捩くれた家  -前編









この世界でたった一つだけ、どうしても受け入れられないものがある。
あの仰々しい敷居を跨いだ瞬間、勢い背筋がぞっとするようなおぞましい感覚には、恐らく何年かかっても慣れることはないだろう。

「沙織、ぐずぐずしていないで。早く行くわよ」

どうしても私も行かなきゃダメなの。と、何度も訊く沙織に痺れを切らしたのか、母が若干苛立った調子で言う。
さっさと先を行く母の背中を見てようやく決心がついた沙織は、しぶしぶとそのあとに続いて、目の前にそびえる大きな和風の正門をくぐった。
同時に、門の横に掲げられている表札に、「和泉」と彫られているその字を目で追った。

この「家」は昔も今も健在か。
沙織は心の中で誰にも知られないよう溜息をつきながら、今は既に自分の足の下敷きとなっている広大な敷地をざっと眺めた。
まだ沙織はこの「家」に染まり切っていないせいか、ご大層に植えてある植え込みにもさらさらと音を立てる池の造りにも、おお、これはいざと言うときに売ったら高値がつくなと感心してしまう。
そして自分がこの「家」の一員であることを、普段は忘れているのにこのときばかりは強制的に思い出させられてしまうのだ。

だが自分はもう駄々をこねるような子供ではない。
物心ついたころから、少なくとも小学生の高学年くらいからは、「家」の人間がなにを求めていて自分はなにを返せばいいのかが分かるようになっていた。
それによって形成された思春期の沙織の性格は極めて淡白で、沙織のこの因縁めいた家系を知らない友人からはことあるごとに、「冷たい」だの「近寄りがたい」だの言われるようになった。

仕方ないじゃない。
小さいころから大きな大人の中に混じって、彼らと同等のものを要求されれば嫌でもこんな思考方法になるわよ。
だがそう言っても彼女たちの理解を得られないと知っていたので、沙織はいつも指摘されるたびに、ごめんごめんと苦笑して見せた。
その笑顔の意味を、沙織と親しい友人はちゃんと知っていたことが沙織の救いだった。恵まれた、と思う。

「お義姉さん」

前を歩いていた母が、ふと声を上げた。
沙織がその声に倣って顔を上げると、正門からいくらか歩いた先にあったお屋敷の玄関口から、一人の女性が姿を見せたところだった。
彼女は現在のこの「家」において、事実上の当主的存在だった。

「いらっしゃい。待ってたのよ」
「ごめんなさい、お義姉さん。予定より少し遅れてしまって」
「いいのよいいのよ。なにしろ大分会ってなかったものねえ」

沙織はこのとき、一瞬だけぎくりとした。
大分会ってない、と言うのは、ほとんど父に依るところが大きい。
特に近年にその傾向が顕著で、父はなにかと理由をつけては「家」に帰るのを拒んでいたからだ。だからこうして中学二年生以来三年ぶりとも言えるこの「家」の規律にしてはギリギリのブランクを経て、せっかくのお盆に自分と母だけしか帰省していないのは、そう言うことになる。
理由は……まあ、語れば長くなるのだが。

「あら、もしかして沙織ちゃん? 随分と美人さんになったわねえ」
「今日は、おばさま」

母のうしろに立っていた沙織に気づいた、母にお義姉さんと呼ばれた女――つまり父の姉である――は、ぱあっと顔を明るくさせると嬉しそうに目を輝かせた。

「おばさまこそ、この前会ったときから全然お変わりないじゃないですか。それに、ちょっと痩せられました?」
「ふふ、本当?」

容易いな。
そう心の片隅で皮肉を言う自分を疎ましく思いながら、沙織はにこにこと自然な笑顔を保ち続けた。
知っている。おばさんは、私のこの類の笑顔が好きなのだ。

「暑かったでしょう。さあさ、奥へお入りなさいな。まだみんな集まってなくてねえ」
「あら、そうなんですか?」
「そうなのよ。綾子さんたちみたいにもうちょっと日を早めてくれてもいいのに、それでもあと数日でここへ来るらしいの」
「それはそれは……みなさんお忙しいんですねえ」
「いやあね。面倒なだけなのよ」

ふふふと笑い合う大人たちの会話を聞き流し、沙織は脱いだ自分の靴と母の靴を玄関の脇に寄せると、彼らの背をそれとなく追って歩いた。
見慣れた和泉家の客間へは、見慣れた道順をすぎて辿り着いた。

「自分の家だと思って、ゆっくり寛いでいってね」
「ありがとうございます。そう言えば直人さんは? 元気にしてらっしゃいますか?」

母の問いに、それまでにこやかだったおばさんは少しだけ眉をひそめた。

「ああ、直人ならまたどこかに行っているみたいなの。ごめんなさいね。今日沙織ちゃんたちがくるって言っておいたのに、あの子ったらすぐにふらっと出かけたりして」

直人とは、沙織のイトコのことだ。
沙織と同じ年に生まれたので当然同じ年齢、今年で高校二年生である。
考えてみれば、彼と最後に会ったのは三年前なのだから、もしかしたらけっこう変わっているのかもしれない。なにしろ成長期の男の子の変化はすさまじいものがある。

「ごめんね沙織ちゃん。多分その辺りにいると思うんだけど、直人、連れてきてくれないかしら」
「いいですよ」
「昔から沙織ちゃんは直人のいるところがすぐ分かったものねえ。頼りにしてるわ」
「任せてください。すぐに見つけてきます」

沙織がそう即答したのには過去からくる根拠があったし、自信もあった。
彼の行きそうなところなど、飼い犬がどこのコースを散歩するかと同じくらい予想できるものだ。
沙織は持ってきた荷物を部屋の隅に置いてから、その場をあとにした。







「……ねえ、綾子さん?」

蝉がじわじわと合唱する音を背景に、沙織が消えた大きい部屋で二人の女性は静かに面と向かい合う。

「沙織ちゃん、本当に大きくなったわよね。あんなに器量がよくて聞き分けがいい子、今時いないわ」
「そんな、お義姉さん。勿体ないお言葉です」

これは沙織が知らない話。沙織だけが知らない話。

「お世辞じゃないわ。本当よ」

夏の一日は長い。
それをチャンスとばかりに、蝉は競って己の鳴き声を辺りに響かせる。

「それで、『例の話』のことなんだけれど、どうかしら? 考えてもらえたかしら?」







夏の暑い日差しに照らされて、分厚い常緑広葉樹の葉がさわさわと心地いい音を立てる。
沙織は汗をぬぐいながら、「家」から数分歩いたところにある古びた神社の境内まで続く長い階段を上っていた。

十中八九、直人がいるのはここで間違いない。
小さいとき、親たちが話しているその会話があまりに退屈だったので、幾度となく「家」の子ども同士でかくれんぼをやったのだが、直人は必ずと言っていいほどこの境内のどこかに隠れたがった。

(……あのときの直人君は、可愛かったよなあ)

今だから言えることではある。
当時の直人は、くりくりの丸い黒の瞳にさらさらの髪をしていた。
当主の跡取りとして厳しく育てられたためか、あまり感情を表に出すことは少なかったが、話してみれば悪い性格ではない。ただ話が続かないだけだ。
それは彼が中学へ進学しても同じことだった。

変わったのは、それまでは無表情で押し黙るだけの彼に、「学習能力」が備わったと言うことだろうか。
彼も沙織と同じように、いつの間にか大人の好む笑顔を身につけていた。

よくやるわね。
多分、本人を前にうっかりそう漏らしてしまったのは、沙織が彼と最後に会った中学二年生のときだ。
周囲に大人がいないのが幸いだった。だからこそ漏れたのだとも考えられるが。
だが沙織のその嫌味をひらりとかわして、彼は、「君と同じだよ」と、その笑顔で言ってみせた。そのとき沙織は思ったのだ。ああ、彼は本気でこの「家」に染まろうとしているのだと。

(反抗期なんて、きっとないんだろうな)

可哀相なひと。同情すべきはこのひと。
本家に生まれたばっかりに、すべての役目を背負う覚悟は生まれつき教え込まれていた。
それを寸でのところで回避した自分には、もうこれ以上の奇跡なんて起こりっこないと思える。それくらいこの「家」の存在は大きくて、そしてずっしりと重い。

あれから三年、直人はより「家」に近づいただろう。
比べて自分はなにも変わってなどいない。怖いくらいに、三年前とどこも変わっていない。
そんな私に、今の彼と対等に話などできるのだろうか。沙織はこのとき急に湧いて出た疑問に、なぜかぞっとさせられた。それは今日、この「家」の敷居を跨ごうとしたときに感じたものとよく似ていた。

沙織はゆっくりと境内へと続く長い階段の、最後の一段を上り切った。
途端に、真正面からぶわっと吹きつけてきた涼しい風に、すうと額の汗が引いて行くのが分かった。

そこで沙織は見つけた。境内の真ん中を貫いている石畳の真ん中で、こちらに背を向けて、つまり神社に面と向かって立っている一人の人間が視界に入った。
古びたあまり屋根の端が崩れかかってしまったこの神社に馴染むような、その人が身につけている濃い紺地の羽織はぱたぱたと風に揺らめいていた。
直人だ。沙織は後ろ姿だけで、すぐに分かった。

沙織はすぐに、彼になんと声をかければいいか迷った。
だが自分が声をかける前に彼に見つかったほうがよっぽど気まずいと思ったので、沙織はとにかく口を開いた。

「直人君」

沙織の声に、境内でひしめき合っていた風の音が一瞬だけ止んだ。
すると神社の前に立っていたその人の肩がゆっくりと動いて、数秒と経たないうちに彼はこちらを向いた。

「おばさま、探してたよ」
「久し振り……沙織」

直人の容貌は、目元を残してすべて三年前と異なっていた。
昔は黒かった彼の髪は薄らと茶色がかり、自分と同じくらいか、それかもしかすると低かったかもしれない彼の背は、今は完全に自分のそれを追い越してしまっている。

いや、昔の彼の面影がうかがえるだけ幸いだとでも言うべきだろうか。
それでもその面影は、次の瞬間沙織の記憶に新しく塗り直された。
沙織を目にして真っ先に彼が口元に浮かべた笑みは、三年前に見た、あの笑顔のままだったからだ。













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2010/07/30