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蝶とワルツを -後編 忘れていたわけではない。 ただ、ぼうっとテレビを見ていて、ぼうっと明日の授業の予習などをしていたら、いつの間にか約束の時間をすぎていただけだ。 澪は慌てて身支度を整えてから階段を過去最高の勢いで駆け下りた。 これが体育祭のときに発揮できたらどんなによかっただろう。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。 靴を履くのにさえ無駄な時間がかかっているようで、なかなかもどかしかった。 「ちょっと自販機まで行って来る!」 どれくらいの間彼の屋敷に招待されるかは分からないが、多分数十分で帰ってくることはできるだろう。 そうして捨て台詞めいたものを残して玄関を飛び出した澪は、そこで目を見開いた。 家の前には既に揚羽が、三日前と同じ恰好で待っていた。 「ごめんなさい。約束の時間すぎちゃって!」 「いや、構わない」 しかし揚羽の眉間には深い皺が刻まれていた。 嘘をつかれた。それまで焦っていたような高揚していたような気分は少し落ち込んだ。 「あれから色々と思考を巡らせてみたのだが、人を我が屋敷に招いたことなど前例がないもので戸惑った」 だがどうやら今の考えは杞憂だったらしい。 彼は一人でぶつぶつと、先程からしきりになにかを呟いている。 あたしのこと、嫌いになりましたか。澪はそう訊こうと思ったが彼をさらに困らせると思ったのでやめた。 そもそも揚羽は恩返しのためにとこちらに接触を試みたのである。それ以上でも、以下でもない。 澪が改めて見た揚羽の出で立ちはとても美しく、汚すことなど到底許されるようなものではないと言う感じだった。 「これを」 思い出したように揚羽から手渡されたのは、桃色の、いかにも平安時代に貴族が着ていそうな縮緬にも似た羽織だった。 肌触りがとてもいい。それに仄かに花のいい香りがする。 「こちらで織った衣だ。恐らくはこれであなたもこちらの世界へ入れるだろう、羽織るとよい」 澪は肩の上からその羽織を簡単に着た。洋服の上に和服、と言うミスマッチな組み合わせは最早見慣れないものだったが仕方ない。 「手を」 揚羽がこちらに手を差し伸べてきたので、澪も言われた通りに彼の方へ右手を差し出す。 彼はその手を静かに取った。かと思うと、彼の身体がすべてが白くなり崩れ始めた。 澪は驚いて辺りを見回した。 周囲の風景までもが白くなってぼろぼろと崩壊を始めている。遂には足元までもが軋み始めた。 このままでは下に落ちてしまう。下という場所がどこなのか知らなかったが、いい場所ではないような気がした。 「怖がることはない。ただ人間の世界から我らが世界へと移っているだけだ」 手は彼に握られていると感じる。しかし、揚羽の姿自体が見えない。 彼の声が遠くから幾重の反射を伴って澪の耳に響いてきた。 「直接屋敷へ飛ぶか」 揚羽のなんでもないと言う風な言葉のあとで、急に大量の風が真正面から吹きつけてきた。 澪はその強さに思わず目を硬く瞑り、それでもすぐに目蓋を持ち上げる。 目を開いて最初に飛び込んできたのは、しっかりと揚羽の手に包まれた自分の右手だった。 顔を上げてみれば、そこには揚羽のこちらを見る顔がある。 いつもは冷静で真剣な顔しか見せたことのない彼は、そこで小さく笑みを漏らした。 「着いた。まさか本当にあなたを連れてくることができるとは思わなんだ」 揚羽が歩き出したので、未だに彼と手を繋いだままの澪も彼のあとについていく形になる。 辺りはすこし薄暗い。空と思われる部分はまるで夜の空のように群青色をしていて、その中に星に酷似したものが小さく瞬いている。 月はないのだろうかと澪はこっそり周囲を窺ってみたが、どうやら星だけらしい。だがそれでも十分に明るかった。 頭上には、それらの空を覆うかの如く、枝先に赤い蕾をつけた木々が自然のアーチを作っている。 その下を彼と歩きながら澪は、ここはつくづく本当に不思議な場所だと、なにからなにまでもを新鮮に感じた。 そうしてどれくらいの距離を歩いたのだろう。すぐに目の前には、大きな和風の門が現れた。 「ここが我が屋敷だ」 呆然と、それは彼がベランダにいる姿を見つけたときを遙かに上回る勢いで、澪は呆気に取られたままその風景を見上げた。 屋敷と聞いてそれなりの姿を想像してはいたのだが、これは自分の想像以上だ。大きすぎる。 門をくぐるとそこにはさらに長い石畳の道が伸びていた。道の脇には、和を象徴する植え込みがいくつも見られる。 ようやくのことで着いた場所は、もう驚くことも当たり前になったと言う気持ちを形にしたような屋敷だった。 もしかして揚羽は、自分の屋敷に連れてくると言いながら、どこか一流旅館にでも連れて来たのではないだろうかとさえ思えた。 ここでやっと揚羽が手を離したので、澪も今までずっと手を繋いでいたことを思い出した。 繋いでいた右手がほんのりと暖かい。 揚羽が引き戸の背丈の何倍以上もある扉を開けると、期待を裏切らない広さの玄関がそこに待ち構えていた。 「旦那様、ようこそお帰りなさいませ」 「ああ。今日は客人も一緒だ」 「あらまあ、可愛らしい方ですこと。どちらにお住まいなのかしら」 一番初めに駆けつけたのは白髪を頭の高い位置で結った中年の女だった。彼女はそれはそれは嬉しそうに微笑んだ。 澪は慌てて揚羽の背中から横に出て、軽く頭を下げる。 「前に話しただろう、恩人を連れてくると」 揚羽の帰りを待っていたのか、奥からは次から次へと様々な年齢の人間が顔を出す。 彼らはしきりに、お帰りなさいませ揚羽様と口にして、それから澪を見ては驚いたように顔を見合わせている。 まるでどこか豪勢な旅館にでも来てしまったのかのような出迎えだ。 揚羽はいつもこれほどまでに盛大な出迎えを苦にもせずこなしているのだろうか。自分が彼の立場だったら数日で申しわけがなくなるだろう。 最初より騒がしくなったにもかかわらず、揚羽は落ち着きながら口を開いた。 「以前、土蜘蛛の巣に囚われていたところを救われた……ええと、申しわけない。あなたの名を聞きそびれていた」 立場に似合わずに本当に済まなそうにする揚羽に澪は苦笑した。 「斉藤澪です」 「澪、と言う。とても果敢な、人間の娘だ」 最後の「人間の娘」の言葉辺りで、出迎えの彼らの顔からざっと血の気が失せた。 無理もないだろう。揚羽も今まで人間を連れてきたことなどないと言っていたほどなのだから。 「お、お邪魔します……」 「こちらだ」 ある意味、彼のマイペースには感心する。 多分人間ではない、廊下いっぱいに並んでいる人々の驚愕の視線を一身に受けながら、澪は揚羽のあとを小走りでついて行った。 ごめんなさい人間なんです、と、意味もなく胸に懺悔する。 澪は揚羽の背中を眺めながら、廊下を何回か左に折れ、同じくらいの回数を右に折れた。 すると唐突に先を進んでいた揚羽は立ち止まって、こちらを振り返った。どうやら目的の場所に着いたようだった。 「屋敷と言っても見物はこれくらいしかない。つまらないだろうが」 廊下の突き当たりの、縦に格子が並んでいる引き戸の前で、揚羽は苦笑する。 見物があるだけ素晴らしいことだと思うのは自分だけなのだろうか。澪は、小さく首を横に振って微笑んだ。 「ここからの眺めが一番素晴らしい」 そう言って通された部屋に、澪の胸は打ち震えた。 揚羽が案内してくれたのは、自分の部屋が五つくらいは余裕で入ってしまいそうなほど広い座敷だった。 出入り口がある面の壁以外はすべて窓がはめ込まれていて、そしてなによりも感動したものは、その窓の向こうでひらひらと舞っている薄桃色の花びらだった。 澪は恐る恐る窓辺に寄って、その花びらを間近でじっと見つめた。 窓の外には一本の巨木が空に向かって手を伸ばしている。直感的に、この屋敷に入る前にアーチを形作っていた木々と同じものだと思った。 巨木を眺める澪に気づいたのか、背後から揚羽の手が伸びてきて静かに窓を開けた。 「昔からこの木はこの場所にある。花びらは夜に映えると私たちは自負している」 「じゃあ、この世界には朝もあるんですか?」 「ああ。向こうと時間軸は同じだ。朝には露が葉を濡らし、仲間の蝶が辺りを飛び交う」 夜のこの幻想的な風景も素敵だが、朝の清々しいその光景もいいなと思った。 澪は窓辺からいっぱいに身を乗り出して片手を伸ばした。すると花びらがひとひら、指先を掠めていった。 「あなたは、本当によい顔をする」 その声に澪が振り返ると、澪の横で座していた揚羽はこちらを見て目を細めていた。 途端に澪は心の中が熱くなるような、どうしようもない感情を覚えた。 「揚羽さんもいい顔してますよ」 「そうか。それは光栄だ」 くすくすと、彼は笑いを噛み締める。 そういう意味で言ったわけではなかったのだが、彼は気づいただろうか。 澪は揚羽の真剣な顔も好きだったが、たまに見せる柔らかい笑顔がなによりも彼自身に合っているように思えた。 それまで穏やかだった空間に微風が吹いてきて、部屋の中にいくつかの花びらが舞い込む。 揚羽の黒髪にも数枚の木々を離れた薄桃色がふわと貼りつく。 だがどうやら髪に花びらがついていることに気づいていないらしい揚羽の顔は未だ真顔で、澪はそれが可笑しくて仕方がなかった。 「ついてますよ、花びら」 「あ? ああ。ついているのか」 どこか間抜けたような声で返す揚羽に、澪は少し躊躇ってからそっと手を伸ばした。 彼の頭の上の花びらを優しくつまんでそっと持ち上げる。そのとき、数日前に助けた蝶のことを思い出した。 「手を差し伸べてくれたのがあなたでよかった」 ぼそり、と紡がれた揚羽の言葉が上手く聞き取れなかったので、澪は手のひらの中の花びらから、窓の外を眺めている彼に視線を戻した。 「今、なにか言いました?」 「大したことではない。単なる独り言だ」 そう言う揚羽の顔は、どこか嬉しそうだった。 なにが彼をそこまで幸せにさせるのか。そう思って澪が彼と同じく窓の外を振り返ったとき、いつまでも儚く散り続ける巨木の花にまたも心を奪われた。 ひらひらひらひら、夜を背に薄桃色は辺りを鮮やかに染め上げる。 澪はそれ以上はなにも話さなかったが、彼との間に不安や焦燥といった心を掻き乱すものはほとんどなかった。 ただ広い座敷の窓辺に寄って、飽きることなく外を眺めるだけ。隣には揚羽が自分と同じく外を見ている。 「好きなだけ眺めればいい」 数分経った頃に揚羽がそう言ったので、澪はどうしようかと一瞬本気で考えた。 好きなだけなどと言われてしまったら、いつまでもここにいたいとしか答えようがないではないか。 BACK/CLOSE 2008/02/26 |