|
一度だけ、俗に言う彼氏ができたことがあるあれは高校生のときだった。 向こうから好きだと言われてオーケーしたのだけれども、最初に「彼氏」と言うどこか新たな関係に過度な期待をしたのがいけなかったのか、それとも相手がそれほど好きではなかったのにつき合ったりしたためか、いや、きっとそのどちらもが要因なのだろう。 結局そんなおままごと染みた関係は、ものの数ヶ月として持たなかった。 別れを切り出したとき、相手は渋ったが理子には限界だった。 こんなつまらない柵に捉われるくらいならもっと自由に生きたいの。自分でも少し言いすぎたと思う。けれどその言葉に至るまでの彼の異様な粘りに理子が困り果てていたのは正直なところだったし、そう言った瞬間のどこかこちらを軽蔑するような彼の眼を見て、当時はむしろお互いさまだと思った。 同時に、そこで理子は悟ったのだ。ああ、これまで呑気に夢を見ていた自分が、一番馬鹿だったのだと。 それからだろうか。 相手に固執さえしなければ、相手に期待さえしなければと思って、一歩引いたところから物事を淡白に見るようになったのは、思い返せばあの頃が分岐点だったのかもしれない。 私を泣かせてください -後編 「……お願いだよ」 直樹の懇願する細い声にぐらと心が動きかけたが、理子は頑なに首を横に振った。 「お願いだから、キスして。理子」 今や理子の両腕は直樹の手にがっちりと捉えられていた。 それでも理子は馬鹿の一つ覚えみたいに、まるで子供が駄々をこねているとも取れる仕草で首を横に振り続けた。 直樹はこちらが拒否すればそれ以上踏み込んでくることは絶対にない。 それはこれまで彼とすごした数ヶ月が物語っていた。 だから理子は拒むのをやめようとはしなかった。なぜならそれをやめた瞬間、間違いなく彼がひどい目に遭うと分かっていたからだ。 「理子、キスして」 誰の姿も見受けられない建物の間にある狭い路地裏は、まだ日が高いせいだろうか、不思議と日の光が入っていて暗くはない。 だが人気がないのは路地裏だけではなく、表の、休日を迎えていつもは盛況しているはずのショッピングモールからも、同じように人の姿は忽然と消え失せていた。 理由は簡単だった。本当は自分たちもシェルターへ避難しなくてはいけないはずだったからだ。 「理子……っ」 いったい自分たちは何度この押し問答を繰り返したのだろう。 直樹はきっと、歯痒いと思っているに違いない。 けれど先程の話を聞かされた理子にとって、もはやこのときの彼の感情などまったくどうでもいいことであった。 ――俺の身体には新型兵器が埋め込まれていてね、と言うより、新型兵器そのものって言った方が正しいのかな? 解除コードを入力しさえすれば、それで俺は一個師団にも劣らない兵器になるんだ。 それってどういうこと? 避難警告が発せられて辺りを逃げ惑う人々の波をかいくぐり、無言の直樹に路地裏まで連れられた挙句、突然切り出された彼の言葉の意味が分からなくて呆気にとられたまま問う理子に、直樹はいつものあどけない少し笑みを湛えた表情で応えた。 べっ、と、悪戯っぽく直樹が舌を出す。舌の上には魔術染みた、幾何学的な模様が浮かんでいた。 理子の背中はこの瞬間、なぜか嫌な空気を纏ってぶるりと震えた。 「これは上から命令が下ったから浮き出てきたんだと思うんだけど、普通はなにもないはずだよ。でも、そのなにもない状態でも、解除コードさえあれば自然と解除されちゃうんだけど」 理子は唐突に逃げ出したくなった。このまま、これ以上直樹の口から彼の紡ぐ言葉を聞くのが怖くなった。 「解除コードはね、君が持ってるんだよ」 しかし悪寒を感じた直後に発せられた、追い打ちをかけるかのような直樹の一言に、理子は本気で「世界が止まった」と思った。 今までどんなに「攻撃を受けた」との報道を目にしても揺らぐことのなかった理子の世界が、直樹のその一言だけで崩れかけた。 彼はいったいなにを言っているのだ。 新型兵器? 解除コード? 単語の一つ一つは頭に入ってきているはずなのに、それらは一個一個のたんなる独立した点でしかない。 繋がらないのだ。それがどういう意味を持っていて、今の自分たちにどう関係しているのかが、まったく理解できない。 「俺は生まれも育ちもずっと北海道なんだ。大学もそこ、就職だって東京に出る気なんてさらさらなかった」 私は――。理子は口に出そうとして、つっかえた。 自分は生まれも育ちも東京だ。幼稚園から今に至るまで、ずっと東京に留まるつもりだった。就職だって、都内を考えていたくらいだ。 はっとして黙り込んだ理子の胸中に気づいたのか、直樹は首をゆっくり縦に振った。その顔は少し諦めの色を帯びていた。 「そう、俺たちは必要になるまで出会わないように意図されて育てられたんだよ。遠い場所で、それぞれ国の監視下に置かれて」 ビルを何棟も越えた遠い場所から、空気を強引に切り裂いて迫ってくる"あの"嫌な音が響いてくる。 「俺たちだけじゃない。他にも似たような組み合わせはいる。その証拠に最近、やたらうちの反撃が続くようになったって、思わなかった? 形勢が逆転し始めたってテレビで報道されてるのは、あれは、国がずっとずっと他国に悟られないよう水面下で推し進めてきた新型兵器開発というトップシークレットの封印をやっと破ったからなんだ」 直樹の言葉に呼応するように、理子の脳裏には今まで何回も見たニュースの映像がなだれ込んできた。 少し色褪せた、ノイズの入った映像。けれどどれもが、今までは窮地に追いやられていた我が国の形勢がここにきて逆転しつつあると言う、生死を賭けた自分たち国民にとっては喜ばしい報告ばかりだった。 「俺は、本当は生まれてこないはずだったんだ。でもこの細胞の一つ一つ……これを全部兵器と取り換えることを約束に、俺は数十年を生きることを許された」 理子の手は次第にかたかたと震え出した。 直樹にしっかりと掴まれているはずなのに、その直樹の腕にまで振動が伝わるくらい勝手に揺らいでしまって仕様がない。 だがその間も直樹は冷静な、最初と少しも変わらぬ口調で喋り続ける。 「ちょっと恥ずかしいんだけど、俺はつい最近まで自分がそう言う運命を背負ってることなんて知らなくて。でもこの前急に召集されて、なんでも願いを叶えてあげるよってね、言われたんだ。けどさ、死ぬ間際に叶えられる願いなんてそうそうないものだし、『数ヵ月後には死んでもらいます』って、ねえ……。大切なものもこれからやりたいことも、この世にいくつもあって選べなかったし」 ドオオオン…と、ここからはまだ遠くであったが、どこかで一発目の砲撃音が響いた。 直樹はこのときだけぱっと顔を上げて、それがどこから聞こえてくるのかを探ろうとした。 「だから俺は数ヶ月をもらったんだ。本当はすぐにでも、って言われたけど、なんとか頼みこんで数ヶ月をもらった。それはただの『手続き』だけど、でもどうせキスするなら事務的なものじゃなくて恋愛感情があったほうがいいって。そのほうが、幸せな気持ちのまま逝けるって。俺が」 「……行かないで」 理子はやっとのことで喉の奥から声を捻り出した。 か細くて、まるで何千年も現世を漂い続けた幽霊のようなひ弱なものだったが、それがこのときの理子の限界だった。 しかし直樹は口元を緩めて首を横に振った。 「所詮俺たちは道具だよ。昔は自由に生きられた、ってよく言われるけど、今は違う。自由なんてない。領土を守るためにどこの国も血眼だ」 「だからって、あなたが行かなくてもいいはずでしょう」 「はは、それは無理だね。数ヶ月の猶予をもらうために指令が出たら行けってお達しを引き受けたんだ。契約は果たさないと」 「お願い」 直樹の指が理子の髪に触れてから、そっと頬の輪郭をなぞった。 「……今になって、案外こう言う出会いも悪くはなかったかなあって、思うようになったよ」 理子は一旦顔を上げてから、すぐに伏せた。 今しがた垣間見た直樹の微笑みに胸の奥がぎゅっと委縮してつらかった。同時に、理子の視界は、身体の奥から滲み出てきた熱い感情に負けてぼやけてきた。 「それが、解除コードが私で、本当によかったの。想像していたのより私がデブでブスだったらとか、考えなかったの」 涙混じりの濁声は、自分でも惨めなくらい今にもひっくり返りそうだった。 「当たり前だろ、理子でよかったよ。最初に理子の家に行って玄関で姿を見たとき、『うわあ、やべえ』って、周囲に花園が見えたんだ。それからちょっと雲行きが怪しくなって一時は上手くやっていけるか不安になったけど、でもこうして理子は可愛いし。うん。……一目惚れ、だったのかも」 ふざけたように笑う直樹の指が理子の指に絡まる。 「可愛くなんて……ない。きっと、もっともっと可愛い子なんて」 「俺は理子が好きだよ」 理子はぐっと強く目蓋を閉じた。 だから嫌だったのだ。もう誰かに固執することはやめようとしていたのに、その決心を、直樹と言う人間は容易くこじ開けてしまった。 それは恐らく彼の容姿、仕草、人懐っこい性格を含めた「直樹」と言う存在そのものの所為に違いなかった。 しかし最初に出会ったときに理子が感じた嫌な感覚、あれは、きっと自分たちが解除する側解除される側として、生を受ける前から結合することが必然的であったがゆえの、無意識の拒絶だったのだろう。 けれどその絶対の壁を乗り越えて、直樹は理子の世界に踏み込んできた。 それも決して不快なものではなく、あくまでも理子の世界に同調するかのような優しさで。 声を上げずにただ音もなく涙を零す理子の手を、直樹はそっと握った。 この温もりを離したくない。この温もりがここで消えるはずなどない。そう思いたいのに、頭が、身体が言うことを聞いてくれない。 「もうちょっと一緒にいたかったなあ……」 ごめんね、初デートがこれで。静かに謝る直樹に、理子は強く首を横に振った。 「行かないで」 「ダメ」 「あと少し、あと少しここにいて」 「ダメ」 私に、再度人を信じる希望を与えたのはあなたなのよ。それを、ここにきて裏切るの。 そう言って彼を責めたかったが、口がぱくぱくと開くだけで声が出てこなかった。 直樹はふっと哀しそうな顔をした。 それは束の間のものかと思われたが、彼はそれからその憂いを帯びた表情を表から拭うことはなかった。 きっとそれが、このときの本当の彼の心情だったのだろう。 「ね、キスして。理子」 「……嫌」 きっとそれが解除コードだ。直樹はあえて口に出しては言わなかったが、それが解除コードを入力する手段だと言う事実はもはや明白だった。 「理子、キスして」 何回も似たようなやり取りを繰り返してそのたびに理子は何回も拒否をした。 本音を言うと、面倒くさかった。だがここで拒否するのをやめれば、彼は、直樹はここから永遠にいなくなってしまう。それだけは避けたかった。 「君に……言わなきゃよかった……っ」 けれど、いつまでたっても前進することのない膠着状態に痺れを切らしたのだろう。そのやり取りを数十回ほど経たところで、直樹が理子の肩を掴んだそのまま懇願するように首元に顔を埋めた。 そうしたら幸せな気分で死にに行けた? でも私は後味が悪いわ。 だいたい解除される側だけがリスクを背負って、それなのに解除する側はただコードを嵌めるだけなの? それって、同じ役目を与えられたのにすごく不平等じゃないの。 理子は彼のしたいがままにさせた。 彼ではない自分がなにかアクションを起こしたら、それを発端に彼が突拍子もないようなことをする気がしてそれが理子にとっては一番恐ろしく感じられた。 つまるところ、直樹がコードを解除をするきっかけを与えたくなかったのだ。 しかし数秒後、直樹の顔はゆっくりと首元から起き上がると理子の瞳を真っ直ぐに見据えた。ややあってから、それは理子の顔に近づいた。 互いになにも言わなかった。ただすうっと、彼の指が頬をなぞっていくのを感じる。 それは先程のものとは違って、こちらに恐怖と威圧感を覚えさせるようなものだった。 もちろん理子は拒否しようと思った。けれど身体が自分の思うままに動いてくれなかった。 傍から見ればこのときの二人の姿は、愛し合っている恋人同士に見えただろうか。そうであってほしい。そうであったならば、自分はそれだけで満たされる。 だがこれは今もどこかで自分たちを監視しているであろう者たちへの、直樹の最後の合図だ。 自然と閉じてしまった目蓋の向こうで、理子は、直樹の体温はまだ確かに蠢いている、と思った。 しかし深くもなく浅くもない口づけをしていた彼の唇が思い切ったように離れていったのは、もしかしたらそろそろ潮時なのだと諦めたがゆえだったのかもしれない。 唇の上にあったはずの彼の温もりが離れて、理子が目を開けようとした途端、周囲にどこからか現れた突風が吹き荒れた。 そうして理子がようやく目蓋を持ち上げた先には誰の姿もなかった。先程まで直樹に掴まれていた二本の腕も、ぶらりと力なく身体の横に垂れ下がっている。 まるで最初から誰もそこにいなかったように、翳り出した路地裏には理子一人だけがぽつりと立っていた。 高い高いビル群の向こうで、キーン、と、耳をつんざくような音が幾重にも木霊する。 直後、数回の爆発音が空気をビリビリと震わせる衝撃に、建物だけでなく理子の足元に結び始めた子ぶりの蕾までもが揺れた。 冬が、終わる。 BACK/CLOSE 2011/10/21 |