(……あ、蝶)

高校からの帰り道の途中で、偶然見かけた蜘蛛の巣。
木々が鬱蒼と茂っているその中にかけられた白く細い糸は、獲物を捕らえるために大きく手を広げていた。

そこまでならいつも通り素通りしただろう。
しかし巣の中になにか目を惹かれるものがあって、気づけば思わず手を伸ばしていた。
触れればそれはぴくりと動く。ああ、まだ生きている。

羽を優しくつまんでそっと持ち上げると、糸に捕らわれていたそれはふらふらと、それでも方向を定めて手の中から飛び立った。
黒い羽に綺麗な模様が青い空の中でちらちらと輝く。

(バイバイ)

胸の前で小さく手を振ったその仕草に気づいたのか、それは羽を数回優雅に羽ばたかせると、どこへともなく消えて行った。









蝶とワルツを  -前編









「恩返しがしたい」

驚きのあまり落としたシャープペンシルがころころと机の上を転がってから下に落ちた。
彼の一言のあと、どちらもなにも言わずに奇妙な沈黙が辺りを凍らせる。

澪は完全に停止した思考回路を復活させようなどとは思わなかった。そもそも、復活させる術を知らなかった。
何故こんな場所に人間がいるのだろうと、ただ虚ろな心で首を傾げる。
この部屋は間違いなく二階のはずだ。そして彼が立っている場所はベランダだ。一応つけ加えておくが、この家はベランダにご丁寧に入り口など設けてはいない。

「恩返しがしたいのだ」

澪に今の言葉が聞こえていないと思ったのか、ベランダに立つ彼は改めて言い直した。
黒い髪に透き通るような黒い瞳が真面目にこちらを向いている。
紺地の、着物と言うよりは浴衣と形容した方が適当と思われる物を着ているその姿はどこか幻想的だ。

彼の二度目の発言から数秒が経って、ようやく澪は自我を取り戻し始めることができた。
とにかく急に現れたこの若い男は恩返しとやらがしたいらしい。
澪は勉強を一時中断して、ベランダに向けて開け放ってあった部屋の窓際に恐る恐る近寄ると、彼の瞳を覗き込んだ。

「……え、あの、恩返し……って?」
「先日の一件、本当に感謝している。あなたになにか礼をしなければと思い、立ち寄った」

言葉が通じた、と喜ぶよりも先に困惑が現れた。
見知らぬこの男に恩を売った覚えはない。礼を受けるなどもってのほかだ。
澪が尚も眉間に皺を寄せていると、彼は今気づいたかのようにすっと軽く頭を下げた。

「名乗り遅れた。私は数日前、あなたに助けられた蝶。周りは私のことを『揚羽』と呼ぶ」
「アゲハ?」

名前を聞いてすぐに彼は女だったのかと考えた澪は、その姿を再度見て男だと思い直した。

「本当にあなたの果敢であること、尊敬する。あれが土蜘蛛の巣であるにもかかわらず己の手を差し出すとは……」
「ツチグモ?」

澪の返答に一瞬つまったかと思いきや、揚羽と名乗った男はいきなり部屋の方へ身を乗り出した。

「とにかく、恩返しがしたい」

とにかく、ではない。いったいその恩返しの原因はなんであるのかが、皆目分からないのだ。
澪は揚羽に苦笑して誤魔化しながら、一方でここ何日かの記憶を一心不乱に探した。

揚羽は自分のことを「蝶」と言った。もしかしたらそれはなにかのコードネームなのだろうか。
しかし次の瞬間、蝶と蜘蛛に関する記憶がいきなり眼前に展開した。
いつもの帰り道で手を伸ばした蜘蛛の巣。その先にいた一匹の囚われの蝶。ひらひらと、優雅に空の中へ飛び去って行ったあの黒い優雅な姿。

澪はその記憶を元にまた揚羽の顔を見て、絶句した。
まさか。いやしかし、ベランダにはどこにも登ってくることができそうな場所はないのだ。

「なにがよい? 尽力しよう、言って欲しい」
「え、えーっと!?」

先程よりも大きく身を乗り出してくる揚羽に澪は今度こそ慌てた。
今は夜の九時頃で深夜、と言うことはないが、階下には家族がいる。ここで騒げば色々と疑われ、最終的には彼の存在云々で面倒になること必須だ。

「とりあえず、そこはベランダなんですけど……」
「私は構わない」
「それにこんな夜に来なくても……」
「昼は他の人間の目がある。それに屋敷の者共も口やかましい」

澪はふと彼のその一言に引っかかるものがあって数回瞬きした。

「揚羽さん……お屋敷住まいなんですか?」
「ああ。一応私はこの地域の頭だからな」

地域の頭、と言うことは、恐らく蝶の世界で彼自身が偉い立場にいると言うことなのだろうか。
澪はそれまで悩みに悩んでいた「恩返し」の糸口を見つけて、思わず片手を勢いよく挙げた。

「えっとじゃあ、揚羽さんのお屋敷に行ってみたいです、あたし」
「我が屋敷に?」

揚羽は少し困ったような顔をして、それからしばらく顔を背けて考え込んだ。
しかしこれで彼が、それはできない、と言っても構わなかった。
恩返しなどとてもではないが頼めるようなことではない。現実的に金が欲しいと頼んだところで、彼がどうやって調達してくるというのだろう。

揚羽の姿にとても金という単語が似合わなかったので、澪は心の中で込み上げる笑いを必死に抑え込んだ。
するとようやく答えが見つかったらしい揚羽は、しかし言葉を濁しながら口を開いた。

「……それは少々、難しいな」
「なら恩返しなんていいですよ。そのお気持ちだけで」
「それは困る」

揚羽に即答されて、澪は答えに窮する。
だがなぜかまたも悩み始めた揚羽は、しかし何分かの長考のあとで渋々と首を縦に振った。

「分かった。なんとか説得してみよう」

そこまで腹を据えてくれなくてもいいのだが。澪はいっそ、彼の決断に感謝するような畏怖するようなそんな感情を抱いた。
まるで蝶の恩返しみたいだ、と彼と三日後のちょうど今の時刻に落ち合う約束をしながら考える。

「澪、どうかしたの?」

階下から聞こえた自分の名を呼ぶ声に振り返り、なんでもないと大きく返事してから澪が再び窓の外に視線を移すと、既に揚羽の姿は消えていた。
すぐにベランダに出て辺りを見回してみても、夜の漆黒の中には誰の姿も見受けられなかった。

不思議な人、いや、蝶だ。
澪は窓を静かに閉めながら、三日後にやってくるであろう彼との再会を、どこか待ち遠しく思った。













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2008/02/26