Edirne  -04







目覚まし時計の甲高い電子音が鳴り響く朝七時、あともう少し寝ていたい気分を抑えながらも、ここで寝たら負けだと言い聞かせてベッドから抜け出す。制服に着替えてから居間に行くと、母が緩やかなウェーブの髪を揺らしながらおはよう早く支度しなさいよと毎度お決まりのセリフを口にして、のんびりとした父は自分と入れ替わりに真澄はお寝坊さんだなあと笑って出ていく。
テレビはしきりに昨日まで世間を騒がせたニュースを復唱している。けれど、あくまで真剣そうなニュースアナウンサーの声はなぜか心に引っかからない。自分は眠い目をこすりながら朝食の席に着く。

そう言えば今日は英語の小テストがあるんだった。まずいな全然勉強してなかった、授業が始まる前に覚えようかちょっと無理かもしれないけれど。そうして朝ご飯を掻き込めばあとは身支度を整えるだけだった。
毎日飽きることなく続けてきた日常。それが、ここ数ヶ月ですっかり別の、しかもかなりかけ離れたものになってしまっていた。

朝は七時どころか日が昇ってすぐの頃に叩き起こされるし、傍にはにっこりと優しく微笑んでくれる人間などおらず、むしろ鋭い瞳と横柄な姿勢が目につくことこの上ない人物が、あろうか壁一枚を隔てたすぐ隣に居座っている。
唯一同じ状況はと問われれば、三度の食事がきっちり出されることくらいだろうか。しかしその内容は日本食とはまるっきり異なるものだった。
白米食べたいなあ。ラルコエドの食事も美味しいには美味しかったのだが、正直三日と経たずに日本食が恋しくなった。

食事は抜きにせよ、そんなこの手から零れて行ってしまったはずの焦がれそうな現実がすぐそこに、しかも目の前にある。
恐らくガラヴァルと競るほどの魔力を持つエディルネ、もとい母なら、自分一人を元の世界に連れ帰ることなどその言葉通り造作もないことなのだろう。真澄は瞳を丸くさせたまま母の顔を見つめた。

しかし、このときの真澄の胸中を占めたのはどうしようもない焦燥感だった。
帰りたくないと言ったら嘘になる。けれどその母の提案は、間違いなくラルコエドを永遠にあとにすることを意味する。
そうなってしまえば――真澄はちら、と、隣に座っているシルヴィオの顔を盗み見た。

「あら、違うの? 真澄、あなたは帰りたくないの?」

真澄の考えを見透かしたように、母はぴしゃりと言い当てた。
なにも言えなかった。このままラルコエドに留まるのかそれとも帰るのか、どちらの選択肢が最良の手段なのか。真澄は複雑な気持ちのまま手元に視線を落とした。

「ところで真澄、あなた今この国でどう言う立ち位置にいるの」
「……え?」

しかし答えを聞かず、続いて母が発した突拍子もない質問に、真澄はわけが分からないまま伏せていた顔を上げた。

「あなたが今そんな恰好をしていると言うことはこの世界に受け入れられたってことだけれど、いったいなんの肩書きを背負っているの?」
「ええと、それは……」
「エディルネ様」

先日無事ラルコエド城に帰還した際、シルヴィオには、「妃になれ」と言われていたが、この話をこの場で出すとややこしくなる。
無難なところで真澄が、「シルヴィオの秘書」と言おうとしたところを、しかし横から当のシルヴィオが遮った。しかも彼はなぜか身を乗り出さんばかりの勢いで、エディルネを真っ直ぐに見据えている。

「あら、なにかしら。王」
「ここで許可をいただきたく思います。真澄を俺にください」
「はあっ!?」

よりにもよってシルヴィオ本人が言いやがった。
真澄は慌ててシルヴィオに詰め寄るが彼はいかにも涼しそうな顔をしているし、母は母であらあらと呑気に笑い始めた。

「ち、違うの! まだ完全に決まったわけじゃ……!」
「それはそれは……すぐに王であるあなたが顔を見せたときはまさかとは思ったけど」

ふむ、と、考え込む素振りを見せた母は、しかし大した間を置かずに言った。

「それは承諾しかねるわ」

シルヴィオから母のほうに視線を移すと、相も変わらず彼女はふふふと優雅に笑みを湛えていた。
しかしそれが本心からくるものではないことは容易に判別できた。

「せっかく断ったと思った縁がまた蘇るなんて……真澄、あなた地獄に落ちるつもりなの?」

真澄はその問いがすぐには理解できなかった。
地獄に落ちる? いったいなんのことを言っているのだろうか。
まったく思考が追いついていない真澄をよそにして、母はシルヴィオのほうを見て丁寧に断りの文句を口にした。

「ごめんなさいね、王。今私たちが生きている世界は少しこことは事情が違うのよ。それを理解してくださるかしら」

すると彼女は今度は真澄に向き直る。今まで見たことのない、いっそ背筋が凍るかのような真剣な目つきで。

「いいこと? 国王と言う立場は何百何千と言う犠牲の上に成立しているのよ。特にこの時代のこの国ではね。そんな人のところへ嫁ぐだなんて地獄へ行くのと同じだわ。まず生きることも保障されていないと言うのに……」
「え、でも」
「でも、じゃあないのよ。私はこの国で二十余年を生きた。その前後になにがあったか、一から話しましょうか? いい? 我が子をわざわざ死にに行かせるようなこと、私は絶対に認めないわ」

それは真澄の母と言うよりも、一国の王家の人間、エディルネとしての言葉であるように思えた。
母は懇願するかのように、最後につけ加えて言った。

「分かってちょうだい。私はこの国とはもう手を切ったの、その断ち切ったはずのものをあなたに継いでほしくないのよ」

真澄は、胸の奥でドッドッドッと低い音で拍動する自分の心臓の音を聞いた。
視線を下げてみれば、手がぎゅっと、ドレスの裾を力いっぱい握る光景が視界に飛び込んできた。
ドレスをこんなに掴んでしまったらあとで皺になってしまうだろうな。そうしたら、このドレスを用意してくれたシルヴィオや侍女に申しわけがつかなくなるな。と、だいたいそんなことを考える。
しかし次に真澄の頭の中をいっぱいに占めたのは、隣に座って、恐らく横目にでもこちらの様子を伺っているであろうシルヴィオのことだった。

果たして自分には、今後彼と一緒に歩いていくことの意味が一分でも理解できていただろうか。
自信はない。ただシルヴィオと離れるのがつらいから、傍にいたいと思うから、ずっと彼の瞳に映って彼の温もりを感じていたいから、それだけで自分の運命を決めようとしていた。
だからこそ今、母に「帰ろう」と諭されても安易にイエスと答えられないでいるのだ。

きっと彼は、これから幾度となく先日のフロール国のような国を迎え討ち、またその逆の立場を取ることもあるだろう。
その可能性は、真澄が十六年間生きてきた世界の歴史が雄弁に物語っている。特に現在のラルコエド国は周辺諸国も含めて戦火の中にある。まったく現実性がない話ではないだろう。
そんな国に、あたしはこの命を捧げることができるのか。真澄は突如湧いて出た疑問にはっと目を見開いた。

しかしそのとき、真澄の脳内に広いなにもない場所に堂々と一人で立って、それなのにどこか寂しげなシルヴィオのうしろ姿が浮かび上がった。
そんな彼を一人にはさせないと、真澄はなぜか強く思った。あたしが、他の誰でもないあたしが、最後まで彼の傍に寄り添って幾千の痛みを分かち合ってあげる。
そう思える理由は簡単だった。彼の前で好意をはっきりと口にしたことはなかったけれど、今ならなんでも言えそうな気がした。

「……それでも」

疑問に対する答えを口にしようとした瞬間、真澄の中でなにかが吹っ切れた。

「それでも、あたしはラルコエドに残る。……ごめんなさい、これだけはどうしても譲れないの」

真澄は隣にいるシルヴィオの顔を見上げた。
いったいなにに驚いているのか、いつもは自信と威厳に満ちあふれているシルヴィオの瞳は、このときばかりは少したじろいでいる感じがした。

「見捨てたりなんかしない、ずっと傍にいるよ。何年でも何十年でも、シルヴィオが死ぬまで、死んだとしても。ずっと」

精一杯の笑みを作って、いつだったか人払いをしただだっ広いシルヴィオの部屋の片隅で、彼が言ったことをそのまま繰り返す。
シルヴィオは最初、呆気に取られたような顔をしていた。しかし、すぐに真剣な顔つきになると、ゆっくりとその大きい手で真澄の手に触れた。
シルヴィオはなにも言わなかったが、真澄にはすべてが手に取るように分かっていた。
きっと彼も同じだったに違いない。シルヴィオと共に未来を歩いていく覚悟は、既に心の奥深くでしっかりとできあがっていた。

「そう言うことなのね」

落ち着き払った声に正面を向けば、母が眉間に皺を寄せて悩ましげに座っている。
彼女はふうと深い溜め息をつくと渋々口火を切った。

「仕方ないわね、と言いたいところだけど、“まだ”だめよ。あなたたちには……そうね、これから試練に打ち勝ってもらうわ」
「え?」

今までの会話の流れから予想だにもしなかった突飛な提案に、真澄はぱちくりと目を瞬かせる。
しかし、戸惑う真澄やシルヴィオまでもをこれっぽちも意に介することなく、母はつらつらと喋り続ける。

「出られなかったら私の勝ち、真澄は問答無用で連れて帰るわ。出られたらあなたたちの勝ち、なんでも言い分を認めましょう」

出られる、とはいったいなにを指しているのだろう。それに母は、「あなたたち」と言った。つまり、少なくとも自分とシルヴィオが関与すると言うことになる。
しかしそれ以上の詳細を明らかにしようとしないまま、彼女はすっと右腕を横に翳した。

「すべてはあなたたち次第、よ」

ふふ、と笑って、彼女は右手の指をパチンと鳴らす。その笑顔が嫌に印象的で、真澄は悪寒を覚えた。

「――え?」

驚いたあまり無意識に瞬きをしてしまったのがいけなかったのか、その一秒足らずのうちに真澄を取り巻く環境はがらりと変わっていた。
なぜか真澄は地面にぺたりと座り込んでいる。しかも地表から壁、天井にいたるまでごつごつとした岩が出っ張っており、横の広さは大人三人が横に並べば埋まってしまうだろうと思えるくらいしかない。
しかし前後の空間はと言えば、真澄の周囲はぼんやりと薄明かりが灯っているものの、遠い先は暗闇に閉ざされているほどに細長く続いているのが見て取れた。
母の姿はもちろんのこと、シルヴィオの姿さえもどこにも見当たらなかった。

前にもこんな展開があったな、と、真澄は感慨深く回顧する。だが、その心当たりが多すぎると言うことに気がついた。
そしてここはどうやら「洞窟」なのだと、だいたいの予想がついた。理由は分からないが、自分は今、洞窟に座り込んでいる。
ラルコエドに来た当初より俄然状況の飲み込みが早くなった自分を少し誇らしく思う反面、真澄は「またか」とでも言いたげにゆっくり立ち上がると、ドレスの裾についた汚れを手で払った。

――出られたらあなたたちの勝ち、なんでも言い分を認めましょう。

先刻の母の言葉が脳裏に蘇る。
要するにこの洞窟から脱出すれば認めてもらえると言うわけか。真澄は再度、確認のために前後左右をぐるりと見回した。しかし目に飛び込んでくるのは、前後にどこまでも続く果てしない岩の空洞だけだった。

ああ、こんな先の見えない洞窟から、いったいどうやって抜け出せと言うのだろう。













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2012/03/24