬彼から視線を逸らした。しかし、すぐにまた目は光を追っていた。
その伏せられた睫毛が、黒の瞳が、あどけない顔が、華奢な身体が、こちらに興味を持って振り向いてくれればいいのに。

「あたしこれ苦手ぇー」

在紗は、ぱっと横を向いた。ウェと、心底嫌そうな顔をして未佳がグラスを掲げているところだった。

「この林檎ジュースとも思えないような林檎ジュース! 絶対中にヤモリかイモリのすり潰しでも入ってるんじゃない? それか給仕の失敗作ね。絶対そう」

ひそひそ声で耳打ちしてきた未佳に、ぷっと、静過にしては珍しく、いつもの澄ました顔を崩して盛大に吹き出した。
未佳の周りに座っていた女子もくすくすと笑いを堪えている。

「未佳……あなた、それ組織の誰かに聞かれたら……フフッ」
「よし。これなら静過も同罪よ」
「ちょっと! ふざけるのも大概に……」
「シェフ〜。この食材なにに使うんですか〜? あっ、このジュースですか〜? 入れちゃいますね〜!」
「プッ」
「ほらね。これだわ」

給仕のものまねをいかにもそれっぽく再現して見せる未佳に、ますます周囲の女子の笑いは収まらない。
在紗も思わず、二人のやりとりにつられて笑った。

これだからアースガルドは楽しいのだ。地上ではどんな生活が送られているのかは知らないが、きっとこれ以上に面白い日常などありはしないだろう。
喧嘩をするときもあるがたいていはすぐに決着がつく。そうしてまた皆でわいわいと騒ぐことができる。
アースガルドの一員でよかった。在紗はそう思うと同時に、光と目が合う前に彼から視線を外せたことに、心のどこかでなぜかほっと安心していた。







小一時間ほどたったところですべてのテーブルから料理が消え、「晩餐会」は終了を告げた。
また先程の組織の若い女性が壇上に立って、子供たちに解散を促す。すると子供たちはあれこれ話の続きをしながら、食堂を去っていった。

辺りがざわつく中で、在紗はいつの間にか隣の席、未佳と静過の席がぽかんと空いていることに気がついた。
普段なら一緒に並んで帰路につくと言うのに、二人とも先に寮に戻ったのだろうか。小首を傾げながら、在紗もそそくさと席を立つ。
しかし、意外にも静過の姿はあっさりと見つけることができた。

巨大な食堂を出て、普通ならそのまま真っ直ぐに伸びる寮への道をいくのが男女ともに正道なのだが、このときの在紗は少しばかり横道をいこうとした。そこで、静過の紺のストレートヘアが、廊下の横の少し奥まったところにできた袋小路から覗いているのを認めたのだ。
静過、と声をかけながら、在紗は近寄ろうとした。しかし、彼女の名前を声に出す寸前、彼女の近くに別の人影があることに気がついた。

癖のない金髪に、すっと鼻筋が通ったなんとも整えられた顔立ち――双見麗二フタミレイジだ。
アースガルド内でも一、二を争うくらい端整な容姿と専らの噂で、組織の規律を破るのに一番近い男と揶揄される少年だった。
そんな艶聞が絶えない麗二と、清楚で大人しいイメージが先行する静過と言う意外な組み合わせを、在紗は今までに目にしたことがなかった。

いったいなにを話しているのだろう。
けれどここで二人の中に割って入るのはどうしてかよくない気がしたので、在紗は元来た道を戻ろうと踵を返した。
しかし、勢いよく振り返った先で在紗は思わず身体を強張らせた。目の前には在紗の行方を阻むようにして在紗より背の高い人間が立ちはだかっていた。

まさか静過と麗二の交流に疑念を持った組織の人間だろうか。だとしたら、自分がここでなんとか理由をつけて二人を助けなければならない。
在紗は心臓が凍る思いで、恐る恐るその人の胸元から顔へと視線を移動させた。
だが、ようやくのことでその人の顔を認めた在紗は、別の意味でどきりとした。在紗の前に立っていたのは、うなじの辺りで癖っ毛がくるりと跳ね返っているのが印象的な少年、光だった。

「あれ? と……」

友常君、と、言おうとして、在紗は用意していた言葉を全部飲み込んだ。
今回のような食堂帰りや、組織の子供たちが一堂に会する場でそれとなく異性と会話を楽しむこと自体はグレーゾーンだ。必要以上の交流さえしなければいい。組織も目を瞑ってくれる。
しかし、どこかことなかれ主義を標榜していた在紗にとって、誰かの目につくところでの男子との会話は極力避けたかった。処罰となり得そうな行為は、どんなに小さなことであってもできれば回避したいのが本音だった。

それにこのときばかりは、特に光とは距離を置いておきたかった。
なにせ「晩餐会」の間中、在紗はほとんどの時間に渡って光の姿を目で追っていたのだ。途中で未佳や静過と談笑したりもしたが、今思い返せば完全に上の空だった。
ずっと彼の姿を見ていたことを本人に気づかれたのかもしれない。そんな一種の罪悪感じみたものが、在紗の胸中に不安を纏ってちらつき始めた。

「おはよう」
「あ、おはよう……」

けれど光は在紗の心情などまったくこれっぽちも意に介していない風で、淡々と挨拶を口にしてからもその場から動こうとしなかった。

「覚えてたんだ」
「え?」

なにを言われるのだろう。やっぱり気づいていたのだろうか。などと考えを巡らせていた在紗は、突拍子もない彼の言葉に顔を上げる。

「覚えてるって……なにを?」
「樹サン、昨日会ったときに俺のことあんまり覚えてなさそうだったから」

図星だ。いつだったかの後悔が、再び懐かしい痛みを伴って在紗の良心を貫いた。

「で、でも! もうちゃんと覚えたよ! 友常君!」

あ、「でも」と言ってしまった。これでは覚えていなかったことを肯定しているのと同じだ。在紗は口にしてしまってから気がついた。
しかし光はと言えば、相変わらず読みにくい淡白な表情をしていて、けれどその顔には薄らと喜色が広がっていた。

「そう言えば、樹サン」
「な、なに?」

どうしてそんな反応をするのだろう。
在紗が光の顔を呆気にとられながらも見上げていると、光は在紗の背後にちらと視線をやった。

「なんで樹サンはこっちの道をいくの? なにかあるの?」
「えっ」

まずい。この先には静過と麗二がいる。

「なんでもないよ! ほら、いこう」

在紗が半ば強引に元来た道へと催促すると、光は首をこくんと縦に振ってついてきた。
静過と麗二の交流を誰にも悟られなかったことに、在紗は観客が満員のステージで注目の大役をこなしたあとのような気持ちで胸を撫で下ろす。
しかし、ついさっきまでこっそり視線をやっていた光が今や自分の隣を歩いているのかと思うと、未だに演劇は続いているかのように思えた。













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2012/10/16