Wahrheit -05 少年が歩くたびに、白い蕾をいっぱいにつけた花が彼の小さな手の中で揺れる。 それはどこかスズランに似ているような、しかしよく見るとまったく似ていないような気もした。 真澄は少年の、その花を掴む手とは反対の手を優しく握りしめながら、彼がいちいち顔を向ける方へ同じく視線を向けた。 今彼が目を輝かせているのは大通りに面している一件の、大量の木箱が積まれている軒先だった。 「ここのねーお魚がね、おいしいんだよー」 「そうなの?」 「うん。僕大好き」 花を指揮棒のように振りながら、少年は真澄を見上げると興奮した様子で話した。 真澄は彼のその生き生きとした瞳に笑った。 見知らぬ道中を、一人でびくびくと怯えながら行くことにならずに本当によかったと思う。 これからラルコエド城に出向くと言った真澄を近くまで送ると申し出たのは、他の誰でもない、文字通り真澄が三日三晩世話になった花屋の少年だった。 じゃあ僕が案内するね、と、有無を言わせないような無邪気とも言える申し出に、しかし真澄は遠慮することを忘れた。 女から聞いたラルコエド城までの道順が分からなかったのではない。 ただ単に誰かに縋りたかったのだ。真澄はなによりも、ラルコエド城に行くと決めてから、まるでこれからずっと暗闇の中を歩いて行かなければいけないように感じていた。 怖い。怖い。 できれば見て見ぬ振りをしたい。このまま何事もなく、自分はラルコエド城の人間とはなんら関わりがなかったと思い込んだまますごしたい。 しかし現にそうやって目を逸らすことができないのは、自分の気持ちに決着をつけたいから。もう一度シルヴィオに会って謝りたいから。ほんのわずかだが、夢で見たあの動かないシルヴィオは偽物だったのだと、今シルヴィオは生きているのだと、この目で確かめたいからなのだ。 そんな心の葛藤が、少年の一言によってほぐれた気がした。 「ここの道をずっと行くとね、お城に出るんだよ。もうすぐ見えるよ」 半ば呆けていた真澄の腕を、ぐいぐいと引っ張って少年が言う。 我に返った真澄は、城が見えると聞いて慌てて気を持ち直した。 そうして睦まじく街の通りを歩く真澄と少年とを、すれ違う王都の人々はやや目を丸くして見送った。 気づいていないわけではない。恐らく、その原因はこの自分の髪の色その他諸々にあると言ってほぼ間違いはないだろう。 あからさまに蔑視されないだけまだ恵まれているだろうか。 「ほら、塔が見えるでしょ? あれがそうだよ」 真澄が己の考えに対し自嘲気味にふっと笑ったところで、少年が再びぐいと真澄の腕を引いた。 真澄は少年の言葉に反射的に天を仰いだ。 途端、真澄は自分でも驚くほど一瞬でその場に固まった。 王都の長い大通りは、少年とあれやこれやと会話していたせいか、とっくに通りすぎてしまったようだった。 真澄の瞳に、天を突く勢いで聳え立つ何本ものしっかりとした塔が映った。 塔の天辺には緑色の旗がぱたぱたと風に凪いでおり、あそこまで行くには一回人間をやめないと無理ではないだろうかと言う気がした。 徐々に目線を下げると、塔と塔とを繋ぐ回廊や、端正な模様が施された外壁など見たこともない建造物が次々に飛び込んでくる。 「すごいでしょ?」 真澄が呆気にとられたのに気づいたのか、少年は真澄の顔を下から覗きこんで笑った。 「……うん。すごい」 下から見上げただけでは、到底城の内部がどうなっているかなど分かるはずもなかった。 むしろ自分が今までこの中で一定の制約はあったものの何不自由なく生活していたことの方が意外ではあるが、いやしかし、この規模はいかがなものか。 東京ドームくらいは軽いんじゃないの。真澄は冷静に分析しながらも、開いた口が塞がらなかった。 「入口はあそこだよ。お姫さま、見える?」 「え?」 今までずっと上ばかり見ていたから見落としていた。 少年が小さい指で示した先には、「強固」と言う表現がまさにぴったりな城壁が立ちはだかっていた。 それはその高い塔や居住区であろう建物を敵の侵入から防ぐために、城の周りにぐるりと巡らされてある。城壁の正面と思われるところには城門があり、数人の甲冑を纏った人間が立っている。 さらに城門の数メートル手前には、一見して池かと思わせるような環状型の堀が設けられていた。 どうやら堀に唯一架けられた石橋を渡って、あの頑強な城の入り口まで行かなければならないらしい。 今や多くの少女と思われる人々が、堀を超えた城門の前で群れを成していた。 「ねえ……」 「うん?」 「これって、もしお城の中に通されなかったらあの堀に埋められちゃうとか、ないよね?」 「分かんない!」 そこはせめて「そんなことないよ」と言ってほしかった。だがあのシルヴィオが王に就いている国だ、もしかしたら根拠があってそう言ってくれたのかもしれない。 今さらではあるが、真澄は猛烈に引き返したい衝動に駆られた。 青空が眩しい。どこからか鳥が数羽飛んできて、城の塔の辺りをぐるぐると旋回している。 ああ、こんな清々しい天気の中、これからシルヴィオの面前、最悪処刑場へ連行されるのかと思うと憂鬱になる。 真澄は長い間黙り込んだあと、無意識に隣にいる少年の手をぎゅっと強く握った。 「……お姫さま、怖いの?」 「うん。そうかも……」 「大丈夫だよ。だってお城の中って、全部『金』でできてるんだって。先生が言ってた」 真澄はふと少年の方を見た。少年はこちらをその真っ直ぐな瞳で見つめていた。 「だから怖くないよ」 全部「金」か。そうしたらきっと、この目は潰れてしまうな。 真澄は真面目に少年の発言を受け止めたあとで、ふとそんな城は素敵だなと考えて、そうだね、そうだよね、と言いながら目を細めた。 少年はそれで満足したようで、にっと口の端を上げると真澄の手を離した。 「じゃあね。また僕の家に来てね」 「うん」 たたた、と、大通りの中へ走っていく少年にひらひらと手を振り、真澄は泣きそうになった顔をぐっとこらえた。 「がんばってねー!」 大通りの手前で再びこちらに声援を送ってくれた彼に、真澄は腕が千切れそうになるほど手を振り返した。 がんばるよ。絶対にがんばる。真澄は心の中で何回も強くそう唱えた。 少年の姿が消えると、真澄は深呼吸をしてから踵を返した。 目前にどっしりと腰を据えているのは、かの有名なラルコエド城だ。 しかし外観はこうなっていたのかとつくづく感心してしまう。自分が住まわせてもらっていた部屋がどこにあるのかなど、皆目見当がつかなかった。 王家からの布令は大した影響力を持っていたのか、それともこの国が広大ゆえに分母が莫大なだけかは分からないが、真澄が意を決して城門へと歩みを進める際に、多くの少女が真澄を追い越して行った。 黒髪の少女など結構いるではないか。ゆっくりではあったが、真澄が城門について真っ先に考えたのはそんなことだった。 真澄以外にも黒髪を持った少女は結構な数がおり、中には亜麻色だったり微妙に茶色が混ざっていたりするのだが、一目見ただけではなんだか親近感を覚えてしまうほどだった。 彼女たちは今、なにやら城門で待機させられているらしい。 遠目には分からなかったのだが、城門付近に甲冑を纏った人間は予想より何人もいて、さらに見たことのある恰好をした人間も多く混ざっていた。 (あれって、侍女さんだっけ……?) 甲冑を纏う者、恐らくは兵士だろう、彼らと侍女たちとは、次々にやってくる黒髪の少女一人一人となにかを話しているようだった。 なぜ侍女が城外に? と真澄が首を捻った矢先、城門から外れたところでなにやら少女たちと会話していた一人の侍女とばちりと目が合った。 その侍女は目が合ったきりこちらをじっと食い入るように見つめると、すぐに真澄の元へやってきた。 どこか不審な部分でもあっただろうか。真澄は咄嗟に逃げようと思ったが、あとからわらわらとやってきた黒髪の少女たちのため逃げ場を失った。 これはまさか、このままこの底の見えない堀に落とされる前兆なのではないかと、いっそ真澄にはそう思えた。 つかつかと歩み寄ってくる侍女は、人の波を掻き分けて確実に自分を目標にしている。 真澄はすぐさま脳味噌をフル回転させて、必死に弁解の仕方を考えようとした。しかしそもそもの弁解の理由が分からないと言うことにすぐに気づいた。 真澄がそんな無意味なことをしている間に、侍女はいつの間にか真澄の目の前に立っていた。 身長は自分とさほど変わらない。年齢も数歳上か、百歩譲って同い年くらいだろう。 真ん丸く見開かれた侍女の瞳は、遠くで目が合ったときからまったく変わらず自分の顔を覗き込んでいる。 「そんな……信じられませんわ……」 肩をビクつかせて後退する真澄の両手を唐突にがしりと掴むと、侍女は泣きそうな声で言った。 「わ、私のことを、覚えていらっしゃいませんか!?」 「……えっ?」 彼女の言葉に、すぐになにを言っているのかが分からなかった真澄は恐る恐る小首を傾げる。 だが失礼を承知の上でまじまじと彼女の顔を眺めたあとで、真澄は彼女の顔立ちに覚えがあって、ああ、と声を上げた。 「あ! 確か許婚の人がエルミーラにいるって言ってた侍……」 しかし真澄が言葉すべてを言い終える前に、気づけば身体をぐんと強く引かれていた。 今自分の腕を掴んで先頭を切って歩いているのは、自分と体格も年齢も変わらない一人の少女である。 「え、あ、あの! ちょっと!」 「ああもう真澄様……こんなに嬉しいことはございません……!」 侍女はこちらの言葉など総無視で、自分の腕を掴む手とは反対の手で大袈裟に顔を覆いながら先を進む。 そのまま城門の前まで行くと、傍に立ってたいた甲冑の男たちの元へ近寄って行った。 「真澄様です。本人です。世話係の私が証言いたします」 なんだか事が順調に進みすぎてはいないだろうか。 真澄が薄らそう考え始めて、やがてそれが確信に変わったとき、真澄は瞬く間に城門を通され、正門前の広場を抜け、堂々と城の正面入り口から入城し、馬鹿みたいに長い廊下を、先を行く侍女とともにひたすらに早足で歩き続けていた。 いや、むしろ侍女に強引に引っ張られて、と言う表現の方があながち合っている気がしたが、突然の急展開や懐かしい城の複雑な構造に閉口してしまったのでそれでいい気がした。 だが確実に有耶無耶にできないこともあった。 それは、もし自分の推測が正しければ、この侍女は今真っ直ぐにシルヴィオの部屋へ行こうとしていると言うことだ。 周囲は段々と見慣れた風景に変わっている。それはただ一ヶ月弱を城内ですごしただけとは言え、真澄にとってはかなり馴染み深いものであった。 「あの! すみません、少しお伺いしたいことが!」 「でしたらシルヴィオ様との面会が終わったあとに伺いますので」 確定ではないか。途端に真澄はなぜか焦る自分がいることに気がついた。 「ほ、本当に今! とても急な話なんです!」 「ええ、私も急いでおります」 「違います! あの、シルヴィオに会う前に! どうしても! 聞かなきゃ意味のないことなので!」 城へ行ってもシルヴィオと会うのは大分あとだと見積もっていた。 その間に呼吸を整えたり、場の空気に慣れたり、集まった黒髪の少女たちの動向を横目でちらちらと盗み見たり、シルヴィオと対面する前はもっとこう、厳粛に行われるものだと考えてばかりいた。 しかしこの構図は、まだ城門に着いてから一時どころか三十分も経っていないではないか。 「ちょ、ちょっと待って! あたしまだ心の準備が……!」 「国王にお目通りを! 真澄様です!」 侍女のその一言に、真澄はいよいよ自分の体温がさーっと下降していくのを感じた。 彼女はそんな真澄を気にも留めずに、ある部屋の前で仁王立ちになっていた数人の男と早口でなにかを話したあとで、また真澄の腕を引く。 このとき身体から力が抜けかけていた真澄は、易々と彼女の思うままに動いた。 考えたくない。思い出したくない。 だがはっきりと自信を持って言えることがある。間違いない、間違えようがないのだ。ここはまさしく「シルヴィオの部屋」だ。 侍女は急いでいるのを隠しもせず、粗野とも言える動きでその部屋の扉を数回叩いた。 「……なんだ」 「シルヴィオ様、失礼します」 用件もなにもかもをすっ飛ばして、侍女は乱暴に扉を開けた。 真澄は扉が開けられる前、思わずさっと俯いた。部屋に連れられて最初に目に入ったのは、ふかふかの絨毯だった。 「シルヴィオ様、真澄様です。間違いございません。私が、私と真澄様しか知らない会話を知っていました」 俯きながら侍女の澄んだ声を聞いている間、真澄はどくんどくんと唸る自分の心臓の音に狂ってしまいそうだった。 まだ自分の腕を掴んでくれている侍女の存在だけが頼りだ。 その温もりによって、今自分は一人ではないのだと安堵できる。 お願い。まだ、ずっとずっと、あともう少しでいいから喋り続けて。 真澄は侍女の声に、唇を噛みながら懇願した。 「では、失礼します」 しかし真澄が頭の中でそう願った矢先、侍女は一礼するとぱっと真澄から手を離した。 待って! 真澄は言いかけて逆に彼女の腕を掴もうとしたが、既に彼女は扉の向こうに去ったあとで、扉さえもが無情にも激しい音を残して閉められた。 どうしようもなかった。どうするべきかも分からなかった。 考えれば考えるだけ考えは煮つまって、真澄はいっそ泣き叫びたい気持ちになった。 部屋に入ってからずっと俯いてばかりいたせいで、シルヴィオがどこにいるのか、どんな状態のシルヴィオがいるのかさえ分からなかった。 侍女が扉を向こうから閉めてしまったきり、部屋の中に物音一つしない。 自分の心臓はますますうるさく拍動し続けるばかりで邪魔でしかない。 真澄はそんな目が眩むような狂った状況の中に身を浸しながら、彼がなにかを口にするその瞬間を、ただひたすらに待つことしかできなかった。 BACK/TOP/NEXT 2010/08/03 |