どうか神様。この悪夢のような現実が本当にただの夢だと言うのなら、どうか早くあたしをここから連れ出して。







Edirne  -03







「さて、これでようやく本題に入れるわね」

寝巻からドレスへ手早く(と言っても数人の侍女つきで)着替えた真澄の顔を、母の姿をした女はちらと見ると満足そうに頷いた。
しかし真澄は、本音を言えば、この着替えだって一切せずに寝巻のまま彼女の話を聞きたいくらいだった。自分を除いて、シルヴィオと彼女を一緒にしておくのは危険な気がしたのだ。

だが女にその姿ではしまりが悪いからと言われて、渋々女とシルヴィオを隣の部屋に送り出したのだが、シルヴィオの身を案じていつもの倍以上の速さで着替えて部屋を飛び出してみれば、シルヴィオは先刻と変わらず今は亡き両親の話に悠長に耳を傾けているだけだった。
しかも互いに、シルヴィオの部屋の中央にある応接用のソファに面と向かい合って座りながら談笑しているではないか。
取り越し苦労とはこのことか。真澄は納得できないようなやり切れない気持ちで、空いていたシルヴィオの隣に腰かけた。

彼女の姿は見れば見るほど母とはどこか微妙に違うような気もしたし、合っているような気もした。
つまるところ、彼女の言う「本題」を聞くまでは判別できないと言うことなのだろうが。

「それより、真澄……あなたなぜそっちに座るの」
「えっ、な、なんとなく?」

急に自分に話題を振られて真澄は慌てた。
しかし今はどちらかと言うと、シルヴィオの横にいるほうが安心できるのだ。仮に彼女の外見は似ていようとその正体がはっきりと分からない限り、こればかりは譲れなかった。

「まあ、いいわ。きっといろいろと混乱しているでしょうから。それは私も例外ではないのだけれど」

ぶつぶつとなにかを恨めしげに呟きながら女は右手を持ち上げた。そのまま、ぱちん、と、指を鳴らす。
いったいなんのことやらと真澄が目を瞬いていると、それまで濃い茶色だった彼女の巻毛は、指を鳴らすと同時にすべて銀色になり、ふわりと宙を舞ってから肩の上に落ち着いた。

「私の本名はエディルネ・キア。一応王族の名を継いだけれど、妾腹の人間よ。王位継承権はないわ」

エディルネ・キア――どこかで聞いたことのある名前だ。真澄はなによりも先にそう思った。
しかしよくよくその原因を探ってみてすぐに思い当たることがあって、真澄はぎくりとした。
なにを隠そう、自分はこの世界に来てから彼女の噂に翻弄されるばかりか、一部の人間からは、「彼女に似ている」とか「まるで彼女に生き写しだ」と揶揄されていたのだ。完全に忘れることなどできようものか。

だが唐突に目の前で銀髪になった女の行動も理解しかねたが、このときの真澄は「エディルネ」と言うその名ばかりが気になった。
なにせ自分の記憶違いでなければ、確か彼女は二十年ほど前に崖から投身自殺したはずだった。ではなぜこの女は今、「エディルネ」と名乗ったのか? それとも同姓同名の赤の他人でしかないのか?
真澄は今一度彼女の顔を凝視しながら首を捻った。考えれば考えるほど矛盾ばかりが出てくるのがもどかしい。

恐らく自分が思いつく限りの疑問を彼女にぶつけない限り、この話は進展しないだろうと言うことだけは分かったが、肝心の質問も多すぎてどこから着手していいのか今の真澄にはお手上げ状態であった。
しかしそうやって難しい顔をしていた真澄の横で、それまで無反応だったシルヴィオが突然大きく身を乗り出すと、興奮した調子で言った。

「エディルネ様!」

真澄はぱっと隣のシルヴィオのほうを振り返った。はたしてこれほどまでに他人を敬う彼の姿など目にしたことがあっただろうかと思わせるくらい、今の彼の態度は紳士的だった。

「まさかここでお会いできるとは……噂は伺っております。祖父王はエディルネ様の行方をたいそう心配しておられました」
「あら。やっぱりそうよねえ、なにも言わずに城を飛び出してしまったんだもの」

なぜいきなりそこで話が通じているのだ。真澄は、どこからかわんわんと脳味噌を揺らすような頭痛を覚えた。

「お父様……ああ、祖父王は何処へ?」
「エディルネ様が行方を眩ませた数年後に亡くなりました。最後の最後までエディルネ様の身を案じておられたそうです」
「それは悪いことをしたわね。今言っても詮ないことだけれど、最後に一目お会いしたかったわ……」
「ちょ、ちょっと待って! 待ってよ!」

話が弾み始めた二人を牽制するように、真澄は思わず声を荒げていた。

「さっきから、二人ともなにを言って……?」

なぜこのまま会話が前進しようとしているのだ。シルヴィオもシルヴィオだ。どうして急にぱっと現れた人物の言うことを真に受けるのか、真澄には理解しがたかった。
しかし真澄の考えとは裏腹に、シルヴィオはやれやれと肩を竦めると深く嘆息する。

「お前、まだ分からないのか? この方は正真正銘行方知れずだったエディルネ様、歴とした我がキア王家の者だ。今の魔術、この銀髪へ変わる様を見ただろう。それに今までなされた数々の証言は俺でも詳しく知らない、確かにエディルネ様本人しか知りえない情報なんだよ」
「でも私としては一回死んでリセットしたつもりなのよ。もうキア家の人間ではないわ、残念ながら」
「だからなんでさっきからエディルネの面を被るのよ! エディルネは『死んだ』って、崖から飛び降りて『死んだ』って――」

そこまで叫んだ真澄は、自分で掻き消したばかりの今の女の言葉を思い出した。
これまで真澄はエディルネは「死んだ」と聞いている。そして女は今、「死んでリセットした」と言った。
どう言うことだ? 真澄は言葉が見つからずに黙り込みながらも彼女の顔を見つめた。

「そうねえ、どこから説明しようかしらね。なにせ私だって、もう一度この国の土を踏むなんて思っていなかったのよ」

どこか困ったように笑う彼女の姿に、真澄はどうしてかそれまでの怒りが静まっていくのを感じた。

「王族と言っても私は愛妾の子よ。教養は一流のものを受けたけれど、たった一つの妾腹の子と言う汚点、それだけはどうあっても覆せないわ。でもねお父様、シルヴィオの祖父であった故国王は私にいい縁談先を紹介しようとがんばってくださったの。私に恥がないようにって、公爵家を始めとした上流貴族ばっかり、それがどうしても申しわけなくてね」

ふふ、と、女は雫を落とすように口元に笑みを浮かべた。

「二十歳が目前になった日、少しずつ縁談も持ち上がりかけてきたんだけど、これ以上お父様に迷惑をかけるのはなによりも私自信が耐えられなかったの。妾腹の、しかもなんの利益ももたらさないただ王家の世話になっているだけのお荷物な私なんていらないって、私さえいなければ世界が上手くまとまるんじゃないかしらって思ってね。そう結論づけたその日に私は崖へ身を投げたわ。もちろん死ぬつもりだった」

真面目な話の佳境であったが、女はそこで一旦言葉を切った。
そのなにかを躊躇しているような沈黙に、真澄と、それと隣に座るシルヴィオも小首を傾げたようだった。

「でもそのときうっかり……本当にうっかりと言うか、自棄になっていたんでしょうね。つい私の持っている魔力を、投身の際に最大限解放しちゃったのよ」
「解放……?」
「そう。いつもはちゃんとセーブしているんだけど、崖下に飛び込むときに『エイヤッ』ってね」

今までの口ぶりとは打って変わった明るい声色に、真澄は肩透かしを喰らったかのような脱力感を覚えた。
エイヤッ、って、死ぬときの表現に使うものか?
真澄は次第に目の前にいるこの女がもしかしたら母本人ではないかと思えるようになってきた。知っている。母はこう言う、実はしっかりしていると見せかけてどこか天然で抜けている人間だ。

「そうしたら急に目の前の風景がガラリと変わって、崖に飛び込んだつもりなのにどこかの狭いアパートの七畳間にすとんと着地しちゃったの。それが今の夫、真澄、あなたのお父さんの部屋だったんだけどね。あのときのお父さんったら社会人になったばかり、しかも今よりもハゲが進行してなくて今よりもずっと恰好よかったのよー!」
「はあ……」
「あ、あなた信じていないでしょう? 本当なんだから! それでお互い一目惚れ! 過去を振り切った私は晴れて新天地で愛しい人と結婚!」

真澄はもはや口を半開きにしながら彼女の話を聞くことしかできなかった。それはシルヴィオも同様のようだった。
二人の反応の鈍さにようやく気がついたのか、女はこほんと咳払いをすると、ソファに座り直した。

「とまあ、これはちょっとふざけて言いすぎたけれど、でも大筋はこの通りだわ。私は崖に飛び込んだあの日を境にして、この国とは縁を切ったのよ」
「え、でもどうやって日本人になったの? 言葉は?」
「そんなもの魔術があればどうにでもできるわ。お父さんと一緒になるにあたっての戸籍改変と家族偽造は一番面倒臭かったけどね。でも言語は魔術に頼りながらもちゃんと平行して勉強したのよ。今では完璧にマスターしているわ」
「あれ? でも今ってどっちで喋ってるの?」

この話はシルヴィオも聞き取れているはずだった。今までの会話が日本語では辻褄が合わない。

「今はラルコエドのほうよ。真澄が小さい頃はちょくちょくラルコエドの言語で話しかけていたこともあったから、魔力に助けられる部分もあるでしょうけれど、もしかしたら知らず知らずのうちにバイリンガルにしちゃったかもしれないわねえ」

そのバイリンガルが英語であったら、あの高校受験までの歳月がどんなにすごしやすかったことか。
真澄は中学三年生の、なかなかに刺激的だった一年間をしみじみと振り返った。

「でもお母さん、まだ三十代後半じゃなかったっけ? 確かガラヴァルが、エディルネは四十代の女だって言っていたから、てっきり……」

ガラヴァルがエディルネについて言っていた、「四十を越えた皺が気になる歳の女」のうちの「皺が気になる」と言う部分はあえて除いて、また彼女が自分の母であることも前提とした上で質すと、途端に女はぷうと頬を膨らませた。

「まったく、女の年齢を間違えるんじゃないわ。まだ三十代よ、失礼しちゃうわね」

明後日の方向へぶつくさ呟く彼女の瞳の先にはガラヴァル本人がいるように思えた。少なくとも真澄にはそう感じられた。

「ガラヴァルは私が自殺しようとした日にもやってきたわ。でも、『魔術勝負をしよう』なんていつもの調子でやってくるものだから、そのときちょっとばかりナーバスになっていた私は、その、つい彼を返り打ちにしちゃったのよ。いつもはちょっと手加減してあげるんだけど」

ああ、だから「あの剣幕」か。
真澄はガラヴァルと初めて会った日、窓から威勢よく飛び込んできたガラヴァルに剣を突きつけられた日のことを思い出して、その理由に遅れ馳せながら納得した。
よくあのときこの身に剣が刺さらなかったものだと、今振り返ってみても自分の強運に拍手を送りたい。

「あたし……大分彼の不興を買ったんだけど」
「それは悪いことをしたわね。でも彼だって、真澄、あなたをこっちの世界に引き込んでから今まで、私が邪魔をしないようにと次元に壁を張ってたのよ。どれだけこっちが自分の娘を殺されるかと思って冷や冷やしていたと言うの……お互い様だわ」

ぷいとそっぽを向いて不満げに足組みする女の姿は、やはり母のようであり、また自分の知らない他人でもあるような気がした。

「でもね、今回のことはすべて私の落ち度だったわ。まさか真澄、あなたに私の魔力が受け継がれてるなんて今までちっとも気づかなかったのよ」

ここからは王も聞いてくださる? と言って、初めから一転して蚊帳の外状態だったシルヴィオに、女は優しく声をかけた。
そう言えば今の会話はシルヴィオも聞いていたのだった。ガラヴァルの話など、ガラヴァルを神話の中の登場人物としか認識していない彼に飲み込めたのだろうかと、真澄は一抹の不安を覚える。
女は再びおっとりとした語り口調になった。

「ラルコエドが危機に瀕したとき、ガラヴァルが生贄と言う名の救世主を求めて鳴くと言うのはラルコエドの民だけでなく魔力を持つ者の間では通説でね。小さい頃にだけれど、私も母から教えられたわ。でも魔術師の場合はちょっとした『オマケ』がつくのよ。例えガラヴァルが助けを求めても、決してその助けに応じることなかれ、ってね」

にこり、と、女が目を細める。
それは慈愛の笑みではなくて、「あなたなら分かるでしょう」とでも言いたげな類の、こちらに反論する余地など与えないものだった。

「あの日、あなたがこの世界の扉を開いてしまったあの日も、ガラヴァルは鳴いたわ。でも世界は違えど私たち魔術師は皆無視したのよ。唯一、応えてしまったあなたを除いては」

真澄は、今はすっかり細くなってしまった記憶の糸を心の奥で辿って、そして見つけた。
ラルコエドに足を踏み入れる寸前、自分は夜のバスルームでカラスの鳴き声を聞いたのだ。あのときはたんに、カラスって夜も鳴くんだっけと呑気なことを考えていたが、まさか、いやそれしか思い当る節がない。
そう言えば先日ガラヴァル当人も言っていたではないか。自分は無意識のうちにガラヴァルの呼びかけに応えてしまったのだろうと。
だとしたら恐らく、あのときカラスの鳴き声だと認識したものが、世界を超えて響き渡ったガラヴァルの救国の呼びかけそのものであったに違いない。自分はそれを知らず知らずのうちに受け入れていたのだ。

「ガラヴァルの名を呼ぶ行為は一種の言霊なの。彼の名を呼ぶことで体内の魔力を一気に引き出されてしまう、それは普段とは比べ物にならないほどの放出量なの。そんなことをされたら、常に一定の魔力を体内に持っている人間はたちまち壊れてしまうわ。だからガラヴァルの助けに応じるってことは、その身が危うくなるってことなのよ。だから普通魔術師はガラヴァルの呼びかけには応えないの」
「でもそれじゃあ、国が滅んで……」
「それと自分の命を差し出すのとどっちがいいなんて、安易に天秤にかけることじゃないわ」

女にぴしゃりと言われて、真澄はまだ反論したかったが口を噤んだ。
もしラルコエドが滅ぶのだとしたら、それは同時にシルヴィオもこの世から消えるときだ。それは真澄にとって一番つらいことだった。

しかし、今回は上手く事が進んで現在に至っているが、よくよく考えてみれば、真澄はこの世界にきてから何度も何度も自分の命の危険を感じていたはずだった。
シルヴィオにスパイ容疑をかけられて殺されそうになったり、ガラヴァルの剣に串刺しにされかけたり、戦争真っ只中の敵国に身柄を拘束されてしまったりなど、今思い返せば幸せを感じた瞬間より断然多いかもしれなかった。

それなのに「これでよかったのだ」と、すっかりこの結末を受け入れてしまっているのは、日本人特有の気質か、それともただのお人好しか。どちらにせよ、それらの一言で済ますには少しばかり手緩いかもしれない。
だがそれでも、自分の選択で自分の望む結末が得られた現在、真澄にはあまり思い残すことはなかった。
自分の命を差し出したこともあった。けれど、それでいいとあのときは腹を括ったのだ。産んでくれた母には申しわけないけれど、あのときの自分はもう誰かに縋りついて駄々をこねる子供ではなく、一人の一個の人間として大地に立っていたのだから。

「そうそう、それで真澄、今身体は大丈夫? 疲れていない? あなたガラヴァルの名を呼んだのでしょう? 次元の壁越しに指を咥えて傍観していただけとは言え、こっちだってなにもしていなかったわけじゃないわ。ちゃんとあなたのことを気遣っていたのよ」
「え?」

女がすっと身を乗り出して、対峙してソファに座る真澄の頬を優しく撫でた。

「あなたにはほんの少しだけれど、魔力があるわ。その証拠に魔力を使ったあとはどっと疲れるはずよ。ラルコエドにきてしまったのはガラヴァルの呼びかけがあったからだけれど、世界を飛び越える次元の扉を開くために魔力を使ったのは他ならないあなたなのだから、その日の夜あなたはすぐ眠れたんじゃない? 他にも、ほら、ガラヴァルの名を呼んだ日とか」
「……あ」

真澄は手元で小さく声を上げた。
ラルコエドにきたその日の夜、見知らぬ土地で、しかも短刀を突きつけられた人間の隣室であると言うのに、真澄は自分でも不思議なくらい眠りこけていたのだった。
ガラヴァルの名を呼んだあの日だってそうだ。花屋の女は確か、自分は三日三晩眠り続けていたと教えてくれたのではなかったか。

「中でも世界を飛び越える行為は私であってもけっこうな重労働でね、私はこれを『次元渡り』と呼んでいるわ」
「次元渡り?」
「そう。なにもない空間に強引に次元の扉を作ってこの身を捻じ込ませるんですもの。あなたは分からなかったかもしれないけれど、その疲労感は尋常ではないのよ」

今まで私たち以外に試した人がいるかどうかは知らないけれどね。そう言って女は苦笑した。
だが女はすぐにさっきの真面目な顔に戻ると、真っ直ぐ真澄の黒の瞳を見つめてきた。

「今回は幸いにも命は助かったけれど、でももう二度とガラヴァルの助けに応じるなんてことはしないでちょうだい」
「でも、それは……」
「真澄、あなたは私とお父さんの子なのよ。十六年せっせと手塩にかけた我が子を、自分の手の届かない、しかも目の前で亡くして悲しまない親がいると思っているの」

今までの口調とは打って変わって、どこか感情的で懇願するような物言いに、真澄は胸のあたりがじんわりとほぐれていく気がした。
やはりこの人は母だったのか。彼女が実はエディルネだと言う事実はまだ本当なのかよく分からなくて受け入れがたいけれど、真澄はこの人が母その人であることがようやく証明できたことのほうがなによりも嬉しかった。

「国のことだってもちろん大切だったのでしょう。でもね、あなたが死んだら私はやり切れないわ。分かったわね?」

それでも真澄はしばらく躊躇った。それからややあって、こくり、と、小さく首を縦に振った。
しかし女はその反応で十分なようだった。

「そう、よかったわ。それで真澄、私が今日ここにきた本当の理由なんだけれど」

真澄は今の感傷的な部分を引きずったまま、今度はなにを聞かされるのだろうと思いながら顔を上げた。
だが女がすぐに繋げた言葉、それは、真澄が今一番考えたくないことだった。

「帰るわよ、『私たちの世界』に」













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2011/12/26