Edirne -08 壮麗な建物が林立するラルコエド城の中でも数少ない憩いの場である中庭に、穏やかな、それでいて爽やかな風が吹き抜ける。 ここのところなぜか萎びかけていた足元の芝草は、久々の陽光を浴びたせいか勢いよく諸手を天に広げている。 これからいっそう底冷えする季節がやってくると言うのに珍しい。 完全にとまではいかないが、以前と同じような静寂な戻った日常に若干の安堵を覚えながら、シルヴィオは本日も角砂糖を五つほどぶち込んだ、どこかの誰かには大いに顰蹙を買うであろうティーカップを持ち上げた。 「真澄ちゃん、一度自分の家に帰るんだって?」 「ああ」 シルヴィオの座るテーブルの真正面には同じくサシャが腰をかけて、見た目だけは優雅にティーカップを口する。 これまた以前と酷似した光景だ。真澄がこの世界にやってきて、サシャの茶会の格好の相手となるまでは、ことあるごとに自分が標的となっていたものだった。 しかし、いつもは何事にも笑顔で対応する彼の眉間には、珍しく深い皺が寄っていた。 「いいの? もしかしたら帰ったまま戻ってこないのかもしれないのに。そうしたらシルヴィオ、ずっと独身だよ?」 どうやら、真澄が「帰る」と言う話はさまざまなところにまで伝わっているらしかった。 そう言えば先日も複数の軍の幹部に、せめて世継ぎを残したあとでも、と、それまでの政治の話からいきなり突拍子もない話題を出されたなと、シルヴィオは今更ながらにあの言葉の真意を理解する。 真澄が一旦自分の世界に帰ることについては少しも不安がないわけではない。が、他人の気持ちばかりは最後まで予測することなど叶わないのだ。 そうなったらそうなっただろ。ゆえにシルヴィオがそのときの本心をそのまま口に出すと、サシャは子供のように頬をいっぱいに膨らませてから、ぷい、と、そっぽを向いた。 「ちぇ、忘れられなくなるくらいコッチに夢中にさせればいいじゃん。そしたらきっと『帰る』なんて言い出さないし」 だが、次に彼の口から飛び出した言葉は、今のサシャの幼稚な仕草にまったくと言っていいほど似合わないものだった。 「……お前なあ、それをあいつの前で言うなよ」 「ん? なんで?」 「なんで……って、そりゃ真澄はお前に絶対の信頼を置いてるだろう」 「やだなあ、本当の私はもっと性格悪いよ」 にこにこと笑ってみせるサシャは、どこまでが本気なのか分からない。 シルヴィオはそんなサシャのこちらを見るわけありな瞳を総無視して、再びティーカップを口元に運んだ。 「あ、そう言えばよく考えてみたらさ!」 次から次へ、よくも女子供のごとく話題が尽きないものだ。 シルヴィオは伏せていた視線を戻した。サシャは今や、テーブルの上に立ち上がらんばかりの勢いでこちらに身を乗り出している。 「ねえねえ、すごいと思わない? だって今思えば、私って妃様を唯一口説こうとした騎士だよ?」 「なんだ絞首刑にされたかったのかお前」 「そんなこと一言も言ってないじゃーん!」 泣きそうな顔になりながらすごすごと自分の席に着くサシャは、しかしそこで不自然なほどぴたりと表情を戻して、宙のある一点を見つめた。 「いや、もう一人いたか」 「……は?」 「あ、今の失言。忘れて」 優秀な部下をわざわざ死ににいかせるようなことしたくないもん。と、サシャは口を尖らせる。 それはつまり、真澄を口説こうとした身の程知らずの輩が城内に今もなお存在していると言うことか。覚えておこう。 「真澄ちゃん可愛いもんねえ。お人よしだし、あのきょとんとした瞳とか、にこって笑ったときの顔とか、絶対きゅんってなっちゃうでしょ」 「……お前が言うな」 「でもなあ! 畜生! なんで選んだのがシルヴィオなんだろうなあ!」 「知らん」 サシャは一人で散々に騒いだあとで、それまでの活気が嘘のように、テーブルに突っ伏したままぽつりと言った。 「いいんだ。シルヴィオが幸せならー」 「は?」 「だって国王になりたての頃のシルヴィオって今よりずっとつんけんしてたもん。なんか、あれだ、全部を完璧に仕上げようとしているみたいに神経尖らせてさ。真面目すぎるって言うの?」 なにを今更、と、シルヴィオは思う。 一分でも隙を見せれば、他国に容赦なくつけ込まれるのはこの世界において必然の理だ。 たった自分一代で祖先がこれまで築き上げてきたものを壊すなどと言う無様な真似だけはしたくなかった。それを若さのせいにするつもりも毛頭なかった。自分が王として国を治めることの意味を、サシャは知っているはずだった。 けれど、今日のサシャはこちらの心情などお構いなしに自分勝手な考えばかりを連ねていく。 真澄に影響されでもしたのだろうか。シルヴィオがいつになくサシャの心配をする傍で、サシャは突っ伏したその体勢から顔だけを覗かせた。 「シルヴィオってさ、真澄ちゃんと一緒になってからよく笑うようになったでしょ」 「笑ってなんかねえよ」 「あ、違うって! ガハハとかそういう豪快な笑い方じゃなくて、たまに口元緩めるあれよあれ!」 「……それ、笑うって言うのか?」 「言うんじゃない?」 当然、とでも言うようなサシャのあっけらかんとした顔に拍子抜けする。 そんなシルヴィオに対して、サシャは、へらり、と、いつもの調子で笑った。 「でもたとえそれを笑顔だって定義しないんだとしても、私、シルヴィオのそんな表情が好きだよ」 それから何年かして、サシャは長かった髪をばっさりと切った。 少し寒いねえ。女性と言うよりは中性的な容貌になった姿に唖然とする俺や他の騎士たちを前にして、あいつはただ暢気に言い放った。 「生きることに真面目になりすぎると、たまに疲れちゃうんだよねえ」 それと髪を切ることのなにが関係あるんだ。 そう言ったらサシャは一瞬ひどく真面目な顔をして、それからすぐに元の瞳に戻った。 「きっと、私もシルヴィオみたいに色々背負いすぎてたのかもって思ったんだ。だから切った。今なら純粋に、国のために生きていけるって思える」 そこで一呼吸置く。きっとそれはサシャにとって、明日への、未来へ進むための息継ぎだ。 サシャはこちらに振り向きざま、昔とこれっぽちも変わらない、まるで今日のこの青空を思わせるような清々しい屈託のない顔で、笑った。 「私、最近になってようやく真面目になりすぎないようになったよ」 あいつのその言葉とそのときのどこか吹っ切れたような表情が、今でも脳裏に焼きついてはなれない。 BACK/TOP/NEXT 2012/09/07 |