第二話 三姉妹 過去の匂いがする。 まだコンクリートの床にあんなにもびっしりと苔が生えていなくて、まだ子供たちが互いの性別を忘れて駆け回ることができたときの、あの胸を焦がすような懐かしい匂い。 ――もーいーかーい? 幼子の、この世のすべてを覚ますような元気な呼び声が記憶の底から漏れてくる。 なにに使われているのかさえまったく分からない太い配管がゴロリと何十本も転がった薄暗い部屋で、数多の小さな足がぱたぱたと音を立てる。 いったい自分たちはいつからかくれんぼをしなくなったのだろう。 覚えていない。覚えていないけれど、確かに在りし日の組織の子供たちは、男女入り混じってたった一つの遊びに興じた。 なにが楽しかったのかとか、毎日かくれんぼばかりで飽きなかったのかとか、今になって思うことはたくさんある。しかし当時の自分たちにとって、それはダイヤモンドよりも輝かしい貴重な時間だった。 もちろん最初は子供同士でやる。しかも本気のかくれんぼだ。男だから、女だから、と言う括りはこのときばかりはまったく通用しなかった。けれど、それでよかった。 そうやってかくれんぼの勢いも高まったところで、必ずと言っていいほどある一人の人間が登場した。 それがこの航空要塞アースガルドを指揮し、さらにはアースガルドを有する組織EDDAのトップに君臨する「神」と言う男だった。 神は「おじいちゃん」と形容するのが適当であるかのような風貌と年齢で、しかしそれにしてはなにをするにも積極的だった。 その最たるものが、子供に混じってのかくれんぼだ。ご大層な肩書をいくつも並べている現実を感じさせないほど、むしろ数多いる子供の誰よりも本気だった。 しかも子供たちはかくれんぼの鬼役を嫌がって隠れたがるものだから、神は幾度となく鬼役にさせられていた。けれど、それでも神は楽しそうな顔をするのが不思議だった。 ――かみさま! ほら、また一人見つけられなかった! 神、と言う苗字をもじって、子供たちにはかみさまと冗談めいて呼ばれた。 お前たちは本当にすばしっこいなあ。そう言って足元に群がる子供たちの頭をぽんぽんと叩き、目を細めて笑う。そんな神が在紗は好きだった。もし自分に親がいれば、こんなに温かいものなのだろうとも思った。 在紗には両親の記憶がこれっぽちもなかった。 そのかくれんぼもいつからか、誰が発明したのか「裏技」が流行するようになった。 しかもそれは主に神が鬼役のときに有効だったから、子供たちはこぞってその手段を使いたがった。 薄暗い部屋の壁に沿うように、大した灯りもないのに手のひらに収まるくらいの白い花が咲いている。 それを根の近いところで手折り、茎の部分を口に咥えるのが、神から目を欺くことのできるたった一つの「裏技」だった。 これは今でも子供たちの間で密かに伝わるちょっとした「目くらまし」で、こうして花を媒体に息をすると、どうしてか神には居場所が悟られないと言う画期的な逃走法なのだ。 そう、それは在紗たち年頃の少年少女にとって、人生を左右するくらい重要だと言っても過言ではないくらいに――。 在紗は駆け足のまま、それまでの速度を落とすことなく女子寮の大きな扉を開けた。 途端に、扉の上部についている鈴がいつもと同じ涼やかな音色でカランコロンと鳴る。思わず在紗は、しっ、と、人差し指を口元に当てた。鈴は静まった。 在紗は今の時間を確認するのも億劫になって、いっそ処罰を受けることになったらそれも受け入れようと半ば投げやりな気持ちで扉を閉めた。 扉を開けるとすぐに共同ルームと言う、入寮している女子なら誰でも使用できる団欒の場のような憩いの場のようなスペースが出迎えてくれる。 スペースの中央には毛の長い絨毯が敷かれてあって、その上に英国調の足の低いテーブルとソファや肘掛椅子がいくつか集まっている。絨毯が敷かれていないその周囲でも、裸足で駆け回ることができるくらいには綺麗に保たれていた。 門限があると言ってもそれは寮の外に出なければよかったので、皆で集まって騒ぐことのできるこの共同ルームは子供たちにフル活用されていた。 しかし、どうやら今夜は人気が少ないようで、在紗がやっとこのことで寮に着いたときには既にほとんどの子供が寝床に入っているようだった。 ぱちぱちと、誰もいないところで暖炉の火がはぜっているのが見える。 「あー! 在紗ギッリギリー!」 突然、中央に並べられた大きなソファのうちの一つから、ひょこっと金髪の少女が顔を出した。 くるくるとカールした金髪を頭の高いところで二つに結んでいる快活な少女で、林未佳と言う。在紗よりも一つ年下だったが年齢など関係なく誰にでも人懐っこくて、在紗にとっての未佳は友人と言うよりも姉妹のような感覚だった。 未佳はソファの背もたれから顔を出したまま、にんまりと怪しげな笑みを顔面いっぱいに広げた。 「あれ? もしかしてもしかしちゃう? 今日は危ないんじゃない、これ? 在紗ったら処罰受けちゃう?」 「だ、大丈夫だよ! あ、ほら! 今十時になったところ!」 在紗は慌ててポケットから懐中時計を取り出して、円盤をこれ見よがしに未佳のほうへ向ける。すると、途端に未佳は残念そうに頬を膨らませた。 「それはそうと、在紗。今日の分の水やった?」 急に現れた落ち着いた声色が、在紗と未佳のやりとりを諫める。 その声の持ち主、森静過は、在紗より一つ年上の少女で、また組織全体における姉的存在でもあった。鎖骨に届くくらいの紺のストレートヘアを靡かせて、いつものように古びたハードカバーの本を手にしながら、今夜もソファの近くにある肘掛椅子に腰かけていた。 在紗はなんだかんだでこの二人と一緒にいることが多かったので、周囲には未佳と静過を含めて「三姉妹」と呼ばれた。 しかしこの瞬間、静過の何気ない言葉を受けた在紗は顔からさーっと血の気が引いていくのが分かった。 今日は自分の担当だった、忘れていた。いや、朝まではしっかり覚えていたはずなのだが。 静過の言葉を聞くや否や、在紗は暖炉の横に置いてある銀の水差しの元にすっ飛んでいった。よりにもよって神から託された植物の世話を忘れるなど、枯らせてしまったあとを考えるだけで背筋が凍る。 「まったく……“かみさま”に怒られるわよ」 「ごっ、ごめんなさい! 今日は朝からバタバタしてて!」 「違う。在紗じゃなくて、このオテンバ、よ」 在紗は水差しに水を注ぐ手を止めて、数回瞳を瞬いた。 静過は手元の本から一切目を離さずに、今もなおソファに寝そべっている未佳をまるであしらうかのような仕草で指さす。 「男女間の交流は必要以上はするなって言われてるのに……。それで処罰でも喰らったら、未佳、あなた組織中の笑い者になるわよ」 またか。と、在紗は内心溜め息をつくともに、ふんぞり返って静過の指摘を受け止める憮然とした未佳の顔を見た。 最近の未佳と言えば、赤塚武史と言う同年代の少年と、神や組織の人間に知られないようひっそりと逢瀬を繰り返していることで有名だったからだ。 きっかけは知らない。けれど互いに惹かれ合うものがあるようで、二人の関係は子供たちの間だけに知れ渡っていた。 「あんな底抜けに明るいだけが取り柄だと言わんばかりの人間のなにがいいのか、理解に苦しむわね……」 「はア!? それ自分の趣味を直視してから言ってもらえますー!?」 「一人の人間のためにせっかく積み上げてきたものを崩してどうするのって言ってるのよ」 男女の関係が神に知られてしまったら、それはきっと処罰などと言う生易しい表現で済むはずはないことを、組織の子供たちは全員知っていた。 それでも未佳が彼との交流をやめないのは、恐らくかくれんぼで流行ったあの「裏技」を使っているのだろう。それでも「裏技」は決して万能薬などではなかったし、ゆえに二人の関係が公にならない確率は百パーセントではなかった。 しかし当の本人はまったく意に介していない風で、静過のせっかくの忠告にも、未佳はただぶらぶらと右手を横に振るだけだった。 「バレなきゃいーのよ。だいたい静過だって、例のアノ人といい感じなんでしょ?」 そのとき、静過は珍しく一度本から顔を上げてちらりと未佳の顔を見た。静過の藍色の瞳は、どこか未佳を軽蔑しているようにも見えた。 かと思えば、大人しくまた本に視線を戻す。 「そんなことないわ」 「ちぇ、年上ぶっちゃってー」 静過の反応が面白くなかったらしい未佳は、今度は在紗に向かって身を乗り出した。 「ねえねえ在紗は? 誰かいるでしょー?」 「ええ、なんで私?」 共同ルーム唯一の観葉植物に水をやっていた在紗は、微妙な中腰の姿勢のまま振り向いた。 「あ、教えてくれたら、“あたしたち”だけが知ってる誰にも邪魔されない秘密の場所を特別に伝授してあげちゃう!」 「えええ……」 「いいじゃん! 教えてよー!」 その「あたしたち」は、確実に未佳と武史のことを指しているのだろう。 ここまで来ると関係を隠す気など毛頭ないではないか。神や組織の人間がいる前でぽろっと言ってしまわなければいいが、と、在紗は若干杞憂を抱く。 在紗は視線を宙にぼんやりと彷徨わせながら口を開いた。 「私は……いない、かも」 「えー? なにそれー」 「だって本当にいないんだもん」 未佳はまたも不満げに頬を膨らませる。 けれど、こればかりはいくら期待されたところで、彼女の望む答えなど永遠に返せない問題なのだ。 仕方がないだろう。近年特に厳しくなった組織の規律により男女の交際は一律禁止、しかも普段から異性と顔を合わせる機会さえ滅多に与えられないとくれば、恋愛の対象を見つけること自体無理な話だった。 それに、在紗はそれまで誰も本気ですきになったことがなかった。 幼少期に仲のよかった少年は何人か挙げられる。が、彼らのうちの一人と、はたして未佳のように罰を覚悟してまで付き合いたいかと問われると首を傾げてしまう。 だからこのまま、誰もすきにならないまましんでいくのだと思っていた。 「在紗ぁー。そんなこと言ってるといつか後悔するよー?」 「処罰を受けてまで危ない橋を渡りたくはないよ……」 「在紗の言う通りよ。少しは落ち着きなさい、未佳」 「はいはーい」 こんな日常が続けばいいのに。 在紗は再び観葉植物に水をやりながら、誰に勧められるわけでもなく漠然とそう考えた。 未佳が羽目を外して、静過が口うるさく咎める。そんな二人を、どちらを支援するでもなく傍から見て困ったように笑う。 今まで十数年間そうしてきたように、これから一生を終えるまで、このアースガルドで皆とわいわいとりとめもない話をしながら過ごせればいいのに。在紗は心のどこかで、ずっとそんな将来を夢見ていた。 けれど同時に、そんな現実はあり得っこないと、もう一人の自分が悪魔のような声色で耳元に囁きかけてくるのだ。 BACK/TOP/NEXT 2012/10/13 |