私を泣かせてください  -前編









彼と出会ったきっかけは――なんてことはない、他ならぬ自分の親の紹介だった。
印象が薄かったと言うことはない。彼の身長は高すぎずもなく低すぎもしないくらいだったが、全体的にすらっとしており、それと今時の若者には珍しい黒髪で(それでも少し毛先を遊ばせるようなスタイリングだったのだけれども)、こちらを見る柔和な目元は安心感をもたらしてくれた。

なにせ私たちはその日その邂逅がまったくの初対面で、もっと言えば彼が訪れてくるその瞬間まで来訪者があることなど知らなかった。
ゆえに、その安心感からくる取っつき易さはなによりも重要だった。

お父さんの知り合いの遠藤さんの息子さんでね、ほら、あなた国際系の学部でしょう?
それがなんだと言うのだ。文字通り仲介者のごとく自分と彼の間に入って次々に彼のことを紹介する母の姿を疎ましく思いながら、しかし顔には決して出さず、ちらと彼のほうに目をやると彼は少し困ったように笑った。

「俺も国際政治学科なんです。ちょっと政治が入ってるからややこしいけど、えっと……」
「理子です」
「あ、そう。えっと、理子、さん」

彼の、こちらを見てなにかを探すような口ぶりに、それが自分の名を知りたがっているのだと気づいた理子はすぐに淡々と答えた。
大学生、と言うことは、同世代か。
彼がぎこちなく自分の名前を呼ぶのを聞きながら、理子は頭の片隅でこの状況になる原因を思いつく限り並べた。

しかしどうしてこの冬の寒い日に、我が玖珂家の玄関口で彼のような人間が立っているのか、いくら頭を捻ったところで理子には皆目見当がつかなかった。
そしてなぜ、父の知り合いの息子だと言う彼を自分に紹介してくるのか、その先に待ち受けているであろう要件もまったく飲み込めない。

「いつまでも玄関先で立ち話もなんでしょう。さ、直樹くん上がって上がって」
「あ、いえ、俺は今日はここで。また今度にします」
「そうなの? せめてお茶だけでもどう?」
「これからちょっと用事があって……すみません」

申しわけなさそうに頭を掻く直樹と言うらしい黒髪の青年に、母は何度も、「そうなの? 残念ねえ」と言っては彼を困らせた。

「じゃあ理子、あなた送っていってあげなさい」
「はあ!?」

だが母がようやく折れたと思った刹那、こちらを振り向きざま放たれた母の言葉に理子は勢いよく身を乗り出した。
理子は素っ頓狂な声を出した自分を厭うことも忘れて、近くにいた母の服の裾を、直樹には見えないように強く引っ張る。

「な、なんで私が……」
「直樹君、この土地に来るの初めてなのよ。駅までの道程が分からないでしょう」
「だからって……」
「途中で迷子になったら可哀相でしょう? これから用事もあるって言うのに」

小声の叱責に、理子はギリリと歯を食いしばった。
上手く言いくるめられていると言う自覚はある。しかしこの場合の最良の言い逃れ方法が見つからないのだ。
すると理子たちの葛藤を察したのか、今まで蚊帳の外状態だった直樹が恐る恐る口を挟んできた。

「あのー、ここから駅までは来るときにだいたい覚えましたし、一人でも大丈夫です」
「ほらっ、理子!」

母も気づいたのだろう。そんな顔をして言うんじゃない。と、理子も母のその一言と同時に思わず零しそうになった。
直樹の顔は一応笑んではいるが、どことなく不安の感情が拭いきれずにいるのだ。
理子は数秒黙り込んでいたが、すぐに弾かれたように玄関先に揃えられていた自分のパンプスに両足を突っ込むと観念したような声を出した。

「……行ってきます」

ここまで事が進んでしまったのなら仕様がない。自分は流されるまま漂ってしまおう。
それはもはや諦観に近い情だった。
母を追い越す間際、駅まででいいのよね? と確かめた理子に、母はほっとしたように頷いた。

行きましょう。カーディガンを胸の前で掻き合わせながら理子が直樹に向かって言うと、肝心の本人は目を丸くさせたままこちらを見ている。
しばらくしてようやくこの状況に気づいたのか、彼は理子を通すため慌ててその身を玄関脇に避けた。

頭上をすっぽりと覆う空はここ数日どんよりと曇っていて、今にも雨、いや、雪が降り出してきそうなほどギリギリのバランスだった。
だから理子は用事を早く済ませてしまいたかったし、なによりも彼と、直樹と長時間二人でいることに言葉には言い表せない違和感のような抵抗があった。
人柄や容姿は嫌いではない。むしろ好感が持てるほうだ。けれど、身体の奥でなにかが警鐘を鳴らしている。それがとてつもなく自分の中の不安を煽る。

初めはさっさと歩き出す理子に半歩遅れて直樹がついてきたのだが、その遅れもすぐに縮まり、二人は自然と肩を並べて歩く形になった。
理子がふと視線を背後にやると、玄関の扉の向こうに母の姿が消えるのが見えた。

「……どうして、うちに?」

辺りに顔見知りがいないことを確認してから、理子はそれとなく直樹の顔を見上げて問うた。
隣に立って分かったのだが、直樹は自分よりも頭一つ分だけ背が高かった。
先刻の母とのやり取りを考慮していたのだろう、直樹はまさか質問されるとは思ってなかったらしく、少し驚いた表情で理子の視線を受け止めた。

「ええと、理子さんのお父さんの紹介で……」
「そうじゃなくて、うちに、なんの用事だったんですか」

理子が鋭く切り込むと、途端に直樹はまずいと言うような顔をして口を噤んだ。
その返事に窮したように黙り込む彼の身長が、不思議と自分よりも小さく委縮して見えた気がした。
理子は不意にそんな彼の姿がいたたまれなくなった。

「聞かないほうが?」
「そうだね、今は」
「じゃあ聞かない」

余程言いたくないらしい。ならば無理に追及するまいと、理子は顔を正面に戻した。
もしかして父と親交のある彼の父親になにかがあって彼はここまで来たのだろうか。と、急に脳が勝手に導き出した一つの仮定に、理子ははっとした。万が一彼の父親が命が危うい状況、一足飛びに死んでしまって身寄りがなかったとしたら――それはとてつもなく不憫だ。
理子は脳裏に描いた彼の寂しげなうしろ姿にぎくりとした。

これからの用事と言うのも、なにか外せない重大なものなのかもしれない。主に病院関係だとか、葬儀関連の。
それは言えなくて当然だろう。と言うより、自分だったらまず口にさえできない。彼の境遇を自分に置き換えてみて一人神妙な面持ちになった理子だったが、その傍で直樹はぱちくりとまたもその瞳を瞬かせていた。
理子はこの瞬間、どこか彼との間に感情の温度差を感じた。

「なにか?」
「え、意外とあっさりしてるんだなあと思って……」
「だって聞かれたくないんですよね?」
「それはそうだけど」

あんたってほんと性格がサバサバしてるよね。とは、とある大学の友人の一言だ。
それまでサバサバしていると言う自覚はなかったが、粘着質よりかはさっぱりしているほうが好きだと言う自分の好みただそれだけで、それ以降理子はことあるごとにそう言う女性として振る舞った。

だがその自分の振る舞いを抜きにしても、彼のこの納得のいかなさそうな、むしろこちらを気遣うような顔はなんなのだろう。
しかし理子は理子で、先程「じゃあ聞かない」と自ら立てた問いを切り捨ててしまっているのだ。再度彼に理由を質すのも矜持に反するので、理子はぐっと言い出したい気持ちを抑えた。

「でも、ありがとう。助かった」

なにが、と、言ってしまいたいところを喉に出かかった直前で堪える。

「暖かくなったら、ちょっと遠くへ行きませんか? よければ、だけど」

それから二人は無言で歩き続けていたのだが、しばらくしてから直樹が足元を見つめながらそれとなくそれまでとはまったく異なった話題を切り出した。
暖かくなったら、か。理子は遠くの風景を視界の中に留めながら数秒迷った。
このまま冬をやりすごせば春は自ずと訪れるはずだった。今は彼氏もいないから、別に直樹とどこかへ出かけたところで周囲への支障もないだろう。けれどそのときの理子には、そんな日など永遠に来ないように思えた。

さっきの、直樹の寂しそうなうしろ姿を思い描いたときと同じ感情がどっと身体の奥から湧き上がってきた。
理子はそのイメージに、嫌な汗が背中から吹き出すのを感じて怖くなった。

「こちらこそ……私でよければ」
「え、本当?」

ここで否と答えたら彼の父だけでなく彼までもがどこか遠くへ行ってしまいそうな気がして、いつの間にか理子は応じていた。
しかしなにをそんなに喜ぶことがあるのか、彼の期待に満ちた丸い瞳はこちらをぱっと振り向くなり嬉しそうに細められた。

「ありがとう。すげえ嬉しい」

本当に嬉しそうに笑む彼の横顔を、理子はただ驚いて見つめた。
と同時に、これがいつもの彼なんだなと、しみじみ思った。
今までの彼の態度は、どこか余所行きのものであると感じていたからだ。同世代の男子の言動にしては、少し形式ばっていたと言うか。

それから彼と話したことはどれもが他愛のないものばかりだった。
どこのどこの風景が綺麗だとか、あそこには最近珍しい花が咲くようになったのだとか、どれもが春を予感させる話題だった。
それらは理子にとって決して不快ではなかった。直樹が提供してくれる話題は豊富で、こちらは適当に相槌さえ打っていればよかったから話していて楽だった。

短いような長いような駅までの道程で、理子の直樹に対する見方は大分好転したと言ってもいいだろう。
しかし身体の奥からわんわんと響いてくる警鐘は、彼が駅の改札の先に消えたあとも鳴りやむことはなかった。













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2011/10/08