Edirne  -09







彼は走っていた。
長く果てしない、初めてこの城内に足を踏み入れた人間なら右も左も分からず呆然と立ち尽くしてしまうであろう廊下を、ただ一心に駆けていた。

まだそれほど背丈もないと言うのに、この国の王家の人間が代々そうであったように、彼もまた見事な銀髪を靡かせていた。
瞳はまるでダイヤを水底に沈めたかのような透き通らんばかりの銀色であった。
それらのあまりにも輝かしい色を纏って、彼は巨大な迷路のような廊下をただ一人で走っていた。

ハアハア、と、息が上がる。けれど不思議とつらくはなかった。
胸には自分の背丈ほどもある大きな額縁を抱えて、必死に落とさないように壊さないように、それでも全力で走った。
額縁の表をくるりとひっくり返したとき、この先で恐らく自分を待ってくれているであろう人はいったいどんな顔をするのだろう。それがこのときの彼の唯一にして最大の楽しみであった。

「お父様! お母様!」

そうして彼は、最初の勢いを少しも落とすことのないままある部屋に駆け込んだ。
夕日が地平線にかかりかけているせいか、ぼうっと朱色に染まった広い部屋の中央では、執務机を挟んで一組の男女が向かい合っていた。
そのうち机の向こう側に立っていた背の高い男が、ゆっくりとこちらを向くと優しく笑んだ。男は彼と同じ、綺麗な銀髪を持っていた。

「どうした、ディート?」
「お父様! 見てくださいっ!」

今し方廊下を全力疾走してきた銀髪の少年、ディートリヒは、これ見よがしに胸に抱えていた額縁を掲げた。
するとその額を目にした父である若い男の瞳が、意外さを伴った色で見開かれた。
やった、と、ディートリヒは思った。父は称賛や世辞といった類の文句をなかなか口にしない人だった。この反応はまさしく本物だった。

「昨日から城に泊まり込んでいる宮廷画家に教わって描いたのです。お父様とお母様です」

急に父のリアクションが嬉しくなって少しはにかみながら言うと、父の傍にいた女――ディートリヒの母は、ぱあと頬を綻ばせた。

「ディートは本当に絵が上手ね」

温かい手が伸びてきて、ディートリヒはくしゃくしゃと頭を撫でられる。
すると、横から別の大きい手がにゅっと現れた。かと思うと、ディートリヒの身体をいとも簡単に持ち上げる。

「ディートは画家の才能があるのかもしれないな」
「あらあら、それは残念ねえ」

ディートリヒは二人の言葉にはっとした。

「いえ! 僕はお父様のように立派に国を治めます!」

でも、絵を描くのも楽しいんです。諦めきれずにそう言ったら、二人は困った顔をして笑った。
いつか選ぶ時がきたら決めればいいのよ。母は父の腕の中にいるディートリヒの小さな身体を引き寄せ、その頬に軽く口づけた。
きっとそれは母なりの奨励の印だったのだろう。しかしディートリヒは途端に頬を膨らませると、不服そうにぽつりと呟いた。

「……どうしてほっぺなんですか」

事情が飲み込めていないとでも言いたげに瞳を瞬かせる母に、ディートリヒは尚もむくれながら続けた。

「お父様とお母様はいつも口にキスをしてるのに。なんで僕だけほっぺなんですか」

昔はそうでもなかったらしいのだが、自分が知る限り父と母の仲はよかった。
長年城に勤めている侍女からはこっそりと、かつての二人の間では口喧嘩はしょっちゅうだったのだとか、一回母が父の背中を本気で蹴り飛ばしたこともあったのだとか、とにかくさまざまな武勇伝(主に母のものであるが)を聞いた。
けれどそんな噂がまったくの嘘のように、今の二人は非の打ちどころがないほどに仲睦まじかった。

いや、たんに仲がいいと言う話でもない。父と母の間に流れているそれは、簡単に愛などと言う言葉で言い表せるものではなかった。
たまに二人きりで話している場面などに遭遇すると、なぜか彼らだけぽっかりと別次元にいて、そこからまたどこか別の場所を見据えている気がするのだ。

いったいなにを話しているのか、いつだったか気になったあまり尋ねたことがある。
そのときの母は苦笑しながら小首を傾げて、ただ、「ディートは面白いことを訊くのね」と、複雑な顔をして言った。
そしてこのときの母ももれなくいつしかのなんとも形容しがたい表情で、同じく困った顔をして目を細める父と顔を見合わせた。

「ディート。唇のキスはね、あなたがほんとうに大切にしたいと思う人とするものなのよ」
「お母様だって大切な人です」
「そうではなくて、自分がこの人のためならと思うくらい好きな人はいないの。ディート?」
「いた……けど、違ったんです」

ラルコエドの騎士団に、いつもこちらの姿を認めては手を振ってくれる人がいた。
パステルブラウンの少し長めの髪をうしろで一つに結い上げている可憐な人で、いつも笑顔を振りまいて、こちらの立場などお構いなしに親しげに名前を呼んでくれる。それが嬉しかったし、なによりもその人と一緒にいると胸が高鳴った。
年齢はかなり上だったが、この人とずっとずっと一緒にいたいと思っていた。

しかし、ついこの前のことだ。
騎士団の練習にお邪魔させてもらったついでにその人に剣の稽古をつけてもらった帰り、団の敷地内にある共同の風呂場に行かないかと誘われた。
好意を持っている人と裸のつき合いができる。なにを迷うことがあろうか、もちろん答えは迷うことなくオーケーだ。

先に行っててねとその人に言われ、はやる気持ちを抑えて先に風呂場へ向かった。今思えば、周囲の騎士団員たちがくすくすと微妙に笑いをこらえていたのに気づくべきだったのだろう。
お待たせー。石造りの浴槽に浸かって数分後、いつものように朗らかな声でこちらに手を振って現れたその人だった。が、なぜか下半身に女にはないはずのものがついていた。
平たく言えば、自分についているものと同じものである。

わけが分からないままその人の顔を見た。それから、やや視線を下げた。また顔を見た。
どこからどう見ても、その人は笑顔が眩しい麗人に違いなかった。しかし、いや、なんなのだこの違和感は。
それからその人――「彼」が、正真正銘の男だと判明するまでに大した時間はかからなかった。ディートリヒの初恋はこうして呆気なく終わりを迎えた。

「やっぱり……お母様以上に大切な人はいません」

間違いなく過去の消し去りたい思い出ナンバーワンに君臨するであろう出来事を振り返りながら、ディートリヒはぎゅうと父の首元に縋った。
そんなディートリヒの様子を察したのか、それとも彼の考えていることが少しでも伝わったのか、母は父の腕の中にいるディートリヒの瞳を静かに見つめて言った。

「いつか、その時がくれば分かるわ」

そうして、こつん、と、額を合わせられる。頬を撫でる母の黒髪がくすぐったい。
肌と肌が触れたところから母の慈愛に満ちた温もりが伝播していくようだった。
母は優しい。しかし、彼女の性格が優しいの一言で済むはずがないことを、ディートリヒは知っていた。

もちろん父はこの大国ラルコエドの王であり、国のすべてを統括する者だ。一切の指揮権は父にある。その伴侶である母は、黒髪に黒の瞳と言う、一見すると他国から嫁いできた王妃にしか見えない。
だが、母は並みのラルコエド人よりもラルコエドの文化や歴史に精通していた。また、一度城下で生活をしたことがあったらしく、その外見から愛慕する者の多い貴族だけではなく、広く民からも絶大な信頼を得ていた。
さらに風の便りによると、なんでも母は各国に独自の“パイプ”と言うものを持っていて、それが他国との同盟関係を無意識に形作っているらしかった。

そんな「歴代最高の元首」と謳われることもある二人を超えられるのか、ディートリヒはたまに不安に駆られる。
けれど自分はそんな二人の間に生まれた次期国王なのだ。ふと未来への呵責に耐えられなくなりそうなときは、父と母にできて自分にできないはずはないと言い聞かせた。
ディートリヒは、相変わらず額にじんわりと伝わる母の温もりを感じながら、現実の感触を確かめるようにゆっくりと目蓋を閉じた。

「いつか……僕もお父様のようになれるでしょうか」
「ええ。ディートならできるわ」

力強く答えた母に、ディートリヒは途端に気恥ずかしくなって、えへへと小さく笑った。
どこか遠い天上から、ガラヴァルが高らかに啼く声が木霊して聞こえる。

お父様、お母様。僕、きっとこの国を世界一幸せにしてみせるよ――。













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2012/10/25