意志を継ぐ者 -第七話 自分以外誰もいなくなった一階の木造の仕事場は、水を打ったようにしんと静まり返っている。 いつもはひっきりなしにけたたましく鳴り響く机の上の黒塗りの電話も、このときばかりは空気を読んだのか、彼らが出て行ってからこの通り沈黙を守っている始末だ。 ウィザロは仕事机の前にある椅子に深く腰掛けながら、窓越しに見える殺伐とした外の風景を飽きることなく見つめた。 こう言う偶然と偶然が重なり合うことはたまにある。 気分がいつも以上にズドンと落ち込んだり、ふっと物思いに耽ってしまうときなど、不思議と仕事の依頼はぱったりと途絶えて、こちらに考える時間をもたらしてくれるのだ。 もしかしたらそう言う間を狙って自分の感情が上下するのかもしれなかったが、原因がなんにせよ、ウィザロはそれは神のお陰なのだと半分本気で思うようにしていた。 なんの物音一つしない。むしろこの静寂に耳が痛い。 窓を開ければ自然の声が聞こえてくると分かってはいるが、せっかく座ったこの椅子から立ち上がる気はまったくと言っていいほどしない。 そうやってすべてを放棄することを決めて目蓋を閉じれば、脳裏にはアレックスを始めとして今まで関わった親しい人間の顔が数珠繋ぎに蘇ってきた。 人と人の別れはいつだって寂しい。それが特に、思い入れのある人物なら尚更のことだった。 いつまでもこうして感傷に浸っているのもやめなければと思う。けれどこうして一度深く落ちるところまで落ち込まなければ、明日からまた生きてなどいけないのだ。 けれどせっかくのシンキングタイムも、あっという間に終焉を迎えることとなる。 椅子の背もたれに全体重を預けて寛いでいたウィザロの身体の中に、ジリリジリリと、最初はなにかの予兆のように、しかし次第に現実感を帯びてそれは響き渡る。 今まで大人しかった黒塗りの電話は、数分としないうちに普段通りのすさまじい音でウィザロを夢現から引き戻した。 今回の休憩タイムはもう終わりか。 ウィザロは一回短く呼吸をしてから、今も小刻みに震える受話器を手に取った。 「はあい、魔術師オルコットです」 それまでの暗い雰囲気を吹き飛ばすようなテンションで第一声を捻り出す。 しかし受話器の向こう側からは切羽詰まった人の声や、騒がしい街の音が聞こえてくるでもない。ただウィザロの今の仕事場と同じくどこまでも、しん、としていた。 「あれ? もしもし?」 いたずらだろうか。受話器を手にしてから数十秒ほど経った頃、さすがのウィザロも痺れを切らして電話を切ろうとした。 だがそのとき、受話器の向こうのとても遠いところから、短く詰まるような吃音のあとですぐに低い声が響いてきた。 『……俺だよ』 相手は名乗らなかったが、ウィザロは瞬時にそれが誰であるのか理解した。 脳裏にはここ一週間で見慣れた所為か、アレックスの顔と本来の彼の顔がごちゃごちゃになった、幼いような大人びたようなそんな黒髪の少年の顔が現れた。声の主は間違いなく、ライアンだった。 彼がどんな想いで受話器を取ったのか、ウィザロは痛いほどに分かった。 確か最後にライアンと連絡を取ったのは三年前の、ウィザロが魔術師として独立するためにあれやこれやと煩雑な手続きに追われていたときである。その手続きを手伝ってもらえないか、一か八かの賭けでウィザロはライアンに連絡をつけたのだった。 一応機構の修了式で顔を合わせたり、そのあともなんだかんだで一年に一回くらいは顔を見ていた。しかし例の件があってからと言うもの、ウィザロは彼と一分も話を続けたことはなかった。 険悪とまではいかないが、そんな仲でよく自分はライアンに手伝いを請おうと思ったものだと、今ではすっかり感心してしまう。 そう言うわけであるから、ウィザロはライアンから電話があったと言うこの事実に、半ば夢を見ているかのような不思議な感覚を覚えた。 しかしライアンがなんの用もなしに自分に電話をしてくるとは考えられない。その証拠に、今の彼の声にはなにか切実たる感情が篭っていた。 ウィザロが答えないでいると、ライアンは数秒の間隔をおいてから続けた。 『エミリーが死んだ』 淡々と、まるで事務口調とも取れる彼の一言だったが、その言葉はウィザロにとってとても鮮明に感じられた。 脳裏に長いウェーブのかかった金髪と、こちらをあやすように微笑む彼女の仕草がよぎった。 とうとう彼女も逝ってしまったのか。 ウィザロは自分の身体が十年以上も前に逆戻りするのを感じた。 あの頃が最も幸せだったと、最近よく思う。境遇は悲惨だったが、外界の仕組みも世界の情勢もあまり知らず、毎日毎日機構の庇護の下で無邪気に笑うことができたのだ。 なにも不安に思うことなどなく、将来の生き方を深く考えることもなかった。ただ決められた日々の規律に従って生きていればよかった。 今の仕事や生活に嫌気が差しているわけではない。けれど魔術師になってから、機構で学んでいた頃に戻りたいと考えたことは決して少なくない。 きっと、機構の卒業生名簿に載っていた同級生の半分は、もう会おうとしても会えないだろう。 『……聞いているのか?』 「うん、聞いてるよー」 明るい口調で言ったあとで、しまった、今のはもっと声のトーンを落とすべきだったとウィザロははっとした。 だがライアンはそんなことなど気に留めていない風で、あくまでも冷静に続けた。 『後、追おうとか考えるなよ』 「なんで」 『どこかに、アホみたいに悲しむ奴がいるからだよ』 「いないよー」 ウィザロは思わずあははと笑い飛ばした。 しかし受話器の向こう側にいるライアンは、不気味なまでに押し黙った。 もともとライアンは口数が多いほうではない。根は真面目だし、理屈と合理的思考ですべてを処理していくような、いかにも主席に相応しいタイプの男だ。 だからこのときライアンが返答をしなかったのも、彼の性だと思えばそれまでであった。 それにウィザロは自分でも嫌と言うほど実感していた。こんな辺鄙な場所に居を構え、頑なに単独行動を貫く魔術師のことを心配をする気のいい人間など、まるで心当たりがない。だから先刻笑い飛ばしたのだ。 けれど――。 「……それって、誰?」 興味本位だった。ウィザロは恐る恐る、受話器に向かって呟いていた。 ライアンはもしかしたらこちらを気遣ったがために適当なことを言ったのだろうと思ったのだが、ふとその根拠を追及したらどう言う答えが返ってくるのかが気になった。 アベル先生か、それとも百歩譲って理事長先生と言ったところか。ウィザロは答えを聞くのが怖いような楽しみなような、複雑な気持ちを抱きながら、思いつく限り自分を「心配してくれる人」の顔を宙に思い浮かべた。 ライアンはまだ答えない。恐らく彼の部屋にも、こちらと同じくどこまでも均一な静けさが満ち満ちていることだろう。 それでもウィザロは待った。このときばかりは無音の世界が愛おしく感じられた。 『俺だよ』 どれくらいの時間が経過したのだろう。長い沈黙のあと、ぶっきらぼうに言い捨てられて電話はがちゃりと切れた。 ツー、ツー、と、変な電子音だけが受話器越しに聞こえてくる。ウィザロは呆然と口を半開きにしたまま、受話器を耳に当てたその姿勢を崩すことができなかった。 今まで自分は大変な勘違いをしていたのだと、ウィザロはここにきてようやく気がついた。 ずっと自分は強いと思っていた。 家族を、大切な人を失っても一人で立ち続けた自分を、自分で強いと思っていた。そうして生を紡ぎ続けた最中で出会った悪霊たちを、自分と同じく拠りどころがない者同士と捉えて、あたかも傷を舐め合うように接してきた。 それで十分だった。この自分だけの世界は、五歳のあのときからそうやって構築されて、そして完結する予定だった。 けれどそうではなかった。一人ではなかったのだ。 ウィザロの思考がその結論に至ったとき、瞳から不意にぼろりと大粒の温かい雫が零れ落ちてきた。 「……はは……」 十九にもなって泣くなんて馬鹿みたいだ。そんなことを考えた。 けれどどうしても止まらなかった。拭っても拭っても、勢いよくあふれ出るそれは収まってはくれない。 電話の最後で彼が言い放った「俺だよ」のその部分だけが、狂ったレコーダーのように頭の中で何度も何度も繰り返し再生される。あの声を思い出すたび、涙は止まるどころか勢いを増していく。 ひどい。これじゃあ、自分一人だけ泣き損ではないか。もしかしたら彼に騙されているかもしれないのに。 ウィザロはぐっと天を仰いで両手で眼を覆った。 違う。騙し続けていたのは、彼を、ライアンを欺き続けていたのは、他の誰でもないこのオレ自身だ。一番どうしようもないのは、このオレだ。 「……ごめんなさい……っ」 騙してごめんなさい。彼と真正面から向き合うことをせず、まともに応えることを避けていてごめんなさい。 魔術師として独立しようとしたときに彼が手伝ってくれたのも、それからことあるごとに嫌々ながら手を貸してくれたのも、すべての理由は根っこで繋がっていたはずなのに。それに自分が気づかなかったはずはなかったのに。 一人だけの世界は幸せだった。それでいいと思っていた。 だが他人が自分のことを想ってくれる世界はそれ以上にどうしようもなく切なくて手放し難くて、ウィザロの胸をしたたかに打ち据えた。 彼になんと弁解すればいいのか分からない。しかもそれを電話が切れた今頃になって言っていいものなのかも判別が利かない。それでもウィザロはひたすらに「ごめんなさい」を言い続けた。 その言葉は、自分でもなにを口走っているのか分からないほど徐々に涙に掻き消される。 ウィザロの涙は次第に嗚咽を伴うものへと変化した。終いにそれは、それまで静かだった仕事場全体に波及した。 これからも魔術師として生きていくことは変わらない。 けれどこの先の自分はきっと、自分の使命を精一杯まっとうしようとするだろう。 上手く言葉では言い表せないけれど、それは今までのように自分の身を投げうつものではない。悪霊も魔術師も、もちろん魔力を持たない人間もすべてすべて含めて、心の底から、本当にこの世界を愛せるように。 目尻に残った涙を拭いながら、ウィザロは窓を開けるために椅子から立ち上がった。 木製の窓枠の感触を確かめるようにゆっくりと手をかける。そのとき、新鮮な空気が窓の外いっぱいに充満していて、それが窓を開け放った直後この部屋に向かって一斉に流れ込んでくるだろうと言う気がした。 BACK/TOP/NEXT(あとがき) 2011/08/23 |