空にはどんよりと分厚い灰色の雲の層ができている。
まだ昼だというのに今にも雨が降り出しそうな、そんな重く暗い雰囲気だった。

天深国のほぼ中央には長や側近のみが立ち入ることのできる大きな建物や兵士たちの訓練場が密集している。
その中のある近衛塔の中では、平兵士が剣やら甲冑やらを丁寧に磨いていた。
だが今や、彼らの視線は密かに窓際の格段豪華な出で立ちの若い男に注がれていた。

「まったく、こんな所に……」

大袈裟な溜め息をついてそこに現れたのは、アッシュ色の髪をした青年だった。
きっちりとした服装の彼の手には多くの書類が携えられているのが分かる。
彼はまたふうとひとつ溜め息をついてから、窓際に寄りかかっている若い男の方へゆっくりと歩き出した。









天陽国  -05









「レアス、レアス様!」

特別強い口調に気付いてレアスが顔を上げると、そこには付き人であるロサがこちらを覗き込んでいた。
彼のアッシュ色の髪が彼の言葉に合わせてふわりと踊る。
ようやく見つけたと言わんばかりのロサの表情に、レアスはすぐに目線を窓の外へと逸らした。

レアスとロサとは幼い頃からの付き合いだった。レアスにとって彼は気心も知れている、一番信頼のおける人間でもある。
長になった時、秘書の訓練を受けていたロサをすぐさま自分付きの人間へと推薦した理由もそんなものだ。

しかしロサは仕事になるとかなりの几帳面さを見せる。
今回彼がここまで自分を追ってきた件も、早く国務室に戻って仕事を続けるように説得するためだろう。

「レアス様……そんなに外ばかり見て退屈ではないですか?」
「放っとけ」

呆れたように口を開くロサに、レアスはいつにも増して素っ気ない態度で返した。
ロサはそこで仕方ないと観念したらしい。彼はそれきり黙ってレアスと同じ方向へ、窓から見える陽民国の方へ視線を移した。
森が連綿と続いている遙か向こうには、ロサにも陽明国の見張り台であるやぐらが小さく見えることだろう。

「陽明国、ですか?」

しばらく沈黙した後で、ぽつりとロサが溜め息混じりに呟く。

「ま、あの国も例の国境際の土地の譲渡になかなか応じませんからね」
「昔からの話だろう」

そこでまた会話は途切れる。しかしロサは先程よりもすぐ言葉を続けた。

「そう言えば、あちらも長が交代したようですよ」
「は?」

聞いていない。いや、陽明国とはあまり関係が良くないために、そんな情報がすぐにでも届くはずはないのだが。
だがそれにしても話が急展開すぎるのではないだろうか。

レアスは思わず窓の外からロサの方へ目線を戻した。
一方のロサはばさばさと慌しく、手元の書類を整理している。

「何で同時期なんだ」
「さあ、こちらの情報もどこからか漏れているようですし……」
「漏れるだろ。隣国だしな」
「こちらが集めた情報によると、陽明の新たな長は国で一番剣ができるそうです。あ、レアス様といい勝負かもしれませんね」

その言葉を受けて、途端にレアスの脳裏にゼフィの言葉が蘇ってきた。
確か以前、剣術に関して強いのだとゼフィに告げた時、彼女は「負けるかもしれないのに?」と返してきた。

心の隅でずっとその意味を考えていた。だが、今のロサの言葉で分かった。
陽明国の新たな長は余程剣術に長けているらしい。
周囲の人間、少なくともゼフィを唸らせるほど陽明の長は強いのだろう。もしかしたら自分以上かもしれない。

思い返せばゼフィは陽明の剣術教室の娘だ。
彼女にそれとなく新たな長について訊けば、なにか得られる情報があるかもしれない。

(……って、おい)

そこまで考えてレアスははっと我に返った。
心の中で首を横に振って、今さっき、ちらとでもゼフィを利用しようとした考えを強引に振り払う。
国を背負っていると言っても、この件に関係のないゼフィを巻き込みたくはなかった。

「本気でどうにかしてきたな……」

レアスの低い呟きに、横にいるロサは小さく首を傾げた。

「そう言えばレアス様、見合い話が数件上がってますけど。特にこれなんて今までにないお話ですよ。レイラと言う少女なんですが、これまた人々が振り向くほどの美人でして家は旧華族で富豪、えーとあとは……」
「断る」
「結婚しない気ですか?まさか、やめて下さいよ」
「あーもう放っとけ」

レアスの容姿に惚れて求婚してくる者は多かった。
しかも長になってからというもの、日を追う毎にその数は勢いを増した。

「相手がいらっしゃるならそれでいいんですけどね」

意味ありげな皮肉っぽいロサの言葉を今度こそ無視して、レアスは窓の外に視線を戻した。
ああ、本当に雨が降り出してきそうな嫌な天気だ、と思った。

結婚相手、ふとそこまで考えて、一番に浮かんできたのはゼフィの姿だった。
だがそれが何故なのかは自分でも分からなかった。
ただ彼女と出会ったその日から、彼女の姿は目蓋を閉じても見ることができた。

国境際の草地に足を運ぶのも、ゼフィと会えるからなのかもしれない。
だが最近は滅多に彼女と会うことはなかった。時折見かける人間はゼフィではない、警戒心の強くおどおどとした人間だった。
もしかしたら彼女の方では何か事情が立て込んでいるのかもしれない。

会えなくなって国務室に篭るようになって、どうしてもゼフィに会いたくなった。
あの国境さえなければ、すぐにでもあの細い腕を掴んで引き寄せたい。
彼女を二度と離さないように、例え苦しいと訴えられても力強く抱きしめたい。

だがゼフィは陽明国の民だ。いくら結婚したいと言っても認められないだろう。
それはもちろん、向こうの陽明国でも同じことだ。

今まで幾度も災いを運んできたあの土地が両国を、自分たちの運命までもを隔絶した。
どうして自分たちは出会ってしまったのだろう。

「ではレアス様、国事も怠らないで下さい」

ロサの言葉が頭の中を素通りする。レアスはなおも陽明国の方角を眺め続けた。

(どうして草地に行ったんだっけな……)

確かあの日、ゼフィと最初に出会った日は、剣術の練習場所を探していた。それだけだった。
天深国にいると長の仕事だけで一日が終わってしまう。
ロサには悪いが少しの間だけ行方を眩まして、剣術の練習をしようと場所を探していた矢先のことだった。

静かで人目に付くことのない、なによりも落ち着ける場所。
その条件をすべて満たすのは、滅多に人が立ち入ることのない国境際の土地に他ならなかった。

だが何気なく出向いたその地でゼフィと出会ってしまった。その姿を見つけてしまった。
少し開けた草地の真ん中に座り込んで、ゼフィは笑んでいた。
彼女は木々の間から舞い降りてくる鳥に向かって光に向かって笑顔を送っていた、その異様に美しい光景に息を呑んだ。

なぜかその途端、ゼフィが違う空間にいる人間のように思えてしまった。
気付いたとき、思わず我を忘れて彼女に近付いていた。

「どうしろって言うんだ」

しかし天深国と陽明国が和解しなければ彼女とは一緒になれない。
あの忌々しい境界線を越えることすらできない。

ぽつりぽつりと窓に細い筋が流れ出した。そうしてすぐに、天からの涙で地面が黒く塗り潰されていく。
レアスは突然思い立ったように立ち上がると、窓際から離れて歩き出した。

「長、どちらへ?」
「国務室だ」

周囲で剣を磨いていた兵士に素っ気なく答えて、レアスは部屋の出入り口まで一心に歩いた。
どうしてだろう、ここで立ち止まってはいけないような気がした。
その瞬間、なにもかもが崩れていくような恐怖が現れてしまうのではないかという気さえした。

「ゼフィ……」

歩き始めてしばらくあと、ぽつりと愛しい人の名を口にして、心に宿った暖かさに驚いた。

早く会いたいと願ってしまう。
異国だろうが敵対国だろうが関係ない。他の誰でもないゼフィ本人に会いたかった。













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06/07/17