それはどこか懐かしい響きを伴っていた。

――真澄。

しきりに自分の名を呼ぶ誰かの声が、いったいいつからそうやって問いかけ続けていたのだろうか、遠い世界からわんわんと響いてくる。
あまりに執拗なその声に、今まで甘い夢の中にいた真澄は薄らと意識を取り戻した。
しかし強い眠気がまだ身体の奥で燻っているのか、どうしても目蓋だけは開かなかった。

――起きなさい、真澄。

だが唯一ぼんやりとした頭でも理解できたのは、絶えず呼びかけてくるそれは女の声だと言うことだった。
傍にいるのはシルヴィオではない。それならば侍女だろうか。
真澄は夢の残滓に浸りながらも、はっきりとしない曖昧な意識下でいろいろなことを考え始めた。

それにしても、と、真澄は思った。
なんて懐かしい声色なのだろう。それと、その声は聞いていてどこか安心できる気もした。
真澄はふと、その声の主を見たくなった。襲ってくる眠気は未だにひどかったが、眠気に抗おうと決意した途端、サーッと、それまで曇っていた視界が一気に晴れ渡っていった。

これはいったい誰の声だったか。
ああ、そうだ。聞いたことがある。確か、これは――。









Edirne  -01









世界を覆う色が均一なグレーから何十もの鮮やかな有色へと変わっていく。
いつ完全に目蓋を持ち上げて夢から覚めたのかは分からない。けれど気がついたとき、真澄は完全に覚醒していた。

それはいつもと同じ静かな朝だった。
部屋中が朝の陽光でいっぱいに満たされており、窓の外からはどこからか小さく囀る小鳥の鳴き声が聞こえる。
ゆえに真澄が、「もう朝がきたのだ」と把握するのに対して時間はかからなかった。

今日はなにをするんだっけ。と、真澄は目覚めて一番にそんなことを考えた。
真澄がラルコエド城に戻ってきてからと言うもの、親しい人々が真澄との再会を懐かしんではひっきりなしに訪れてきた。そのために真澄はなかなか気が抜けなかったのだ。

そう言えば先日は、突然シルヴィオの部屋の扉を開け放ち泣きながら駆け込んできたサシャに、場の空気を無視して勢い土下座をかましてしまった。
もちろんその原因は、例の悪夢でサシャの姿を見て、そこで自分の不甲斐なさを責め立てられたと言う、あくまでも間接的な影響である。
とは言え、現実と夢想をごちゃ混ぜにして当人を困惑させてしまったのが申しわけなかったと、真澄は今さらながらに思う。それでもサシャはおいおい泣きながら、「わけが分からないよーなんだっていいよー」と、涙ながらに赦してくれた。

そんなわけで、真澄は目覚めてからしばらくは、あれやこれやと今日することを考えながらぼうっと天井を眺めていた。
昨日は誰が来てくれたんだっけ? そんな簡単なことも思い出せない。この様子では昨夜の食事も覚えていないに違いなかった、が、昨夜は子羊のソテーだったはず。あれ、なぜこれは覚えているのだろう。

「どうでもいいか……」

真澄は先程まで浸っていた夢の世界から気分を入れ替えるために数回瞬きをした。
しかしそんなあやふやな視界の隅に見慣れない人影があることに気づいたのは、意外にも目が覚めてすぐのことだった。

「……真澄?」

その人影は、真澄が横になっているベッドの傍らでふと静かに口を開くと、こちらの顔を覗き込んできた。
真澄は不思議に思いながらもゆっくりとそちらに顔を向けた。
動くたびにふわふわと揺れる緩やかなウェーブのかかった長い髪に、真澄ははっとして息を呑んだ。

真澄が横になっているベッドの脇、そこにいたのは一人の女だった。けれど真澄は信じられない気持ちで、今は己の視界の真ん中にいるその人物を見つめた。
真澄はこのとき、先程夢現の最中に自分の名を呼ぶ人物がいたことを思い出した。

嘘なのか? 幻か? それとも自分の作り出した妄想か? いやしかし、そうとしか見えないのだ。
真澄は女の頭から胸元までを何度も何度も目で追った末に、ようやく彼女の瞳を真っ直ぐに見た。

「……お母、さん?」

これはまだ夢の続きなのだろうか。
真澄が驚きのあまり二の句を継げないでいると、こちらを覗き込んでいた母の顔をした女は、心底ほっとしたように口元を緩めた。

「もう……急にいなくなったと思ったら。本当によかった。数ヶ月も……心配してたのよ」

女の指が伸びてきて、真澄の頬に触れる。
石鹸の匂いや、野菜を切ったあとの匂いなどがすべて混じったような懐かしい母の匂いがした。

途端、真澄は目頭にあふれてくる熱いものを感じた。
母だ。これは、今目の前にいるのは、間違いなく自分の母なのだ。

「……ごめんなさい」

真澄はぎゅっと、今も自分の頬に触れる母の指を握った。
帰ってきた。元の世界に、帰ってきたのだ。
真澄は身体の奥からどっと湧き出てきた感情に押し流されて、それを制御する術を知らないまま涙を流した。

一ヶ月以上もの長期間を知らない場所で、赤の他人ばかりの中で生きたことがどれほど怖かったか、今ならはっきりと言える。
逃げたいと考えたことは少なくない。むしろいつもその場から逃げたくて仕様がなかった。
けれど逃亡を図ろうとしなかったのは、そうして逃げ果せた先になにもないと分かっていたからだ。その場に留まって初めて、自分の居場所が与えられたも同然だった。

「よかった……っ」

二度と帰ってこれないとさえ思っていた。
だからこのとき無意識に真澄の口から漏れた一言は、当然の産物であった。

これでもう自分は危ない目に遭わずに済むのだ。逆にここで喜びを表現せずにどうしろと言うのだろう。
しかし不意に真澄は、あれ、と、首を傾げた。なぜ今、「危ない目に遭わずに済む」と、自分は胸を撫で下ろしたのか。
それはまるで黒いシミのように、真澄の心にぽつりと落ちた疑問は瞬く間に周囲に広がって、終いには真澄の身体全体を強く揺さぶった。

自分はなにか、喜びに感けて大切なことを忘れてはいないか? 真澄はぱっと口元を手で覆ったが、喉の辺りでなにかがつかえているらしく、その疑問がなんなのかまったく理解できない。
しかし真澄が欲しかった回答は、意外にも早足でやってきた。

「おい真澄、そろそろ起きないとアネル先生が面会に――」
「……えっ」

がちゃり、と、部屋の扉が躊躇なく開けられ、豪奢な服を纏った長身の青年が扉の向こうから姿を見せる。
真澄は自分の息が止まるのを感じた。

「真澄……?」

それは紛れもないシルヴィオ本人だった。ラルコエドにいたはずのシルヴィオが、なぜか今、そこにいた。













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2011/09/15