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初めて見たときからいけ好かない女だと思っていた。 「"三つまでなら願いを叶える"って……なにそれ、アホらしい」 だが本音を言うと、その第一印象は見事に当たっていたのだ。 なにせ彼女の歪んだ唇から紡がれる言葉すべては、人間にしては驚くほどひどい文句の羅列だったのだから。 「それ本当なの? あとで『あれは冗談だった』なんて戯言抜かしても絶対に許さないわよ?」 まったく、こんな人間に助けられた自分に同情する。 「じゃあ、早速一つ目、使うわ」 後悔していないと言えば嘘になる。だがしかし、既に起きてしまったものは仕様がない。 願わくば、そう願わくば、早くこの小娘から解放されるようにと祈るほかないわけで――。 「叶えてくれる願いを無限にしてちょうだい」 解放、されますように。 What a wonderful world. 「うわ、今日の気温、昨日より五度も高いんだって。暑くなるんだろうなあ……面倒くさ」 それが彼女の趣味なのかは分からないが、いつも彼女は部屋の窓を大きく開け放っていた。 その窓からは言わずもがな大量の風がなだれ込んでくるわけで、その風は当然彼女がソファの上で広げる新聞紙に激しくぶつかって、終いには部屋中を大はしゃぎで飛び交う。 だがそうやって無駄に風に煽られながらも彼女は億劫そうにばさばさと新聞紙を持ち直すだけで、決して窓を閉めようとはしなかった。 彼女がこうもこの状況を固持するのは、今日が特別暑くなるからではない。 気温の変化でがくんと温度が下がった日でも、彼女は同じように、いっそ潔いまでに窓を開け放つのだ。 少なくとも自分がここに居つき始めた一ヶ月ほど前から、彼女は日中の間は必ずと言っていいほど部屋の窓を全開にしてはこちらの気をうんざりさせた。まったく、せっかく片づけた部屋が散らかる。 だがそれは換言すると、彼女はまるで自分をここにいないかのごとく振る舞っているかのようだった。 実際彼女自身、こちらの存在など微塵も気にかけていなかったに違いない。 その方が都合よかったのはこちらも同じだったし、ゆえに互いに互いのことをあまり気に留めずに一ヶ月をすごしてきた。 彼女が平日の昼間、どこでなにをしているのかは知らない。 ただ毎朝早く出かけていっては必ず夕方この狭いワンルームの部屋に戻ってくる。かと思えばすぐにまた部屋をあとにして、夜も大分更けた頃に気だるそうに玄関の扉を開ける。 時折小さい机に向かって鉛筆を走らせることもある。何枚もの紙とにらめっこを繰り返すことも多々ある。 それがここ一ヶ月でようやく掴むことのできた彼女のあまりにも忙しない平均的行動パターンだった。行動を一つにまとめればいいのに、と、つくづく思う。 これだから日本人は仕事に生きる人種だと揶揄されるのだ。 「あれ、もう夕方?」 今日も今日とて新聞を持ち上げながらしきりに紙にメモを取っていた女だったが、ふと顔を上げると時計を見て素っ頓狂な声を出した。 「これから買い物に行くけど、アンタはどうする?」 たまには食べたいものの一つでも言ってみなさいよね。いつも私の好みじゃアンタも嫌になるでしょう。 パンパンと、部屋着を叩きながら彼女はソファから立ち上がる。 そう、一見こちらを気にしていない風でも、彼女は唯一食に関するときだけはこちらに配慮する。それも彼女の特異な行動パターンのうちの一つだった。 一応彼女にとってこちらは異性だと言うのに、一ヶ月の同居の慣れの所為か堂々と部屋着から外出着に着替え始める彼女の肢体から目を逸らし、さっさと部屋から出てアパートの回廊で彼女が出てくるのを待つ。 するとものの数分で、別人のように着飾った女がヒールの高い靴を突っかけながら現れた。 「で、なにが食べたいの?」 「食えるものならなんでもいい」 俺が無愛想にそれだけを口にすると、ハッと、女は嘲笑めいた笑いを漏らした。 「いつもいつもそれじゃない」 「本当になんでもいいんだよ」 「はいはい。それじゃ適当に売り出し中のもの見て買おっかなー」 でも牛乳だけはちゃんと買っておかないとね。もうストックがないのよ。 そうぶつくさ言いながらさっさと歩く女の歩幅に合わせて、こちらも適当に相槌を打ちながら彼女の横の位置をキープした。 外の風は部屋の中で感じたものよりいくらか熱気を伴っていた。あつ、と、前髪を掻き上げると、べっとりとした汗が手に絡みついた。 だがこう言ったいかにもな日常が日常になりつつあるとき、不意に思うのだ。こいつ、本当に忘れているのではなかろうかと。 自分の存在ではない。むしろこの瞬間、自分は確実に彼女の視界に入ってるに違いないだろう。 しかしこの際、普段の彼女にとっての自分の所在がどうなっているかは最早どうでもいいことであった。彼女に忘れられては困るもの、それは彼女に与えた残り二つの願いごとの行方だ。 自分たちがこの奇妙な同居を始める一ヶ月前、なんだかんだあった末、不名誉なことに彼女の助けを受けることになり、その対価にと自分たち魔術師にとってお約束の三つの「願いごとを叶える機会」を授けた。そこで一つ目を叶えたまではよかったのだが、それ以降彼女はどうも残り二つの願い(と言っても一つ目の願いによって今後叶えられる願いは「無限」にされたので奇妙なものなのだが、ここは便宜的に「残り二つ」としておく)をすっかり忘れているようなのである。 こちらの存在云々は忘れてくれて構わない。だが願いごとを放置されると、それは後々やっかいなことになる。 そもそも自分がこの大陸からも離れた極東と言う辺境の地まではるばる来たのは、単なる観光目的ではない。 魔術師の東西格差を十年以内に是正する。それが自分の属するコミュニティが近年新たに打ち出した政策で、自分はその草分けとしてこうして単身異国へ乗り込んできたにすぎないのだ。 そう、要するにこれは"仕事"なのだ。 しかし冷静に考えてみると、自分たちからして異教徒ばかりのこの土地においての魔術師の存在は格差云々が語られる以前の問題だと思う。 まったく、上の考えていることはよく分からない。報告書にはそう書いておこう。そうすればもしかしたら自分は早々にこの任を解かれるかもしれなかった。 まあ、叶える側叶えられる側のどちらかが先に寿命を迎えれば願いごともなにもかもチャラになるのだが。 同居をし始めて最初はそんな淡い期待を抱いていたものだったが、一ヶ月もすると意外にこう言うタイプの女が長生きするんだよなあと言う諦観にも似た感覚に身を委ねるようになった。 つまるところ、この女はなにがあってもしぶとく生き残る部類の人間だと言うことである。 「あっつい!」 アパートの階段を降り切った途端、女が服の胸元を仰ぎながら叫んだ。 まったく同感だ。こんな蒸し暑くて人口がクソ多い土地、早々に退却したい。させてほしい。 目の前には大通りが広がり、そこを昼夜問わず数多の自動車がけたたましいクラクションを鳴らしながら猛スピードで通りすぎる。 彼女曰く、「これはこの大都会トーキョーでは普通のことなのよ」らしい。 横断歩道の前で礼儀正しく突っ立っている間にも、車の波は確実に目と鼻の先を目にも止まらぬ速さで横切っていった。 人類の発明と言うものは時には恐ろしいものだな。 そんなことを考えている間に、今まで赤色だった信号機がパッと緑色に変わった。 「ほら、行くわよ」 そう言って彼女は先陣を切るように白のラインへ足を踏み出した。 しかしその彼女の横を、背丈の小さい、いかにも元気が取り柄だと言わんばかりの少年があっと言う間に追い越して行く。 俺にもあんな頃があったな、七〇年くらい前の、世界のあちこちで粉塵が上がっていたときのことだけれども。だいたいそんなことをゆっくりと回想しながら俺は女の背中を追った。 だが俺が一歩を踏み出そうとしたとき、キキイッと言う甲高い音が耳に飛び込んできた。同時に、ドン、と、鈍い音がいち早く辺りに響き渡る。 女の前をなぜか今は止まっているはずの一台の自動車が掠めていくのが見えた。 それからその自動車に押し出されるようにして弾かれる、先程の元気な少年の姿がいくらか遅れて網膜に映る。 (……おー、間一髪) 流石だな。と、追いついた先で茫然と立ち竦む女を眺めて、俺はひゅうと口笛を鳴らした。 有望な人間に神は至上の愛を注いでおられる、ってか。自分で考えながら空しい気もしたがそれが事実なのだから仕方がない。 悲しいことに所詮俺みたいなありふれた魔術師の替えはいくらでもいるのだ。 だがこの女だけは、と、彼女の表情を窺おうとして、すぐにそれは阻止された。 車に轢かれた少年に一番近かった女は真っ先に、今やぴくりとも動かないその小さな身体に駆け寄った。女につられるように、周囲には瞬く間に人だかりが形成される。 「……おい。おいってば!」 「なんだよ」 俺は人だかりを手で掻き分けて女の背後に立った。女は少年を覗き込むように道路に膝をついていた。 周囲の人間が口々に様々なことを叫び、慌てふためく。 そんな輪の中で女は少年の四肢を真っ直ぐに見下ろしながら、しかしその目は恐ろしいまでに落ちついていた。 「私の願いごと、まだ残ってたわよね」 「それがどうした」 「それ、残りのやつ、今使うわ」 おお、覚えていたのか。 一ヶ月前の願いごとなんぞ、この女はてっきり忘れているとばかり思っていた。ゆえに感心して驚いていると、こちらの反応を読み違えたのか、女はすぐに目を見開いて今にも泣きそうな声色で問うた。 「……足り、ない?」 それは俺が初めて見る、彼女の表情がぐらと揺れた瞬間だった。 彼女の口がふるりと小刻みに震える。この瞬間、次に彼女が言いそうな言葉がすべて分かったような気がした。 「なら全部あげる。残りの二つも、最初の願いで無限にした願いも全部全部あげるから」 「……」 「なんなら私のこの命だって、ねえ、アンタには出来るんでしょう。アンタ魔術師なんでしょう。私の願いを叶えてくれるって、アンタそう言ったじゃない」 予測通りの言葉が堰を切ったように彼女の口から飛び出す。ああこいつは――真性の「バカ」だ。 「この子を助けて。お願いだから」 よし、いい機会だ。一つだけ断っておこう。 人間と言う人種は、「願いごと」に関してはどうしても勘違いしているところがある。 自分の命と引き換えに誰かの命を掬い上げる。 ああ、よく聞く話だ。少なくとも俺がこの仕事に就いてから、この件に関しては何千何万と言う事例を目にしてきた。 しかしその際に問題になるのは、はたして捧げる側の命が今にも息絶えようとしている者、あるいは息絶えた者の命と取り替わることができるのか否かと言うことだ。 ここで俺たち願いごとを叶える側の静かな葛藤が始まる。なにせこれは口外禁止の重要機密なんだからな。 初めに答えを言ってしまえば、人の命を簡単に「ハイ、どうぞ」などと取り替えることはできない。 なにせ命ばかりは個々人を証明する唯一無二のものなのだ。ゆえにそれは神の守護の元、人間なんぞには手の出せない領域にあるんだよ。それを人間は他のどうでもいい願いと一緒くたにしている。それが勘違いだと言うのだ。 その証拠に命の交換を行った魔術師はあとで膨大な量の始末書を書かされ、最低でも一年ほどの魔術禁止期間が科される。ゆえに魔術師は、その願者によほど思い入れがない限り命の代替をあまりやりたがらなかった。 そしてもう一つ、その人間が持つ将来性と言うものは命とともにあると言うことも説かなければいけないだろう。 世間的には珍しい魔術師と言えども、自分のような存在は極普通の生物の分類に入る。 しかし稀にだが、その枠を大きく跳躍して存在する人間が、一〇〇年や二〇〇年に一人くらいの割合で現れるのだ。英雄と言われる人間や救世主、それにこちらは幾分マイナス面が大きいが暴君なんかがそれに当たるな。今何人かは推測できただろう? と言うわけで、隣の女、こいつは後者だ。はっきり言おう、この女の未来はどんな予知能力者であれ計り知れない。 本人に自覚はないようだが、彼女はあと数十年もすれば間違いなく世界中にその名を轟かせることになる。その程度は、自分たちコミュニティにおける予知権威者であれ予知ができないと泣き喚くほどだ。 そんな世界を動かすに至るアホみたいに質量の大きい人間の命を易々と他の人間の命と替えてみろ。俺は替えようとしたその一歩前に、確実に同胞たちに袋叩きにされるだろう。 なにせそれは運命を司る神への反逆でもあるんだからな。神へ逆らう者は始末されるのが通例だ。 あ? この地へは単独で来たんだろうって? 魔術師舐めんな。こう言うときに同業者が怖くなるんだよ。 だが幸いにもこうした場合、自分たち魔術師には「放棄」と言う例外が認められている。 つまり、このバカでかい将来性を持つ女の「私の命をあげるから」と言う願いは今回に限り却下してもいいと言うことだ。 「ねえ、どうなのよ。駄目なの? オーケーなの?」 なかなか答えを出さなかったからか、苛立った口調で女はこちらを見上げてきた。 その間にも、確実に一人の少年の身体からは止め処なく鮮血があふれ、鈍色に舗装されたコンクリートの道路を這っていった。 周囲に集まる人の数が格段に多くなってきた。彼らは相も変わらずてんでばらばらのことを口々に嘆いている。 辺りが喧噪に包まれる中、俺はじっと女のいつもより遙かに血の気の多くなった顔を見下ろした。 恐らく、「放棄」をすれば今の彼女は俺の胸倉を掴んでも「やれ」と言うだろう。 伊達に一ヶ月も同居をしていたわけではない。彼女の少々バイオレンスめいた行動は十分に予測できた。 だが仮に胸倉を掴まれたとしても、その結果意識が混濁するまで殴られることになったとしても、こちらにとってその負傷は非常にちゃちなものだった。それくらい、魔術師にとっての「放棄」は簡単な選択肢であった。 しかし彼女の強い意志にあふれた眼光を目の当たりにしたとき、もう一人の自分が「もういい」と呟くのが分かった。 溜め息にも似た吐息を一つつく。そうして俺は一瞬の間を設けてから、口の端をにいと釣り上げた。 「了解。ただし叶えられる願いは根こそぎもらっていくぜ。それと……命もな」 今回自分がこの女と知り合ったのは「幸運」だったと、そうコミュニティの人間は口にするだろう。だが個人的にはこんな淡白な女の相手など金輪際お断りだった。 なによりも、それは自分にとっての「幸運」ではないのだ。生きている間に彼女と出会えた、この場合の「幸運」はたったそれだけを指す。 それがどう言うことか分かるか? 大多数の人間はまだ首を傾げているだろうな。 解釈をしてやってもいいが、その前に今回のこの女の願いごとの件について言及しておこう。 もちろん彼女の命は神以外誰にとっても不可侵、それなら残された選択肢は一つだけだよな。そう、願いごとの「放棄」、大正解だ。 だが惜しかったな。この場合、ちょっとした脇道があるんだ。 ここまで魔術師のことについて知ったんだ、少しくらい予想はできるだろう。 魔術師は多大な運命を持つ命への干渉はご法度、と言うことは、その願者が一般の枠に収まるなら"誰の命でも"扱えるってことだ。 それは自分みたいな一般の枠に嵌まる者でも同じこと――そう、その「まさか」だよ。「幸運」の意味も、そろそろ理解できただろう? 俺は心の中でやれやれと嘆息をして、勢い天を仰いだ。 そこではどこまでも綺麗なコバルトブルーが無機質な建物一つ一つの隅の隅にまで染み渡っていた。この土地特有の湿った風が、汗でねとついたこの髪を弄ぶように周囲に吹き荒れる。 「ありがと」 俺が魔力を使い始めたのを察知したのか、女は足元でほっとしたように胸を撫で下ろした。 しかしそれは死を目前にした人間にしては――表向きにはだが――あまりにも綺麗な微笑みだった。 まずいな、ここにきて幻覚かよ勘弁してくれ。 身体の奥から魔力が湧き起こるのを感じながら、俺は目頭を指でぎゅっと抓んだ。 普通の人間なら少なからずこれから訪れる死の恐怖や痛みで怯えるはずだった。それなのに彼女が微笑んだそれは、常日頃から死を覚悟している者だけができる所作だった。 この女が、あろうことか神の御傍に控える可憐な天使様に見えるとは、本当に今の自分はどうかしている。 俺はどうなんだって? そんなの答えるまでもないだろ、よしてくれよ。 短命の上に浅はかな考えしか持たない人間と違って、魔術師にとって死はとても遠くにあるものなんだ。それを急に目の前に突き出されてもみろよ。頭が真っ白になるに決まってるだろ。 だってこれで人生終わりなんだぜ? これからやろうとしていたこともやりたかったことも、一秒の猶予さえ惜しまれて考える暇さえないんだぜ? でも一つだけ言いわけしておくが、俺はこのとき正常な判断を下したつもりだ。奇行でも頭が狂ったのでもない、至極真っ当な選択だ。 理由? 簡単だ、この女に賭けてみたくなっただけだよ。それとこいつが本当に「使える」のか、こいつの下す選択と言うものが世界にどんな結果をもたらすのか高みの見物と洒落込むのもいいなと思っただけ。それだけだ。 だがしかし、こんなことになるなら東になんて来るんじゃなかったな。いやマジで。 だからだよ。俺は初めてこいつを見たときに嫌な予感がしたんだ。 結果が好転しようと悪化しようと、背筋を冷たい手のひらでそろりと撫で上げられて内臓が委縮するような、そんなとてつもなくおぞましい感覚だよ。 さて、そろそろさよならの時間だ。俺の世界! CLOSE 2011/05/09 |