それは微々たる気配だった。

だが紛れもないその禍々しい感覚は決して間違えることのないもの。
行かなくては。淡いブラウン色の癖毛の髪を撫でつけて、大人の半分くらいの背しかない少年は足元に置いていた革製の大きな鞄を持ち上げた。
ぱちん、と軽く宙に向かって指を鳴らす。すると爪先から彼の身体が煙のように解け出した。

少年は臆することもなく消え行く身体のまま天を仰ぐと、そっと空に微笑みかけた。
この街とは今日でお別れだ。次は、そう、少なくともここではない別の場所へ。









森の妖精  -第一話









暖炉にくべてある薪が、時折ぱちりと大きな音を立てて崩れる。窓の外の夜闇に包まれた森が風に唸っている。
それらの音を聞きながら、珍しくどこか遠い場所から木霊してくるフクロウの低い鳴き声に、思わずセリアは顔を上げた。
そろそろ寝る時間だろうか。家にある唯一の掛け時計が壊れてから数日経っていた。不便だったら街に行って修理に出そうと思っていたのだが、思ったより煩わしくなかったのでそのままにしてある。

いつもと同じ夜の時間だ。セリアはまた手元に視線を戻した。
静かに流れ行くこの時間がセリアはなによりも好きだった。夜には朝とはまた違った優しさが含まれているような感じがする。
セリアは暖炉の前の肘かけ椅子に深く腰かけながら、今日は睡魔が襲ってくるまでゆっくりと夕焼け色のセーターを編み続けようと決めていた。

しかし今夜だけは違った。
普通なら叩かれることのない表の扉がなんの前触れもなく乾いた音を発したのは、夜も大分更けた頃のことだった。

「すみません。一夜の宿を恵んで頂けないでしょうか?」

戸口には困ったように笑う少年が立っていた。
こんな夜遅くに、しかも子供が一人でこの場所まで来るなんて、今日はいったいどうしたことだろう。セリアは驚きで何回も目を瞬いた。

「宿? ぼく、どうしたのこんな森の奥まで」

セリアは小首を傾げながらもしゃがんで彼と目線を合わせた。
よく見てみれば、少年の頬には土や野草がこびりついている。更に視線を下にずらせば、彼の着ているコートにもなにかに引っかけて無理矢理引き千切ったような跡があった。

もしかして野犬にでも襲われたのだろうか。ここは森の奥の人里離れた場所だ。この森にある人家はこの家一軒だけ、他は野生の動物たちが住人となっている。
セリアがじろじろと少年の恰好を注視していると、少年は気まずそうに笑って一歩後退りした。

「ブノワという国に行く予定だったんですが、どこをどう間違えたか迷子になっちゃって。しかもさっきどこかの木の根っこに足引っかけて捻挫したみたいでこれ以上歩けないんです。それで、ここに明かりがあったから……」

あはは、と無邪気に笑う少年に、ほっと心の緊張がほぐれた。
そうだ彼はまだ少年なのだ。大の大人を泊まらせるのには若干の抵抗があるが、彼のように、まだ幼い少年なら平気だろう。

未だにくしゃくしゃの淡いブラウン色の髪を掻いて笑う少年に、セリアはぷっと吹き出して笑った。
彼の背後にある夜に包まれた森は暗い。これからこの中に傷を負った彼を追い返すのも気が引けるし。

「いらっしゃいな。狭い木こり小屋みたいなものだけど、手当てぐらいはできるわ」
「わ! 本当ですか!? ありがとうございます!」

ぱちり、とまた暖炉の中の炭になりかけている薪が一つ、音を立てて半分に割れた。
編みかけのセーターが肘かけ椅子の中から穏やかなそれら暖炉の橙色の光を受けている。

森の住人たちは、まどろんだ瞳でふと気づいたように顔を上げた。
どうやらこんな夜中にあの小屋に誰か客人があるようだ。冷たい冬の風が彼らの寝床を遠慮なく叩いて回る。
珍しいことだ。珍しい時間に、珍しい種類の客だ。

森の奥の小さな小屋から漏れる明かりが、いつの間にかひとつ増えていた。













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2008/01/12