Edirne  -05







いくら一心に前に向かって歩けども歩けども、目の前に伸びる薄暗くて狭い洞窟は終わりを見せることがない。
しかも地面や壁を覆っている岩の塊は意外にも鋭くて、少し間違えば指を切ってしまいそうになる。

「痛っ!」

そんなわけで、先程から注意散漫の真澄は手足を傷つけてばかりいた。
仕方がないのだ。足元は平坦ではないから、不意によろけてバランスを取ろうとすると上半身が覚束なくなる。かと言って、そこで手を傷つけないようにと庇ってしまえば、石の出っ張りに足を取られて無様にこけてしまう。
つまるところ、真澄は数歩足を進めるごとに指を切るか転ぶかのどちらかの結末を選んでいた。

今のは絶対に足のどこかの肉を抉られた。と、今回はこけるほうを選んだ真澄は涙目になりながら立ち上がった。
裾の長いひらひらとしたドレスがこの場にはまるで不向きであったが、周囲に誰もいないとは言えここで脱ぐわけにはいかないので、鬱陶しく思いながらもパンパンとはたくだけに留める。
そんなやりとりを飽き足らず繰り返すだけで学習しない自分に挫けそうになったが、ここで折れてはいけないのだ、と、真澄はすぐに決意を新たにした。ここで白旗を振ってしまえば、エディルネに、母に、強引にここから元の世界へ連れ戻されてしまう。

「……シルヴィオ」

弱気になりかけた真澄の脳裏に、ふとシルヴィオの澄ました横顔が浮かんだ。
彼は今頃どうしているだろうか。自分だけがぽっかり消えたあのだだっ広い部屋で、もしかしたら母から直接解き伏せられてしまっているのかもしれない。王の傍にいるのが真澄と言う人間ではあまりにも不釣り合いだと、常識的に考えても真っ当な言い分を何度も聞かされているのかもしれない。

ありえない話ではない。むしろそう言われて当然の事象だ。
それでも真澄は母を納得させたいと、強制的にラルコエドをあとにするのだけはご免だと思った。
そう考えれば考えるほど、一刻も早く、なんとしてでもこの洞窟から抜け出さなければと言う念に駆られた。

がんばるしかない。
真澄は、膝を見つめるように折っていた身体をまっすぐピンと張った。
しかし、突如それまではなかった聞き慣れた声が響いたのは、真澄が、よし、と気合いを入れ直したのとほぼ同時だった。

「真澄?」

驚く暇もなく、真澄は両の拳を胸の前で握ったいかついポーズのまま、ぱっと、反射的に背後を振り返った。
そこに立っていたのは、あろうことか今この瞬間まで考えていたその人、シルヴィオだった。真澄がここに放り込まれる前、最後にあの部屋で見たときの豪奢な服装のまま、呆気に取られたような顔で彼は真澄を見下ろしている。

「シルヴィオ! なんで?」
「そりゃこっちの台詞だ。お前までこの空間に飛ばされてたとはな」

よくよく辺りを見回してみれば、真澄がこれまで辿ってきた道とシルヴィオが辿ってきたであろう道とが、ちょうど真澄の背後で分岐していた。
どうやら自分たちはこれまで別々の道を通って、この共通の一本道の洞窟まで出てきたらしい。
早くもこの現実を飲み込んだのか、シルヴィオはふうと小さい溜め息をつくと、岩が出っ張った壁を感触を確かめるように叩いた。

「流石はラルコエドが興って以来最高の魔術師と謳われるだけある。一瞬でこれほどまでの空間を構築して、さらに複数人を閉じ込めるとはな」
「え? え? ちょっと、なんのこと?」

真澄が目を瞬く傍で、シルヴィオはあくまでも動じることなく周囲の岩壁を叩いて回る。

「エディルネ様のことだ。この一分の隙もなく敷き詰められた岩肌――感触、質量、どれを取っても隙がない」
「シルヴィオ……分かるの?」
「勘だ。面と向かって魔術師に会ったことは今までにねえから文献や噂の聞きかじりだがな」

そろそろ行くか。壁から手を離してこちらを向いたシルヴィオに、真澄も渋々頷いた。
なぜこの場に二人とも送り込まれてしまったのかは分からない。だが、母が言っていた試練とは、恐らくこの八方塞がりの状況のことで間違いないだろう。
とりあえずここから脱出する他に母を説得する手段はなさそうだった。

「ごめんね、変なことになっちゃって。あ、でもお母さんはいつもあんな感じなの。優しいんだけど、時々妙に鋭いことを言ってきたり……」

自分とは違ってしっかりとした足取りで数歩前を歩くシルヴィオに置いていかれないよう、真澄は一生懸命あとを追いかける。

「そう言えばこの洞窟ってぼんやり明るいよね? 明かりもなにもないけど、こうぽわーって。なにか仕掛けでもあるのかな」

不慣れな道を転ばないように、かつ喋りながら進むのでは先程よりも骨が折れた。しかし、なにかを口にしていないと、とてもではないが気が持たなさそうだった。
けれど不思議なことに、どんな話題を振ってもシルヴィオはなにも返してはこなかった。

話題の選択を間違えただろうか。
返答の有無にいちいちショックを受けるほどこれまでラルコエドで柔な生活を送ってきたわけではない。が、ただ真澄がシルヴィオの態度を疑問に思って内心小首を傾げていると、不意に前を行くシルヴィオの速度が緩んだ。

「……お前、無理すんじゃねえぞ」
「? なにが?」
「……国のことだよ」

速度の落ちたシルヴィオの大きい背中に、真澄はようやくのことで追いつく。
そのままシルヴィオの顔を伺おうとしたが、彼は避けるように真澄の視線からふいと顔を背けた。

「そういや、お前の国には戦争がなかったんだったな」

感慨深げに、ぽつりと呟くシルヴィオの声色に、真澄はやっとのことで合点がいった。
先程までの沈黙が嘘のように、シルヴィオは饒舌になって話し出した。

「エディルネ様の言う通りだ、この手は数え切れないほどの人間の血で染まってる。俺はこの先お前を道連れにしない自信がない。それだったら、いっそ……」

そうか。彼は、シルヴィオは、自分を気遣ってくれているのか。
シルヴィオが今どんな表情をしているのか真澄からは見えなかったが、真澄はその言葉だけでただひたすらに嬉しかった。やはり自分がいるべき場所は彼の隣なのだと、心から思えた。
不覚にも口角が上がってしまいそうになるところを必死に抑えて、今度は完全に足が止まったシルヴィオの服の裾を、手を伸ばしてそっと握りしめる。

「覚悟はできてるよ」
「俺の覚悟は……まだだ」
「シルヴィオ?」
「……」

シルヴィオはなにも言わなかった。
それでも真澄が思い切って彼の顔を覗き込むように先回りすると、シルヴィオは観念したように、それでもそっぽを向きながら言った。

「嫌なんだ、もう。親しい人間が死ぬのを見たくない」

シルヴィオのお母さん、妃様が亡くなられたのはそれから二年後。シルヴィオは五歳、私は八歳。
急に、真澄の脳裏にある日のサシャの言葉が蘇ってきた。真澄は懐かしいサシャの声を何度も頭の中で反芻させながら、けれど今目の前にいるシルヴィオにかける言葉が見つからずに俯いた。
それから何年かあとにはクラウス様もお亡くなりになって――確かあのあと、サシャはそう口にしていたはずだ。とすると、シルヴィオはまだ両親を亡くした痛みを背負い続けているのだろう。

成程、それで「あの顔」か。
母にこの空間に閉じ込められる前、ずっとシルヴィオの傍にいると言い切ったとき、いつもとは違ってたじろぐような表情をしたシルヴィオを思い出す。
そう言えばフロール国との戦争前後も、彼は自分の生き死にを気にかけていた。国外追放を言い渡されたときのことだ。

真澄はそっぽを向いたままのシルヴィオの横顔をじっと見つめた。
胸がきゅっと締めつけられているかのような痛みを感じた。ずっとずっと長い間、多くの人間に囲まれながらもこの強がりな王様は独りだったのだ。

「シルヴィオ」
「……」

呼びかけても返答はない。シルヴィオの服の袖を掴んだまま、真澄は足元に視線を落としながら言った。

「あたしじゃ嫌だ? やっぱりあたしじゃ無理かな? ……でも、勉強する。シルヴィオの隣に立てるように、いっぱい勉強する」
「……」
「シルヴィオが寂しくないように、ずっと一緒にいる。大丈夫だよ。だってあたし、昔から大きな病気にかかったことないし、今の学校だってまだ休んだことないよ、だから――」

そこまで言いかけて真澄は口を噤んだ。突然、ばちん、と、額に強烈な平手打ちを食らったのだ。
叩かれた場所を押さえながら、いったいなんのことだかわけが分からずに真澄がきょとんとしていると、いつの間にかいつもの不遜な顔をしたシルヴィオがこちらを向いていた。

「お前ほんと……馬鹿じゃねーの」

急になんなの、と、反論する暇もなく、真澄の肩はシルヴィオの手に半ば強引に掴まれて前に引き寄せられる。
同時に、すっと、シルヴィオの整った顔が近づいた。
まずい。この瞬間、真澄は身体全体がぼっと急激に熱を持つのを感じた。

こう言っては本人に悪い気もするが、シルヴィオの愛情表現にまつわる行動は予測がつかないことが多い。それは妃になれと言われたときも、その流れのまま彼の口づけを受け止めてしまったときも同様だ。
とにかくどこからがそう言う雰囲気になっているのかが真澄にとっては非常に分かりづらく、彼になにかアクションを起こされるたびに気恥ずかしさで心臓が止まりそうになるのである。

だからこのときも、真澄は咄嗟に閉じた目蓋を固く維持したまま、いつその感触が訪れるのかと勢い息を止めて待った。
しかし、時間が経てど、一向に真澄が想像した通りの感覚は訪れなかった。その代わり、唇からは離れた前髪越しの額の上に、ぽつりと優しく温もりが宿る。

「構えてんなよ」

恐る恐る目を開くと、シルヴィオが苦笑しながら、今触れたばかりの箇所を人差し指で小突くのが見えた。
真澄は最初はその言葉の意味が分からずにぽかんとしていたが、再び洞窟の出口目指して歩き出したシルヴィオの姿を追ううちに、だんだんと真意が理解できるようになってきた。

弄ばれた。真澄がその結論に至るのに一分もかからなかった。
一旦は終息した身体中の熱がまたぶり返してきたようで、顔が沸騰したヤカンのように熱い。

「あー! あーあーあー!」
「うるせえ。行くぞ」

恐らく自分が目を閉じてから今までの反応の一部始終を見られていたに違いない。真澄は恥ずかしさのあまり、自分たちに課された試練を放り投げてこの洞窟にこもってしまいたかった。
しかし、そう言ってぶっきらぼうに歩き出したシルヴィオの背中はどことなく普段のようにしゃんとしていて、真澄はなぜかとてもほっとした。
真澄は手元で小さく笑ってから、歩きにくい岩場を再び乗り越えてシルヴィオのあとを追った。













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2012/04/30