ゆっくりと、一定の調子をとって歩く。そんな彼女の目の前を、歓声を上げながら数人の子供達が通り過ぎていった。
彼らの元気な後姿を眺めながら、白髪交じりの老婆は薄く微笑んだ。

皺だらけの手には、色取り取りの花束が抱えられている。
彼女はそれを抱え直すと、また調子をとってゆっくりと歩き出した。









天陽国  -16









天深国と陽明国の間で起こった例の騒動が落着して、いったいどれくらいの月日が経ったのだろう。
シダは思い出そうとして、しかしどうしてか忘れてしまって、ふと目線を宙に移した。

そうして目線を宙に移したと同時に目に飛び込んできたのは、緑豊かな森の全容だった。
眼前にはいつの間にか、草地へと続く森が待ち構えていた。

あの日の衝撃は今でも忘れることができない。
国境際の土地をめぐり、両国民を納得させるために行われた長同士の打ち合い。
本殿の前で夜が明けるまで、人々はずっとどちらかの長の帰りを待ち続けた。

しかしその静寂を突き破って響いた声に人々は驚いた。
どうやら長二人のあとを追ったらしい陽民国の若者が、顔を真っ青にして本殿に駆け込んできたのは、夜が明ける少し前のことだった。

長の打ち合いに決着がつきそうだ。そう叫んだ彼に感化されて、陽民国の民はもちろん天深国の兵も騒ぎ始めた。
一旦流れてしまった動揺は止めることができなかった。
彼らはすぐに両国の長が対峙していたという、国境際の草地へと歩を進めた。

だがそこで目にしたのは、あまりにも不思議で異様で、それなのにどこか眩しい光景だった。
天深国と陽明国の民はただ呆然とその場に立ち尽くしたまま、誰一人として口を開こうとする者はいなかった。

草地の真ん中に、境界線を横切るようにして倒れていたのは、紛れもない両国の長だった。
しっかりと相手に寄り添ったまま、互いに離れないようにして倒れていた。
二人の目蓋は既に閉じられていて、まるで物を見ることを忘れてしまったかのようだった。

時折草地を吹き抜ける風が、彼らの衣服や髪を舞い上げる。
けれどその他に動くものはない。それがいっそう現実を突き示した。

シダはこの時になってようやく、ゼフィが言っていたことの真意を悟った。
ロサはこの時になって初めて、レアスが想っていた人の姿を知った。

だが両国は敵対国だ。二人の願いはあまりにも儚く、望みのないものには違いない。
草地の中で眠るゼフィとレアスの姿は、まさにその象徴だった。

共に最高と謳われた長はその打ち合いにより、常人には手の届かない、どこか遠くへ旅立ってしまった。
戻ってきてほしいとどんなに願っても、彼らはもうそこにはいなかった。

この光景は人々の胸の奥に深く焼き付けられた。
そうして人々は二度とこんな悲惨なことが起こらないようにと、意を決したのだった。







シダは最初、それが見間違いなのだと思った。
今となってはこんな辺鄙な場所に人が訪れるのは珍しい。
たまに子供達が木登りや鬼ごっこのためにこの草地周囲を駆け回ることはあるが、参拝者はと問われれば滅多に見なかった。

草地は今でも豊かな森に囲まれて、自然がそのまま美しく残っている。
しかしその中央にかつて境界線を決めるために打たれていた太い木の杭は抜かれて、代わりに小さな石碑が建った。
面に彫ってある小さな文字たちはまだ新しかった。

その石碑の前に今、誰かが跪いて手を合わせていた。
いったい誰なのだろう。シダはゆっくりとその人物の背後から近付いて、そして首を傾げた。

石碑の前に跪いていた誰かは、シダの気配に気付いたのかゆっくりと立ち上がった。
彼もこの場所に人が来るとは考えていなかったらしく、驚き顔で振り返る。
途端にアッシュ色の柔らかい髪が風に運ばれてふわと舞った。

「これは……シダ様ではありませんか」
「ロサ殿でしたか。こちらこそ無沙汰にしております」

どうやら先客はロサだったらしい。
彼はかつての天深国の長の秘書だった人物でもある。
秘書なのに兵に身をやつすことも難なくやり遂げるという、変わった一面をも持っている青年だ。

ロサはシダに軽く会釈をして、それからシダが大切そうに抱えている花束に目を留めた。
シダも彼の視線に気付いて花束を少し持ち上げてみせる。

「綺麗な花ですね。シダ様もこちらに?」
「はい、今日は特別な日でございますから」
「そうですね。時間が早く過ぎましたよ。あの日から、もう半年になりますか……」

ロサの脳裏にも、自分と同じく今はいない長の姿が蘇っていることだろう。
彼らの存在は語られるだけだ。既にここにはいない。
どれだけあの事件が両国の民の心に残り、どれだけ両国を変えるきっかけとなったことか。

果たしてゼフィとレアスはこういう結果になることを予想していたのだろうか。
いや、きっとなにもかも分かっていたのだろう。
あんなにも安らかな表情を残していったのだ、分からないはずがない。

「では、私も祈りましょう」

シダは石碑の前に、そっと壊れ物でも扱うかのように花束を置いて、両手を合わせた。
ふと隣を見ると、ロサも同じく膝を突いて手を合わせている。

こうして以前は異国民だった者同士が同じ場所にいるなど、どこか不思議だと心の中で微笑んだ。
シダが生きてきた限りで天深国の者と言葉を交わすなど、遙か昔に数回あったきりだった。

さて、祈ったはいいが何から取りかかればいいのだろう。
シダはゼフィに報告したいことが数え切れないほどたくさんあって、まず困った。
この半年で両国は今までにないほど変化を遂げていた。

(長、ゼフィ様、どうしてこの老いぼれより先に行ったりなどしたのです)

いつも真っ先に不平不満を述べる。
それから少しの間だけ言葉を反芻して、ゼフィに物語を聞かせるように現状を報告する。

(陽明は変わりました……)

それはまるでいつまでも陽が明るく照っているように。

(天深も変わったのですよ……)

遙かな高みの天の色は深くて澄んだ群青色。

(ゼフィ様、いつものように剣術を磨いておられますか?きっと楽しいことでしょう。私には天深国の長様と一緒にいる長の幸せそうな顔が見えますので……)

いつも屈託のない笑顔で笑っていたゼフィ、その姿が目蓋の裏に浮かんで、思わず目頭が熱くなる。
何故かゼフィのすぐ傍では、レアスが彼女に優しく笑みかけているようなそんな気がした。
そうして二人は互いに笑い合っている。幻のような夢のような眩しい光景。

シダはふっと目蓋を持ち上げてから、ゆっくりと辺りを見回した。
気のせいか、風が木の葉を揺らす音のどこかから声が聞こえた気がした。
けれどそこにあるのは、ロサと自分以外誰の姿もない。

「久し振りにレアス様に冷たくあしらわれました」

ロサは苦笑しながら腰を上げた。

「傍へ参りますのはそう遠いことではありませんと言ったら、『何言ってるんだ』と。それはもう歴代一位なのではと思うくらいに」
「まあま、同じようなことがあるものですね」

思わずシダはふふと笑みを零した。
本当に世の中にはおかしなこともあるものだ。
シダもたった今、自分の名を呼ぶゼフィの声を聞いた気がしていた。

けれどそれは空耳にすぎないのだろう。
二人はもうここにはいない、遠くの別の世界で仲良くやっているはずだった。

「次の長は、どなたになるのでしょうか」

長がいなくなって半年、早くも次の長を決める選挙が近付いてきた。
シダが思い出したようにロサに訊ねると、彼は自身あり気に頷いた。

「候補者は皆、新たな国をまとめようとしっかり働いております。誰が就いても頼もしいでしょう」
「ロサ殿は立候補なさらないのですか?」
「長の役職には向きませんよ。秘書としての務めの方が、やりがいがあります」

アッシュ色の髪はそんな彼に合わせるかのように風に舞う。
案外そんな彼が長に向いているような気がしたが、あえて黙っていた。
必要なのは自分の気持ちと、それに時間の問題次第だろう。

天を仰げば木々の間から降り注ぐ太陽の光が目に染みる。
石碑を、草地を、森を、天深国と陽民国を、眩いばかりの金色の光がすべてを照らし出す。
その中で、シダはまた彼に訊きたかったことを思い出した。

「そう言えばロサ殿、長は決まったも同然ですが、国名はどうなるのでしょう。私はその辺りに関与しておりませんので」
「あ、そうでしたか。いや、天深国と陽明国が互いに一国になろうと諸手を挙げた時はどうなることかと思いましたが……」

ゼフィとレアスが変えたのは国民だけではない。国そのもの、隣国までもを変えた。
天深国と陽民国は今までの争いを悔いて、新たな一国となることを決めた。

もちろん、まだ多くの問題が至るところに残留している。辛いことなどたくさんあるだろう。
それでも両国の民はこの道を選んだ。
どんなに辛く苦しくても、前へ進むことを諦めないために。

「両国の民の全員一致、この結果には驚きましたね」

ロサは困ったように肩を竦めてみせた。その顔には、薄らと笑みが浮かんでいる。

「天深国と陽明国の頭文字を取って『天陽国』、いい名前ですよ」







「天陽国」の中央には緑豊かな森、その中には小さく開けた草地がある。
毎年春になると多くの果実が宿ったので、人々は喜んで春の祭りを催した。

朝は多くの鳥たちが寝床から巣立っていっては可憐な歌声を披露した。
夜はすべてを包み込むような暖かい静寂を生み出して、動物達の揺りかごとなった。

その広い草地の上を、数人の子供たちがはしゃぎながら中睦まじく駆け抜けていく。
彼らはそこで何があったのか詳しくは知らない。
昔この国が二つに分かれていたのだと言うことも、親から寝る前に昔話で聞いて知った程度だ。

草花が天に葉を広げる草地の真ん中に、小さい石碑は今日も変わらず建っている。
雨風を受けながらも、国民を見守るように静かにひっそりと微笑んでいる。

それはかつてを生きた二人が託した、すべての希望を未来に繋ぐための永遠の証として。
なによりも平和を願う存在であり続けるために。













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2006/12/18