Wahrheit -06 この部屋に足を踏み入れてから頭の中に響き渡ってやまない重低音が気持ち悪い。 心臓に合わせて拍を打つ速いリズムは、今にも身体すべての調子を狂わせてしまう気がする。 真澄は身体中から噴き出た冷や汗が、つっと背筋を伝って肌を撫でながら尾骨へと下っていくのを感じた。 ずっと視線を足元に向けているせいか、だんだん首も痛くなってきた気がする。 けれどとてもではないが、面を上げようなどとは微塵も思わなかった。 正直なところを言うと、こちらがぴくりとでも動いた途端、この世で一番最悪な事態が我が身を襲ってくる気がした。 だからこそ、真澄はできる限り身体を縮込めてこの部屋のどこかにいるシルヴィオの動きを待った。 きっと、あたしはここで殺されるに違いない。 ずっと今の今までそれとなく念頭にあったことを改めて明確な言葉にしたとき、しかし決めようとした覚悟がぐらりと揺らぐ音が聞こえた。 (――嫌、だ) 真澄はここにきてやっと、自分と言うものが追いつめられて必死に急いていくのが分かった。 覚悟を決めたなんて、あれは嘘だ。花屋の母子には気丈に振る舞ってみせたが、本当は誰よりもこの場に来たくなかった。 三日三晩寝込んでいたときに見た、暗闇の中に横たわるシルヴィオの動かない身体と、サシャの冷めた視線が悪夢のように交互に蘇ってくる。 嫌だ、まだ、まだ死にたくない。 「……おい」 唐突に現れた声に、真澄はびくりと反射で肩を震わせた。 それは確かにシルヴィオの声だった。 かたり、と、頭の上のどこかでなにかが動いた音がする。 同時にかたかたと震え出した歯を抑えようと、真澄はぐっと唇を横に引き締めた。 真澄は花屋の女からもらったスカートを、有りっ丈の力を込めて固く握りながら、もしかしたら次の瞬間、この視界に銀色の刃が飛び込んでくるかもしれないと言う妄想が目の前をちらちらと掠めていくのを感じた。 「おい、ナンバー7」 真澄はその一言を聞いて、ぎゅっと強く目を瞑って覚悟を決めた。 しかしシルヴィオのその言葉をようやくの思いで飲み込んだあと、真澄は、あれ、と思った。 今なにか、耳障りな単語が出てこなかっただろうか。 そう考えてしばしあと、真澄はわけもなく腹の底が煮えたぎるような感情を抱いた。 「は、はあっ!? なにを今さら……!」 それは間違いなく反射的行動だった。 耳障りな単語の正体が「ナンバー7」と分かった途端、真澄はなぜか声を荒げてしまっていた。 こき使われた日々を、身体はしっかりと覚えていたのだろう。今までどこにいるかも分からないシルヴィオにびくびくしていたのも忘れて一瞬にして憤った真澄は、その勢いのまま正面をふり仰いだ。 しかし真澄は、顔を上げたそこで言おうとしていた言葉を忘れた。 既に眼前にまで伸びつつあった大きい両手が、左と右と、真澄の視界をいっぱいに占領しながらスローモーションで迫ってくる光景に、真澄は息を止めた。 「……本当に、真澄か?」 こちらへ伸びた両手が、真澄の頬に触れた途端に、ぐいと強引に一点を向かせた。 真澄はそれらの手の奥から、ちらちらと光る儚い銀色を見た。 最初はなんて綺麗な色なのだろうと思った。けれど、それが人のものであると知って、そのすぐあとに、それが自分が誰よりも嫌われたくない人のものだと知ったとき、真澄はただ口を開いたっきりなにも言えなかった。 変わっていない。それどころか、ついさっきまで会っていたかのような感じさえする。 真澄の目の前には今、本物のシルヴィオがいた。 あの出征前の白い軍服の面影などどこにも見受けられず、彼はいつもの偉そうな服を身に纏っていた。 謝らなきゃ。シルヴィオの真っ直ぐな瞳を見て、真澄はなにを考えるよりも先にそう思った。 ぱっと見てどこを怪我しているのかは分からなかったが、謝らなくては、と思った。 しかし混乱する頭で言葉を選んでいた時間が長すぎたのか、真澄の身体は背後に回った大きい手によって引き寄せられた。 「……真澄」 間近で囁かれたシルヴィオの一声で真澄がはっと我に返ったとき、身体はたくさんの布に埋もれていて、少しだけ息をするのがきつくなっていた。 自分の身体に触れるシルヴィオの手が、腕が、胸が、これ以上ないくらいに温かい。 「真澄、真澄、真澄……」 自分の身体に回されたシルヴィオの腕にいっそうの力が込められる。 懇願するような声が、耳元で何度も自分の名を呼ぶ。 真澄は思わず、身体の横に張りつけたままだった両腕を持ち上げた。 そして恐る恐るシルヴィオの背中に手を回す。 謝らなきゃ。そう頭では分かっているのに、心にいっぱい溜まってしまったこの気持ちが言うことを聞いてくれない。 会いたかった。待っていてほしかった。再び自分の存在を、拒否するのではなく受け入れてほしかった。 だがひたすら彼に殺されるのではと怯えていたのも事実で、だからこそこうして安易に触れてもいいのか躊躇ってしまう。 しかしそれでも止まらないのだ。シルヴィオに名を呼ばれて、心も手も彼に触れたがってどうしようもない。 お願い、どうか、どうか信じて。シルヴィオにあと少しで触れると言うところで、真澄は祈るように目を閉じた。 こればっかりは嘘じゃない。本当に本当なの。あたし、ずっとずっと、シルヴィオに会いたかった――。 「……ごめんなさい」 真澄がシルヴィオの問いかけに応えるように彼に触れたと同時に、ようやく口から言葉が飛び出した。 それはあまりにも震えていて、いかにも声になり切れていない感じであったが、シルヴィオが一瞬黙ってそのあとで「まったくだ」と呟いたので、ひとまず伝わったことに安心した。 心臓が、どうしようもない切なさできゅっと委縮してしまいそうだった。 「真澄?」 「……ん」 「本当に真澄か?」 「……本、物」 ここでようやくシルヴィオの抱擁から解放された真澄は、次にはぺたぺたと彼に触られる羽目になった。 長いシルヴィオの指が、真澄の髪や頬を、感触を確かめるようになぞっていく。 それは恥ずかしいと言う感情よりも、いったいどこまで自分の存在が信用されてないのだろうかと思えるくらいだった。 まあ確かに城前にあんなにも黒髪の少女が揃っていたのだから、確かめざるを得ないのは至極当然のことのような気もする。 だがすぐにシルヴィオは触るのをやめると、また真澄の肩を己の元へと引き寄せて、はーと長い溜息をついた。 「お前、今までどこに消えてたんだよ。布令まで出させやがって……。あとなんだその服……」 「え?」 それはいつものシルヴィオの態度だった。 真澄はそんな彼の様子を内心嬉しく思ったが、そのまま答えようとしたとき、その返事の仕方に窮した。 「どこって、え、えーと……花屋?」 「はあ?」 「あの、王都にあったお花屋さんに今までいたんだけど。そこでこの服ももらって……あっ、ごめん! そのとき着てた紅色の服はそこでお世話になった人にあげちゃった!」 なんだそれ。茫然と真澄の言葉を聞いていたシルヴィオが、数秒後に肩をがくりとさせて力なく呟く。 だがそれはこちらだって同じだ。どうして気がついたら戦地から花屋へ移動していたのか、その理由は未だに判然としなかった。 「あ、そうだ。あとこれ」 真澄はシルヴィオから無理矢理身を引き剥がすと、服のポケットに手を突っ込んだ。 いったいなにがしたいんだとでも言いたげな不機嫌そうなシルヴィオの顔を無視して、しばらくポケットの中を探った真澄は、すぐに手のひらに収まるくらいの大きさのケースを取り出した。 「これ、シルヴィオのお母さんの。やっぱりあたしが持ってるの間違ってるような気がして……」 はい、と、真澄はシルヴィオの母の形見である紅の入れ物を差し出す。 シルヴィオはしばしその入れ物を見つめていたが、すぐにどこかおかしそうにふっと小さく笑った。 「言っただろ。それはお前にやったんだ」 シルヴィオは入れ物とともに真澄の手を包み、握らせた手の甲に軽く唇を当てた。 「ちょっと、あの……」 「あ?」 「……なんでもない」 なんだか、以前よりも明らかにスキンシップが過多になっていると思うのは自分だけだろうか。 シルヴィオに唇で触れられたところが、熱を持っているかのように熱い。 どこのツンデレだ。真澄は気恥ずかしさでいっぱいの頭でふとそう考えたが、口にするのはやめた。 「まったく……戦争が終わってみりゃイルミアのどこにもお前はいないし、城にも帰ってないし」 なにやらシルヴィオがぶつくさ言い始めた。 未だに彼に腕を掴まれているので逃げることもできず、真澄はただ及び腰になりながら彼の話を聞くしかない。 「……すみませんでした」 「花屋って、なんなんだよ……。危うくフロールに全軍あげて攻め込むところだったじゃねえか」 だが真澄はシルヴィオのその言葉を聞いたとき、思わず身を乗り出していた。 「せ、戦争は駄目!」 「お前がフロールのやつらに連れ去られたかと思ったんだよ」 当たり前、と言う顔で言い切られて、真澄はなにも言うことができなかった。 「あのクソ腰抜け野郎……敵前逃亡とはいい度胸だ。今度ラルコエドに爪先だけでも入ってみろ。容赦しねえ」 明後日の方向に顔を向けて、チッと舌打ちをするシルヴィオの横顔を、真澄は呆然と見つめた。 この瞬間、心の奥底から今まで忘れていた後悔の念がどっと押し寄せてきた。 おかしい、おかしいのだ。 シルヴィオの怒る相手が、どうしたことか間違っている。 その怒りの矛先は、本来なら自分に向けられて当然であったはずなのに。ガラヴァルとの意思疎通を失敗をした、自分が怒られて当然のはずなのに。 「って、お前、なんで泣いてるんだよ」 そうだ、すっかり忘れていた。シルヴィオはどこを怪我したのだろうか。 真澄は瞬きをするのも忘れて、あふれる涙でどんどん霞んでいく視界越しにシルヴィオの姿を見つめた。 「……ごめんなさい」 「は? それはさっき聞いた」 「……違うの。あ、あた、あたしの所為なの」 独白じみた真澄の言葉に、シルヴィオはむっと眉根を寄せた。 「お前の言ってる意味が分かんねえ」 「痛いところ、とか、ない? ……ほ、本当に、ごめんなさい。上手くできるって思ってたの、ごめんなさい」 それは自分でも驚くほどまったく抽象的な言葉の羅列であった。 けれどこれしか言い表しようがないのだ。 どうやってガラヴァルと交わした約束を説明すればいいのか、はたまたそれをどうやって信じてもらうのか、どちらにせよシルヴィオの理解を得る方法が分からない。 「……ごめんなさい」 しつこいくらい、それだけしか言えなかった。 泣いているのに嗚咽一つ出ないのを奇妙に思いながら、真澄はただ無闇やたらに謝り続けた。 けれどずっとシルヴィオに握られていた自分の腕が、彼の意思によって突然動いたとき、真澄は驚いて口を噤んだ。 「どこも?」 真澄の腕は、シルヴィオの手に導かれて彼の胸元に強く押し当てられる。 触れているところから、シルヴィオの心臓の音が伝わってきそうだった。 「それよりもお前が、俺の前から消えていたこの何日かの方が痛かった。ずっと」 それはとても戯言などと言うものではなかった。 シルヴィオに下から顔を覗き込まれて静かに言われたその言葉を受けて、真澄はぐっと唇を噛んだ。 分からない。これを幸せでないと言うのなら、なにをもって幸せと言えばいいのだろう。 真澄は思わず、ごめんなさい、と言いかけて、寸でのところでありがとうに変えた。 先程までは完全にどこかへ消えていた嗚咽が、このときほんの一回だけ、しゃっくりのような響きで真澄の喉元を揺らした。 お前、鈍すぎ。そう言って苦笑するシルヴィオに、真澄は一生懸命目元の涙を拭って頷いた。 今のこの瞬間につながっているのなら、もう自分は鈍感でもなんでも構わないと思えた。 ああそれにしても、どうしてシルヴィオは自分がこの世界に来たばかりの頃のように冷淡な態度で迎えてくれなかったのだろう。真澄は、手の甲で何度も何度も涙を拭ってはそればかり考えた。 もしシルヴィオがずっとあの不遜な態度を保ち続けてくれていたら、これほどまでに申しわけなさと嬉しさとでいっぱいになって泣きじゃくることはなかったのに。こんなにも、シルヴィオに赦されてほっとすることもなかったのに。 真澄はふと、自分の手に混じって頬の上をなにか温かいものが掠めたのを感じた。 不思議に思ってなんとなく目元から手を離すと、真っ先にこちらへ近づいてくる銀色の瞳が視界に入った。 「う、わ、ちょっと待って!」 あと少しで互いの顔がくっつくかと言うところで、しかし真澄は慌てて目の前にあったシルヴィオの肩を押し返した。 「……なに」 「あの、えっと……」 気まずい。反射で仕出かしてしまったこととは言え、ものすごく気まずい。 だが今の雰囲気と言い、シチュエーションと言い、これは間違いなくキスをされる前触れであった。 もしかしたら、シルヴィオは例の約束のことをまだ覚えているのだろうか。 確かにあの約束は一旦了承したものの、なによりもあのときは切羽つまっていたし、深く考えずに答えてしまった気がする。 一気に声のトーンが落ちたシルヴィオの顔を直視できずに、真澄は視線を宙に泳がせた。 「その、シルヴィオが城を出て行く前に言っていたことですが……」 「それがなんだ」 「だからシルヴィオの女が、ど、どうのこうのって言う……!」 言っているうちに恥ずかしくなってはっきりと言い切ることができなかったので、仕方なく重大な部分をぼかしにぼかすと、シルヴィオは途端にわけ知り顔になってにっと笑んだ。 「ああ、妃にしてやるよ。だが、確かお前は無理だって言ったんだよな?」 「っ、無理でしょ……」 よく平気な顔でそんな恥ずかしい台詞を抜け抜けと言えたものだ。 いや、彼自身がそれを恥ずかしいことだと気づいていない所為なのかもしれないが。 「ラルコエドの国王舐めんなよ。お前の国の王はどうだか知らないが、ここでは俺がルールだ。俺がイエスと言えばイエスなんだよ」 自信満々に放たれたいっそ潔い文句に、真澄は呆れて反論するのを忘れた。 でも、あたしには領土も金もなにもないのよ。あたしを傍に置いても、見返りなんてこれっぽちどころかまったくないのよ。 そう言ってしまいたかった。けれど言ったところで、「それがなに?」と素っ気なく返されるのは目に見えていたので、やっとのことで喉の奥の方へ引っ込めた。 けれど、どうしても言っておきたいことがあるのも確かだった。 真澄はそれを言おうか言うまいか考えに考え抜いたあとで、意を決しておずおずと口を開いた。 「その、妃……のことなんだけど、もう少し待ってくれない……?」 再びシルヴィオの指が真澄の頬をなぞって、先程の雰囲気が復活したかと思われたとき、真澄の突拍子もない言葉にシルヴィオは目を瞬いた。 「……は?」 「あ! シ、シルヴィオが嫌だとか、そう言うわけじゃないんだけど! 断じて違うんだけど!」 「とりあえず落ち着け」 真顔のシルヴィオを目にして、焦っていた自分が馬鹿らしく思えた真澄は、はい、と言って俯くと、大きく息を吸い込んだ。 そうして息を吐き出すとともに顔を上げた先で、シルヴィオの背後に聳えるこの部屋の大きい窓が目に飛び込んできた。 まだ昼だからだろうか、外は日の光があふれていて明るい。ラルコエドの青空も、いつもより高い位置にあるように思える。 だが例え世界は違えど、この空は自分が元いた世界のものとあまり変わらないのだろう。 そう思ったとき、真澄はいつの間にか空に向かってぽつりと呟いていた。 「あたし、自分の家に帰るの、まだ諦めきれなくて……」 目蓋の裏に、花屋で世話になった母子の姿が映った。 恐らく父と母は、余程のことがない限り自分のことを心配しているはずだった。 思えば両親になにも言わずこの世界に来てしまったのだ。シチュエーションからして出立の言葉などかける暇もなかったのだが、だからこそ、もう一度元の世界に戻って、父と母に会いたいと思った。 もしかしたらこの世界に留まるのに対して躊躇いがあるからこそ、そう考えてしまうのかもしれない。ひょっとするとこれは一種の逃げなのかもしれない。 けれどどこにでもあるような母子の姿を目にした刹那、真澄はとにかく一目でいいから親に会いたいと焦がれてしまったのだ。 思い返せば一度も親孝行などできなかった。滅多に「ありがとう」も言わなかった。 後悔と言えば後悔になるのだろう。いやむしろ後悔以外の何物でもないと言い切った方が、いっそ気分が楽になる。 そこまで考えたとき、なんて自分は罰当たりな生き方をしてきたのだろうと、一気に押し寄せてきた心細さが真澄の身体を震わせた。 その所為だろうか、真澄は無意識のうちに手元近くにあったシルヴィオの服の袖をついと引っ張っていた。 けれどシルヴィオは邪険にあしらいはせず、それどころか呼応するかのように、くしゃり、と乱暴に頭を撫でてくれたので、途端に真澄の胸は嬉しさで張り裂けそうになった。 「それなら待つ。お前が飽きるまで」 「……ありがとう」 「だが、帰る手段が分かったところでそう易々と帰さねえからな」 意外と優しいところもあるではないか。 せっかくそう思っていたのに、耳元で静かに呟かれたシルヴィオのその一言に、真澄の顔は火がついたように赤くなった。 「……それはそうと」 シルヴィオの服の袖を掴んだまま、なんとなく手慰みにその生地の滑らかさを触って確かめたり、袖口の刺繍をそれとなく目で追ったりしていた真澄は、一段と低いシルヴィオの声にはっとして顔を上げた。 そこにはどこか仏頂面したシルヴィオが、嘆息混じりにこちらを見下ろしていた。 「お前……頼むからいい雰囲気を自らぶち壊しにいくのはやめろ」 「え、壊してる?」 「今がまさにそうだろ」 気がつけば、また腰にシルヴィオの手が回されている。 もはや逃げることもかなわない状況で、真澄は気恥ずかしさが身体全体を巡っていくのを感じた。 「……ぜ、善処します」 「そうしろ」 逆光のようになだれ込んでくる窓の外の光は、この薄く青みがかかった部屋とはどこか対照的に思えた。 BACK/TOP/NEXT 2010/09/29 |