いつまでこの争いは続くのだろうと思っていた。

人気のない国務室の中で静かに机上に置かれた湯飲みには、薬草独特の色が仄かに浮かんでいた。
それはまるで、年を経ても色褪せることのない淡い想いのようだった。









天陽国  -15









手が恐怖と絶望で震える。ゼフィは思わず現実を見失いそうになってしまった。
涙が身体の奥から滲み出てくる。分かっている、今どうなっているのか分かっている。

もし足がなければ、ゼフィは力をなくしてその場に崩れていただろう。
レアスの顔が正面にあったが、涙で何も見えなくなった。

「レ、レアス……!」
「静かに」

レアスは腹部に剣を突き立てられているにもかかわらず、静かな表情で人差し指を口元に持ってくる。
木立の向こうでは、隠れていた青年が驚きの表情で去っていく後姿が見えた。

これでようやく二人だけで会話ができるようになったが、ゼフィの心は激しく動揺していた。
そんなゼフィの顔をレアスは真剣な表情のまま覗きこむ。

「ゼフィ、落ち着いて」
「お、落ち着けない!」

銀色に光るゼフィの長剣を真っ赤な鮮血が伝う。
それらは柄のところまで来ると、行き場を失って草の上にぽたぽたと滴り落ちた。
地面に広がる染みが濃くなっていくほど、ゼフィの手はかたかたと震えた。

レアスはそんなゼフィの肩を掴むとぐいと向こう側に押しやった。
剣を持つにしては細過ぎるゼフィの手が柄から離れると、レアスは自分で腹部を貫いているその剣を引き抜いた。
鈍い音を立てて剣は草の上に倒れる。

「刺さったままは痛いな……」

レアスは苦笑して見せるが、痛いどころで済む話ではない。
ゼフィの瞳にはいっそう多くの涙が溢れた。

「レアス、なんで……」
「仕方なかったんだ。他人がいたら俺らは普通に話せないだろ?」
「だって!だったらどうして!」

耐え切れなくなったのか、ゼフィの目の前でレアスは身体の力が一気に抜けたようにすとんと地に腰を下ろした。
苦しそうな表情を噛み殺して、剣が突き刺さった脇腹を押さえる。

どうやら辛うじて急所は避けたようだが思いのほか出血がひどいらしい。
レアスは痛みに顔をしかめながら、それでも苦笑し続けた。

ゼフィはまだ呆然とレアスの前に立ち尽くしていた。
しかししばらくするとなにかがぷっつりと切れたかのように、脱力感と共に地にぺたんと座り込んだ。
次から次へと涙が溢れて仕方がなかった。止まれと願うのに止まらない。

「ゼフィ」

レアスの手が伸びてきて、そっとゼフィの頬に触れる。
暖かかくて手放したくはなかったけれど、ゼフィは意を決してふるふると首を横に振った。

「……そんな資格ないわ。私には、もうレアスに触れる資格なんて」

声が震えて次第に涙声に変わっていく。
ずっと我慢してきたというのに。レアスとは違う国に生きる者同士だ、将来恵まれることは決してない。
だからレアスは自分ではなく、天深国の他の少女と睦まじくなった方が幸せになれる。

それなのにレアスは何故自分から剣に向かったのだろうか。
分からない。今も彼の腹部から流れ出る鮮血を見るだけで、胸は張り裂けそうだった。

今頬に触れているレアスの温もりが、いつまでも続けばいいと思った。
だが想いとは裏腹に、レアスの顔色は傍から見ても分かるように悪くなっていく。

「いい、これでよかった。俺は最初からこうするつもりだったんだ」
「……え?」
「俺の代わりなんていくらでもいる。ゼフィなら天深国と陽明国をまとめられる」

ゼフィの顔が驚嘆の表情へと変わって、レアスは苦笑した。

「言っただろ?負けても悔いはない、ゼフィと会えたことだけが嬉しかったって」
「言ってたけど、でも……」
「今もそれが俺にとって一番嬉しいことに変わりない。まあ、一緒になれなかったことは除くけどな」

苦笑するレアスが、どこか遠くへ行ってしまいそうに思えた。
まだレアスはここにいるではないか。一緒になれないなど、そんなことを言わないでほしかった。

レアスの腹部からは相変わらず止め処なく鮮血が流れて衣服を紅く染めていく。
ゼフィはぐっと自分の唇を噛むとぐいと彼の胸元を掴んで、さっきよりも強く首を横に振った。

「違う……。違う、なんで……っ!」

言葉の先を飲み込んだゼフィの顔が苦痛に歪む。
思わず両手で口元を押さえて数回咳き込む。ごほごほと嫌な咳が喉の奥から飛び出した。

まずい。どうやらそろそろ限界が来たようだ。
胸が外部から強く圧迫されるように苦しい。今まで普通にしていた息が、なにかに塞がれたかのように苦しくなった。
足元ではいつもお世話になっている薬草が柔らかく風になびいている。

異常に気付いたのか、レアスがこちらの顔を覗き込んできた。
ゼフィはそんな彼から視線を逸らそうと顔を背ける。

「ゼフィ?」

指の隙間を縫ってひゅーひゅーと細い息が漏れる。
苦痛を隠そうとしてみたが、あまりに苦しすぎて無理だった。

「薬草は?」

レアスは本当に自分をよく見てくれているのだと思う。
どうして彼は他人の体調不良まで分かってしまうのだろうか。
ゼフィはしばらく躊躇ってから小さくまた首を横に振った。レアスの服を掴む手が、一瞬だけ緩む。

「なんで、似たことを考えるの。私は、どうせ長く生きられる身体ではないから、レアスに……」

ふとゼフィの脳裏に今朝の自分の行動が蘇る。
いつものように薬草を煎じて口にしようとした瞬間、どういう訳か気が変わった。
何かが自分を押し留めた気がした。

夜の対決は、結局どちらかの長の勝敗がつくまで民も納得しない。
自分は呼吸器官を患っている。だがレアスは健全だ、それに強いと聞く。

どちらが新たな長として機能するか。
そう考えたときすべてが決まった。きっと天は、この使命のために自分を送ったのだのだと思った。

「今日の分の薬草は、飲んでないの」
「何故?」
「ここで、レアスと戦ってなら、それが引き際だと思って……」

また嫌な咳がゼフィの言葉を妨げる。
どうやら薬草の制御を失った病は、その威力をじわじわと発揮し始めてきたようだった。

ゼフィは体を半分に折ってまた咽込んだ。
咳をするのにさえ無駄な体力を使ってしまうようで疲れる。いっそこの草の上に倒れこんでしまいたくなる。

「……ゼフィ」

自分の名を呼ぶ声に反応して顔を上げると、そこには薄らと笑むレアスの顔があった。
彼の瞳はさっきよりも虚ろになっている。
出血がかなりひどいのか、彼の瞳の焦点が早くもずれ始めていた。

レアスはそっとゼフィの肩を引き寄せた。
最初こそはゼフィも首を横に振って抵抗していたが、しばらくして躊躇いがちにその腕の中に身を預けた。
分かっているからこそ、もう互いに何も口にしなかった。

境界線越しでしか会えなかった姿。触れることさえ許されなかった温もり。
レアスの腕の中は信じられないくらいに暖かかった。
昔も今も変わらない。レアスと過ごす時間は他のなによりも、この世界で一番心地よく感じられた。

ふとゼフィが天を仰いだ、その木々の間から空が見えた。
草地には一本の木もない。くり抜かれたように見える空は、どこまでも澄み渡っていた。
だが夜なのにどこか明るいことに気付いた。どうやらもうすぐ夜が明けるらしい。

「ねえレアス、さっき言ってたことだけど」

ぽつりと、レアスの腕の中でゼフィが呟く。

「レアスの代わりならいくらでもいるって……」
「ああ、言ったかもな」
「でも、私だけは違うから」

ゼフィはそっとレアスの胸に顔を埋めた。穏やかな風が優しく頬を撫でる。

「レアスの代わりなんてこの世界のどこにもいない。一人だけなの。私が好きな人は、レアス一人だけだから」

ようやく胸の内を明かすことができて、ゼフィはほっと安心する。
レアスは一瞬黙り込んだあとで、急に小さく笑い出した。

地平線から徐々に現れた太陽の光が空を白く照らし出す。
鳥が他の何よりも早く目覚めてさえずり始めた。
ゼフィがそれとなくレアスの背に回す腕に力を込めると、レアスもいっそう優しく強く抱き締めてくれた。

「俺たちは同じことを考えていた訳だ」

そう呟く彼の声は微かに笑っていたように思えた。

「そろそろ行かないか?誰も入ってこれやしない、二人だけの世界にさ」
「……うん、それもいいけど。でもやっぱり、私はみんなと一緒に騒いでる方がいい、かな」
「ゼフィらしい」

くすくすと笑うレアスの声も段々と弱くなってきたのだと分かる。
そんな彼に抱き締められている自分の思考も、次第に白濁した世界の向こうへと消えていく。

ああ、辺りが不思議なほど静かだ。
そう言えばレアスと最初に出会った日も、同じように静かだった。
けれど彼と出会って、毎日が以前と比べられないほど騒がしく楽しくなった。

「天深国と陽明国は、どうなる、かな……」

ふと空に向かって吐き出したゼフィの言葉に同調するようにして、レアスがふっと目蓋を閉じる。

「良くなるよ。きっと、いや絶対に良くなる」

彼のその強い言葉が、なぜか絶対にそうなるのだと、少なくともゼフィにはそう思えた。
ゼフィはただ口元を緩めた。もう声に出して笑う気力は残っていなかった。

それからあとの記憶はない。
次第に目の前はぼやけて霞んで行って、なにも分からなくなった。
ただそれでも、目の前にある温もりだけは決して手放さなかった。

もっといい時代に生まれていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
天深国と陽民国が数百年前の関係を保ち続けていたのなら、二人で生活を共にできたのかもしれない。

しかし現実は確かに現在にあり続ける。だからこそ未来への希望を繋いだのだ。
誰もが幸せになるように。もう誰も、胸を潰すような苦しみを味わうことがないように。

(ああ、眩しい……)

ゼフィが薄らと目蓋を閉じたその向こうに、一つの光が見えた。
意識が朦朧としてきて、それでもゼフィは冷たくなってきたレアスに添い続けた。

小鳥の可憐に歌う声が遠くに聞こえる。
なにか暖かい壮大なものが、大地を次第に照らし出していく。

朝がきた。すべての始まりである時がやってきた。
地平線から満を持して顔を出した陽光は、大きく息を吸って朝の息吹を世界に吹き込んだ。
天深国と陽民国はこの瞬間、共に同じ朝を迎えた。













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2006/12/07