神の言葉を真に受けてはならないよ。 彼らの高尚な考えなど、所詮私たち人間に理解できるはずもないのだから。 第一話 アースガルド いいかい? この世界はね、来るべき日が来たら生まれ変わるんだ。 それまでの人間の所業はいいもの悪いもの全部ひっくるめて塗り替えて、その日から新しい世界が始まるんだよ。海の中からまっさらな大地が浮かび上がってきて、そこには種も蒔かぬのに穀物が育つ。新しい太陽が天をめぐり、草原や森がエメラルドのように輝く。滝は勢いよく流れ落ち、空を駆ける鳥は甲高く囀り、魚は活き活きと海上に踊る。 世界が綺麗なまま生まれ変わるんだ。どうだい、素晴らしいだろう? だからね、僕らはじっとその日を待つんだよ――来るべき「ラグナロク」まで。 そう言って微笑んだあの人は、本当はなにが言いたかったのだろう。 樹在紗は、はらりと肩から流れ落ちた長いピンクの髪を耳にかけ直しながら、じっと、一面に苔むし始めたコンクリートの地面を見つめた。 そこは配管のような太いパイプが何十本も床に横たわった薄暗い部屋だった。しかし隠れる場所は多く、広さもそれなりにあったので、組織の子供たちがかくれんぼをして遊ぶにはもってこいの環境だった。 ゴウンゴウン、と、この“要塞”が静かに寝息を立てる音が響く。 しかし、今は昔とは違う。あの頃は多くの子供が胸を躍らせてはしゃいだこの隠れ家も、今ではすっかり何人も立ち入らない辺鄙な場所に変わってしまった。 その理由は知れていた。 最近の組織の方針は、子供を自由に遊ばせることよりも、どうやらきちんとした教育を施し立派な人間に育てることに重きをおいているらしかったからだ。 これもいつしか彼が言っていた「ラグナロク」が近づいていることの兆しなのだろうか。しかし在紗をはじめとした組織の子供には、その「ラグナロク」がなにを指し示すのかまでは分からなかった。 そろそろ寮に戻ろう。スカートのポケットから細い銀のチェーンで繋がれている懐中時計をちらと見た在紗は、寮の門限が間近なことに気がついた。 組織は全寮制を採っており、組織に属する子供ならば男子寮か女子寮のいずれかに入寮しているのが必須条件だった。もちろん門限を破れば厳しい処罰が待っている。 門限など、数年前はなかったようなものなのにな。在紗はやや早足で、未だに凄まじい低音を響かせるその部屋から立ち去った。 「……おやすみ」 誰もいない空っぽの空間に向かって小さく呟きながら部屋の扉に手をかける。この扉は要塞に存在する扉の中でもかなり扱いにくい重い鉄の扉だったが、一旦閉めてしまえば要塞の鼓動が表に伝わることはなかった。 在紗は全身を使って、ようやく扉を元の通りに閉め切ることができた。振り返ると、そこには夜の廊下が真っ直ぐに伸びていた。 自分がいつからこの要塞にいて、いつから組織に加わっているのかは覚えていない。 物心がついたころには既に組織の一員として、他の子供たちとともに不自由のない生活を送ってきた。 不思議なことに、この要塞は人間の営みに対して必要と思われる物をほぼ揃え持っていた。 普段生活していく上で、「閉じ込められている」と言う圧迫感はまったくない。それほどまでに要塞は巨大で、全体の広さもかなりあった。 組織に伝わる噂では、最低でも三日間を要塞の探検に費やさないと全体像を把握できないとまで言われている。幼少期から要塞と生活をともにしている在紗も、未だに要塞のすべてを知っているわけではなかった。 また、いたるところに機械的な構造物が見え隠れしているものの、近代の技術の総力を挙げて製造されたらしいそれは、まるで大きな水槽を持った水族館の真ん中に立っているように清潔感があった。 しかし、柱や飾り窓などをよく見てみると、ふと無性に懐かしさを覚える古代的な紋様が刻まれてあったりするので、一概に近代的とは言い難い。 だが、そんな完璧に見える要塞にも唯一の例外があった。 それは、一口に要塞と言っても、この要塞は完全に部外者の手の届かないところを行く所以にある。 別名「アースガルド」とも呼ばれるこの要塞は、地上から遙か上空一五〇〇〇メートルを航行する“航空要塞”だった。 他のどの航空機も手が出せない。むしろ、地上の人々は気づいていないのではと勘繰ってしまうくらい、アースガルドは悠々と遙か上空を一人占めしていた。ごく稀に地上に着陸する機会はなきにしもあらずだったが、たった数十分程度くらいで飛び立ってしまうのが常だった。 ゆえに在紗たちは、社会から無意識に知らされるべきはずのものも知らずにいた。 (「ラグナロク」の意味も……知っている人は知っているのだろうか) たまにそんなことを考えたりする。 けれど地上にさして興味はなかったし、組織での生活に不満を抱くこともなかったから、在紗はこの日常に満足していた。 そんなちぐはぐでどうしようもなく巨大な航空要塞の夜の回廊を、在紗は今日も一人で歩いていた。 回廊の片側は全面がガラス張りの壁になっていて、すっかり日が沈んだ夜空を静かに映し出している。 門限は間近だ。きっと組織の子供はいつものように早めに寮に引き揚げたのだろう。そう思えば、在紗の寮に向かう足も自然と速くなった。 だが、重い扉の部屋を出て数分ともしないところで、在紗は普段はいないはずの人影を視界に捉えた。 こちらの登場に気がついていないのか、数十メートル先で立ち尽くしているその人物に在紗は見覚えがあった。 あれは、確か――。 「友常君?」 在紗が呼ぶと、ずっと透明な壁の向こうを見つめていた黒髪の少年の肩がぴくりと動いて、すぐに真ん丸な瞳をしてこちらを向いた。 自分でも覚えていないほど小さい頃からアースガルドで育っているにもかかわらず、なかなか彼の名前が出てこなかったことに疑問を抱きながらも、在紗は彼の名前を間違えなかったことに安堵した。 在紗に友常君と呼ばれた少年、友常光は、在紗よりも背が高かったが、歳は同い年か年下かくらいのあどけない容貌をしていた。 「なにやってるの?」 在紗はきょとんと瞳を瞬かせ、彼のほうへ歩きながら尋ねる。 すると光は口を真一文字に結んだまま、言い出しにくそうな顔で、くるりと跳ねた癖っ毛の襟足が触れそうになっている首元の辺りを掻いた。 「いや……」 「うん?」 「その」 「うん」 「……あ、うん。迷った」 彼が少し口篭ったのは、迷子だと言うことを知られなくなかったためだろうか。 「迷ったの?」 「……そう」 「どこに行くの?」 「男子寮」 はて、と、在紗は小首を傾げた。 ここから男子寮まではそれほど遠くはないし、複雑な道のりでもない。それなのに迷子になったらしい彼は、もしかしたら極度の方向音痴なのだろうか。 それでも、迷った、と躊躇いながらも口にしたときの彼のひどく心細そうな顔が印象的だった在紗は、たった今思いついた言葉を飲み込んだ。苦渋の色を浮かべている人間に追い打ちをかけるほど、自分は愚かな人間ではない。つもりだ。 「じゃあ、案内しようか?」 アースガルドの構造上、男子寮は女子寮とは真逆の場所にある。 だが、このまま彼を見捨てていくのも気が引けたので、在紗は消灯時間に間に合うことを十分確認した上で、光にそう問うた。 すると光は、途端に無表情ながらも嬉しそうな瞳をして、こくり、と首を一回縦に振った。 どうやら友常光と言う人間は、普段は無口だが、優しくすればそれなりに好意をもって応えてくれるらしい。 組織に所属している人間の数が多いためか、それとも男女間の交流があまり盛んではないためか、この瞬間まで在紗と彼がこうして面と向かって話した経験は恐らく片手にも満たないであろうことを在紗は知っていた。 人数が多いと顔と名前を覚えるのも大変だ。やれやれと思いながら、在紗は光と並んで廊下を歩く。 「ええとね、ここが分かれ道だから、ここで左の道をいくと男子寮につくの。右にいくとホールだから」 「あー……うん」 しかし、在紗が、光が二度と迷子にならないよう道中ご丁寧にチェックポイントを教えようと奮闘しても、彼から返ってくるものと言ったら生返事ばかりだった。 自分でもまずいとおもっているのだろう、光はきょろきょろと辺りを見回している。が、要領を得ていないのは一目瞭然だった。 「大丈夫? 分かってる?」 「多分。……なんとなく」 「それって平気なの?」 在紗は思わずぷっと吹き出して笑った。 会ったときから薄々感じていたが、おおよそ自分の勘が当たっていれば彼は間違いなく天然だ。しかも半端に背が高いものだから、そのギャップが余計におかしい。なんと希少価値の高い人間と出会ってしまったのだろう。 光には悪いが、在紗はしばらく笑いを引きずりながら歩を進めた。 「樹サンは」 しかし、それまで無言だった彼の不意打ちで放たれた一言に、在紗は一気に現実に引き戻された。 「え?」 「樹サンは、こんな夜になにをしてたの」 「私? 私は、えっと、ちょっと散歩に……」 「ふうん」 まずいな。と、在紗は思った。 こちらは完全に彼のことを忘れかけていたのに、向こうはどうやらこちらの顔と名前を知っているらしかった。 在紗は、たった一瞬でも彼の名前を忘れていた自分に罪悪感を覚える。 話題を変えよう。在紗はパッと顔を上げると、光の一歩前に進み出た。 そうして下から彼の顔を覗き込むようにして話しかける。ただこの姿勢の場合、余計に彼の背が高く見えてしまい、その身長差に少したじろぎそうになるのだが。 「友常君は?」 光はしばらく宙を見つめた。かと思うと、ぽつり、と、葉先から朝露を落とすような静かな声色で呟いた。 「俺も散歩」 「そうなの?」 「外を見るのが、好きだから。夜は星が見えるし」 成程。それで迷子になっても壁の向こうの夜空を見つめていたのか。 在紗は、先程の光の姿を脳裏に思い浮かべた。迷子になったと言う割りには、そのときの彼の様子はまるで意思を持ってそこにいたかのようにしゃんとしていた。 きっと彼は、自分が迷子どうのこうのよりも、眼前に広がる星空に好奇心を隠せなかったのだろう。 そう思うと、なんだか彼に親近感が持てる気がした。それに話してみると悪い性格ではないみたいだし、打ち解けたらもっと楽しいのだろう。 在紗は、ふと、光の笑った顔を見たくなった。 しかしその願望にしては、星の話があまり得意ではないのが痛手だった。 もし自分がその手の分野に以前から興味があったなら、ここで簡単に彼の興味を引くことだってできただろうに。そうしたら笑ってくれることもあっただろうに。 「……ここで」 光が突然立ち止まった。 なんだろう、と、在紗が状況を飲み込めずにいると、いつの間にか自分たちは男子寮へ続く大きな扉が見える道まで来ていた。 「もう大丈夫?」 聞くと、こくん、と、首を縦に振る。 まるで新しい家に連れてこられた柴犬みたいだと、在紗は思う。決して口には出さないけれど。 「じゃあね。暗いから気をつけてね」 「…………、あの」 しかし、在紗がその場から立ち退こうとした瞬間、彼の思い切ったような声が在紗の足を引き留めた。 「うん?」 「ありがとう、案内してくれて」 今までそんな大声を出さなかったではないか。 それはきっと、彼なりの精一杯の感謝の伝え方なのだろう。力んだような彼の謝辞に、在紗は振り返ったそのまま思わず破顔した。 「いいえ」 ここまで彼を送ってきて本当によかった。 在紗は振り向きざま、笑った。そのときの嬉しさがそのまま形になったかのような顔で笑った。 そのとき光に言われた「ありがとう」は、過去のどの「ありがとう」と比べても格別なものに感じられた。 TOP/NEXT 2012/10/09 |