夜空を背に瞬く星を見上げたのは、いったい何日振りのことだろう。
ゼフィは外を歩きながら、思わず心から呆けてそれらの静かな風景を見上げていた。

(……あの草地へ行こう)

何故かは分からないが、今行かなくてはと思った。
たとえレアスの姿がそこにないのだとしても、行きたいと思った。









天陽国  -11









森の中に入ってしばらくすると、遠目に草地が見えてきた。
草地には一切の木が生えていない。星明りに照らされた薬草が、幻想的に浮かび上がっている。

ここまで誰にも出くわさなかったのが救いだ。
今やゼフィは長だ。ここで誰かに見付かってしまえばかなりの問題になってしまうだろう。
しかし今日は恐ろしいほど静かだった。ゼフィが見る限り、両国の誰の姿も認められなかった。

だが万が一と言うこともある。もしかしたら一人くらい誰かいるかもしれない。
ゼフィは身を隠しつつ慎重に歩を進めた。
すぐ目の前には、レアスと過ごしたあの草地が開けている。

(誰も、いない?)

どうやら今日は騒ぎが一段落したようだ。
ゼフィはほっと胸を撫で下ろして、木立の中から草地へ行こうと足を一歩踏み出した。
久し振りにあの草花の中に埋もれて星空を眺めてみたかった。自然の息吹を感じたかった。

だがその時、一瞬にして何者かの気配が走ったのをゼフィは逃さなかった。
いち早くその気配を察知したゼフィは、素早く再び木立の中に身を潜ませた。

天深国側からだ。ゼフィは木立の幹を背に確信を持った。誰かの気配は杭の向こうから感じられる。
ここのところ陽明国領域に育つニコラの盗難がひどい、もしやその主犯だろうか。
ゼフィは神経を研ぎ澄ませてじっと天深国側を注視した。

ゼフィと入れ替わりに鮮やかな色がゼフィの視界に現れる。衣服はどこからか吹いてくる風に揺れている。
その「誰か」はゼフィが見守る中であっさりと姿を現した。しかしその姿を認めたゼフィの胸は張り裂けそうになってしまった。
月明かりの漏れる草地にすっと姿を現したのは、レアスだった。

(何で……!?)

ゼフィは息をすることさえ忘れて成り行きを見守った。
いったいどうして彼がこの場所にいるのだろう。

レアスは草地へ静かに足を踏み入れて、境界線代わりの木の杭にそっと手を置く。
これから何が始まるのか。心臓がばくばくと唸っている。

「天深国は、もうすぐ陽明国を政略する」

突然レアスが口を開いて話し出した。
辺りに人の姿はない。いったい誰に向かって話しているのだろう。

「そうなったら、お前も巻き込まれないか。ゼフィ」

それまで鼓動し続けていた心臓が、止まった。
今の一言が自分のためのものなのだと知った時、すべてが白く塗り潰された。

彼は、レアスは、自分がここに身を潜ませていることに気付いているのだ。
いったいいつから気付いていたのだろう。気配は完全に消したはずだった。

「陽明も大変だろう。天深も同じなんだ。陽明を絶対許さないと、民は完全に頭に血が上っている」
「そんな……」

ゼフィは手元でぽつりと呟いた。
悲しかった。こんなにも早く、何もかもが崩れるとは悲しくてどうしようもなかった。

今すぐにレアスの前に飛び出していきたかった。
以前のように面と向かって会話をしたかった、しかしそれはもはやできない。

彼からの告白を断ってしまった手前、ゼフィは思うように行動できなくなっていた。
もしあの時、同じ想いだと言うことを打ち明けていれば何かが変わったのかもしれない。
この時のゼフィにできることは、ただ次のレアスの言葉を待つことだけだった。心臓の鼓動が早鐘を打っていた。

「天深国の会議で、陽明国への武力行使が決まった」

レアスの低い言葉にゼフィはじっと耳を傾けた。

「だが俺の一存で、国を挙げての全面戦争ではなく、長同士の打ち合いに決まった。これ以上は無理だった。戦は、回避できなかった」

木立から見えるレアスの表情がどことなく暗い。
懺悔しているようなその言葉から分かる。彼は余程幹部を説得したに違いない。

長同士といっても、今の長であるレアスが出陣することは明瞭だ。
きっと国を挙げての戦争になるところを、自分の命を賭けて方向を変えたのだろう。
しかしどうしてそんなことを了承したのか、ゼフィには分からなかった。

(……なに?)

ふと視線を感じた。
少し離れた場所にいるレアスから、なにか射るような視線が伝わってきた。

今も気配は消しているつもりだ。だがレアスは気付いている。
彼はこちらをただじっと見て、まるで一目会いたいと言うような顔をしている。
胸が痛かった。できることなら、ここからすぐに飛び出したかった。

だがゼフィは間一髪でその衝動を押さえ込んだ。
いけない。自分たちは別れたのだ、今更会いになど行けない。

「ゼフィ、いいか聞いてくれ」

レアスは少しばかり声のトーンを落とした。
それが重要な事を伝えるものだと告げている。

「とにかく天深は陽明を全面的に攻めるつもりはまったくない。ただ長と長の対決、その旨を、そっちの長に伝えてくれないか」

ゼフィは思わず身を乗り出そうとして、慌てて身を縮ませる。

「時刻は明日の夜だ。太陽が沈み月が中天に達した頃、俺は行く」
「……レアス」
「そういえば前に言ってたよな、そっちの長は俺より強いかもって」

レアスは暗闇の中で寂しげに微笑した。

「負けても悔いはないよ。俺はゼフィと会えたことだけが嬉しかった、ただそれだけだ」

彼の言葉の一つ一つが胸の奥にまで食い込んでくる。
つい最近まで手の届く範囲で笑い合っていたのに、その姿が、あんなに遠い。

レアスは何かが吹っ切れたらしく、踵を返すとこちらを振り返りもせずに天深国へと消えていく。
彼の足音が、草を踏みしめる音が遠ざかっていく。

(……いけない!)

会うのか、会わないのか。
突如目の前に差し出された二つの問いの間で、ゼフィはしばし悩んだ。

だがここで別れては彼ともう二度と会うことはない。長であることを打ち明けるしかない。
いい打開策だとは言い切れなかったが、ここで長だと明かせば何かが変わるかもしれなかった。
ゼフィはついに耐え切れなくなって、木立の中から草地へと飛び出した。

「レアス!」

夜風が吹き抜ける草地の中から、既にレアスの姿は消えていた。
あるのは誰もいない無人の草地と、空っぽの空間だけ。

「どうして……!」

ゼフィは膝から崩れて草地に座り込んだ。
涙が止め処なく睫毛の上に溢れて零れて、胸がぎゅっと締め付けられる。

考えたくなかった。一番考えたくもなかった。
明日の夜の打ち合い、それまでに覚悟を決めるのはあと一日とは、あまりにも短かった。
愛する人と国を背負って戦うなど、どうして出来ようか。

ゼフィの足元では、彼女を囲むように薬草が風に揺れている。
いつまでもいつまでも。永遠に天に葉を広げるようにして。













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2006/11/12