Edirne  -07







無数の淡い色彩の花びらが、背景の青い空をカンバスにして不規則に踊り狂う。
その光景をなにも考えずにただずっと見ていると、たまにここが城内の一部であることを忘れてしまうのだ。

王族のみが立ち入ることを許されたこの空中庭園に足を踏み入れるのはいったい何年ぶりなのだろう。そんなことを考えて、随分と年月が過ぎ去ってしまっていたことに感慨深くなった女は、ふうと一息ついて、手元のティーカップを持ち上げた。
広大な庭園の真ん中にぽつりと置かれた白のテーブルセットは、この場には少し小さすぎやしないかと錯覚してしまいそうになる。
けれど、自分以外に誰も使用する人などいないのだ。風が、さわさわと穏やかに髪を揺らす音だけが、この一人だけの茶会の話し相手になっていた。

「あら、駄目よ。折角のパーティに土足で上がり込んでは」

なんの前触れもなく、女はティーカップをテーブルの上に置いた。
今まで誰の気配もなかった。と、すると、恐らく「彼」はたった今ここに到着したのだろう。

「なにを申す? そなた一人のパーティなど見苦しいにもほどがあるわ」

女が目線を上げると、テーブルセットの近くで水飛沫を振り撒いている噴水の淵に鷹揚に腰かけて、こちらを気だるげな瞳で見つめている一人の人間が目に留まった。
しかし、彼を人間と形容してしまうのには少し違和感があった。
なにせ「彼」の見事なまでの黒髪は、この世界では神の象徴として有名な気高き色だった。もちろん「彼」の存在自体も、そこいらの人間とは比べものにならないほどかなりかけ離れている。

「……やはり“あれ”はそなたの子か」
「随分な言いようですこと」

女から視線を逸らしてどこか明後日の方角を見据える「彼」の顔は、何年経とうとも幼少期に初めて出会ったときのまま、ちっとも老けずにいた。
その事実が、自分が過去、確かにこの国の人間だったことを思い起こさせる。

最初に「彼」と出会ったのは本当に偶然の産物だった。出会ったと言うよりは、見つけてしまった。しかもよりによって、「彼」が本来の姿ではなく、人間の姿に身をやつしている場面を、である。
「彼」にとっては、新たに王室に入った人間を一目見てやろうと言う、好奇心からくる行動だったのかもしれない。
しかし、その好奇心をいとも簡単にあっさりと打ち破って、真の姿を探し当ててしまった。今でも、自分に居場所を暴かれてぎくりとした「彼」のあの人間染みた表情は忘れられない。

けれど、そのとき思ったのだ。ああ、この人は、「彼」は、私が相手をしてやらなければ。
そうでなければ、「彼」は長年の退屈に我慢ならなくなって、ついには一国さえ滅ぼしてしまいかねなくなる粗暴さを身につけるだろうと。
それからの「彼」は、こちらの挑発通りことあるごとに魔術勝負を挑んできた。しかし、互いに互いが本気を出していないと言う自覚はあった。むしろそれでよかった。本気を出せばどちらが圧勝するかは、誰に諭されずとも分かり切っていた。

そんな魔術勝負と称したじゃれ合いは、はじめは「彼」の姿を認めてしまったがゆえの自分なりの「彼」への気遣いだったのかもしれない。
だが、のちにそれは正反対の意味を持っていたのだと分かった。
突然母を喪い、引き取られた後宮では完全に居場所を掴みあぐねていた、そこで「彼」は、行き場をなくした自分の慰めになってくれていたのだ。まるで子供を必死にあやす育児に慣れない父親のように。

ようやくそのことに気づくことができたのは、実際に自分が子供を腕に抱くようになってからだった。
自分には父と呼べる人が二人もいたのか。故国に戻れない位置に立ってしまってから初めて「帰りたい」と一回だけ泣いた。
まさか、本当に帰る日がくるとは微塵も思っていなかったのだが。

「真実を述べているまでだ。現に、瓜二つであろう? 言葉の端に憎い言い回しが垣間見えるところなど、誠にそなたを思わせるぞ」
「でもあなた、初対面で真澄を串刺しにしようとしたのでしょう? それってつまり私だったら串刺しにしてもかまわないと言うことかしら」

わざとらしく挑発してみせる。
すると「彼」は冷静に、こちらが投げたものと同じくらいの皮肉を纏った言葉を投げ返してくる。昔と一切変わらない口調と声色で。

「……フン。親子共々我を仰がぬのはその血筋ゆえであろうな」
「あら、そうかしら? けれど、自分の立場を弁えていながらあの子を強引にこの国に引き込んであまつさえ世界に蓋をした何処かの神様のほうがよっぽど性質が悪いのではなくて?」

「彼」は気まずそうな表情で口篭った。
ほら。と、女は思った。だから私はあなたをからかってしまうのよ。そうやって、たまに人間らしい顔をしてみせるから。

じっと見つめてくる女に気づいたのか、「彼」は今度は眉間に皺を寄せてこちらを向いた。
なにがそんなに面白いのかとでも言いたげな視線に、女はふふふと口元に微笑を浮かべた。

「惚れ直していただけました?」
「たわけが。寝言は寝て言え」
「私、これでも容姿には自信がありますのよ。お父様の顔に泥を塗らないように、縁談先に敬遠されないように外見と教養だけは取り繕おうって、小さい頃から必死だったんですもの」

結局、婚姻は自分から逃げたのだけれど。そう続けようとしたが、途端に胸の奥がずきりと痛んだ気がして、口に出すのはやめた。
女のそんな心情を知ってか知らずか――いや、きっと「彼」はまったく意に介していないのだろう――「彼」は、女の言葉にハッと短く嘲笑した。

「人はすぐに死ぬと言うのに、外見云々、そもそも歳を取った取らないくらいで騒ぎ立てるのは余りにも滑稽であるな」

恐らくその言葉は「彼」の本心だ。
今まで何年にも渡って数多の人間の生と死を見送ってきたからこそ口にできる、自分にとって一番羨ましい言葉だ。

女は俯いて少しだけ笑った。
「彼」が十数年前とまったくちっともこれっぽちも変わっていないことに、どうしようもなく安堵する。

「どうした? やっと我の偉大さに気がついたか?」

満ち足りた顔でこちらを見下ろしてくる「彼」に、女はこれ見よがしに目を細めた。

「残念ですけれど私、もうこの国の人間ではありませんもの」

もしかしたら、「彼」は寂しげな悲しげな表情をするだろうかと思った。
一気にそれまでの「彼」の好意を無下にするような文句をぶつければ、さすがの「彼」であっても激昂するだろうかと期待した。
けれど「彼」はなにも言わずに、フン、と、鼻を一つ鳴らしただけだった。

やはり自分はこの国から長く離れすぎていたのだ。女は痛感した。
寂しさもなにも関係ない。稀に気の迷い程度の人情は覗かせれど、最終的に「彼」は感情などと言ったものには決して捉われることのない、今見せたような淡白な反応をするのだ。すっかり忘れていた。
宙を舞う花びらに混じってゆったりとたゆたう「彼」の黒髪をぼうと見つめながら、女はぽつりと呟いた。

「でも真澄は、私の娘は、遅かれ早かれこの国の人間になりますわ」

後悔していないわけではない。
しかしそれが運命ならば、彼女の決めた道ならば、自分は口出しするだけで手は出せないと腹を括っている。
唯一気がかりなのが、それが未だに戦火が拭えない国であると言うことくらいだろうか。伴侶となるあの国王はさして問題ではない。むしろ脇道に逸れんばかりの真澄の性格を上手いこと制御してくれるだろう。
だが、国の事情となると話は別だ。嫁いだ数年後にはもう永遠に会えなくなっていました、では、あまりにも寝覚めが悪い。

「……まったく、何処も彼処も図々しい民ばかりだ」

言いながら、「彼」は唐突に腰を上げると噴水の淵の上に仁王立ちになった。
衣服が、バサア、と、風に大きく煽られて、今まで女の視界に入っていた大空の大部分を「彼」の存在が一瞬にして支配する。

「真澄の面倒は見てやる。近頃は我を敬慕することができるようになりおったし、なによりもそなたと比べて幾分聞き分けがよいからな」

どこか満更でもない顔をして、「彼」はその場から大空の中へと消えた。
庭園中に降り注ぐ無数の淡い色彩の花びらに混じって、ちらちらと黒い羽が見え隠れする。

女はそのまましばらく黙りこんでいたが、思い出したようにテーブルのティーカップを手に取った。夢とも現ともつかない「彼」の登場の仕方だったと、時間が経ったせいか徐々に笑いがこみ上げてくる気さえする。
けれど、きっとこの感情はそんな生易しいものではない。

――残念ですけれど私、もうこの国の人間ではありませんもの。

自分で口にしておきながら自分でダメージを受けるなんて情けないにもほどがある。
しかし確かに、自分は一時、この国の人間だった。

魔術勝負と言ういっそ生死を賭けた遊びにつき合ってくれたのも、自分の居場所を作ってくれたのも、幾歳が過ぎようとも再び会いにきてくれたのも、すべては「彼」の慈しみがあったからこそ。
他の誰が否定しようとも、間違いなく、「彼」は自分にとって「神」であった。
そんな「神」の慈愛を、恐らく彼女も受けることになるだろう。そして、それが存命中か死ぬ間際かは分からないが、彼女も今の自分のように、かつて人間と化した偉大な存在と戯れた日々を走馬灯の如く思い出す日を迎えるのだろう。

再び、風の音のみが周囲を静かに騒がせる。
その中にどこかガラヴァルの鳴き声が混じっている気がした女は、珍しく笑いを声に出したあとで、しっかりと目蓋を閉じた。













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2012/08/03