あれからゼフィが草地に足を運ぶと、必ずと言っていいほどレアスと出会った。
だが以前と変わったのは、彼と会った時に嬉しさを感じられるようになったということだった。

「さて、やりますか」

ゼフィの足は今、自分の家の隣に立つ大きな建物に向かって進んでいた。
この場所で剣術のすべてを磨いたと言っても過言ではない。建物の中からは、絶え間ない鋭い硬質音が今も響いてくる。

レアスと会えるのは確かに嬉しい。だが最近は滅多に草地に出向くことはなかった。
一国の長としての立場はそれ程に重大だった。仕事は急かすように毎日舞い込んできたので、薬草の摘み取りも使いに頼んでいた。
だから今日、こうして稽古場に顔を出したのは、ほんの気晴らしだった。









天陽国  -04









長になって削られたのは草地に足を運ぶ回数だけではない。
強さを磨くための剣術の稽古でさえ、長としての仕事の忙しさからその制限をかけなければならなくなった。

久々の稽古場は新鮮に感じられた。
稽古場は全体的に木造のため、あちらこちらから木の温もりが伝わってくる。

ゼフィは稽古場に足を踏み入れてすぐにきょろきょろと辺りを見回した。
稽古場に集まっているのは、汗まみれになりながら武具を外している生徒、稽古場の隅で剣術の基礎を見て学んでいる生徒、それぞれだ。
だが本音を言うと、練習生を上回るもう少し骨のある人材に出会いたかった。

「ね、少し剣の相手をして貰えない?困ってるの」

これから剣術の練習に入ろうと武具を着けていた生徒の一人の前に屈んで、ゼフィは両手を合わせて頼み込んだ。

「……それは構いませんが、近日剣の競い合いでもあるのですか?」

声をかけられた当の青年は、目を丸くして驚いている。
今のゼフィは長の地位についている。その彼女が剣術で焦るなど、試合が間近なこと以外は考えられないのだろう。

しかもゼフィ以上の剣術の使い手は、もはやこの国にはいないとまで言われているのだ。
周りにいた青少年たちも、ゼフィの頼みに途端におおと感嘆の声を上げた。
滅多に見られない長の剣術が見られるとあって、稽古場はいっそう騒がしくなった。

「競い合いね……あっても困るけど」
「いいですよ。こちらこそ、お願いいたします」

珍しく一発でこの青年が安請け合いをしてくれたはいいものの、ゼフィに敵う者は滅多にいなかった。
本気を出さずともゼフィは手加減と言うものを知らないのだから数分で白旗を揚げる者がほとんどだった。

そしてそれはこの青年も例に当てはまることであると、数分後に思い知ることになる。
練習試合開始わずか数分で、彼はゼフィの突出した剣術に恐れ戦き、参りましたの土下座まで見せた。
次の相手を探すためにゼフィが周りの観衆に目をやると、全員が青白い顔をして首を横に振った。

「やっぱり練習程度にしかならないわ」

やはりもっと強い相手と戦えるのは、数年に一度の国を超えての親善試合だろう。
だがゼフィは長の立場から、今後は試合に出させてもらえないに違いない。

ゼフィは逸る気持ちを抑え、ふうと嘆息してから剣を鞘に収めた。
しかし同時に、ゼフィは胸の奥に走った激痛に顔をしかめた。

(これは……!)

立っていることができなくなり、膝ががくりと折れてそのまま稽古場の床の上にうずくまる。
周りの風景がぐるぐると目まぐるしく回って一点に収束していく。
稽古場に剣術を習いに通う者たちの動揺の声が頭上から聞こえる。誰かの必死に自分の名を呼ぶ声が聞こえる。

だがそれらがまるで気に留まらないほどに意識は混濁していった。
病の症状が出たのだ。ゼフィは薄らとそう思った。症状が出てしまったからには自分でもどうすることもできなかった。
周囲の騒ぎすべてを無視して、ゼフィは意識を手放したままその場にうつ伏せに倒れ込んだ。







「新たな長は無茶しかなさらぬな……」

おっとりとした、どこか安心を与えるしわがれた声が頭上から聞こえる。
ゼフィはその声にぴくりと反応して、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。

いつの間にかゼフィが寝かされていたのはベッドの上、稽古場の隣に建つ自分の家の自分の部屋にいた。
稽古場で倒れた自分を誰かがここまで運んでくれたのだろう。
しかしその誰かに礼を言いたいが誰なのか分からない。ふとそんなことを考えてゼフィは小さく笑った。

ベッドの横には、相談役の一人であるシダが腰かけてこちらを見て微笑んでいた。
彼女は老婦だが冴え渡る知識は未だに限界を知らず、相談役の中でも一目置かれている存在だった。
ゼフィはシダを実の祖母のように慕っており、相談役の誰よりもゼフィにとっての彼女は一番身近に感じられていた。

「シダ、どうしてここに……?」
「覚えておられますか?長は稽古場で倒れられたのですよ。病状が悪化したのかどうか分かりませんが、急に激しい運動をなさるからです」

どこからか、あの薬草独特のきつい香りがする。

「薬はさっきお飲みになられましたから、安静にしていれば大事ございません。ですが後でお医者様に来て頂かなくては」
「悪化、したのかも……」
「この頃は国事にかかり切りだったのでございましょう。我が陽明は小さき国ですし、多少放って置いても大事ありませんよ」

悪戯に微笑んでみせるシダに、ゼフィもふっと笑んだ。
ああ今やっと、久し振りに身体を休めることができたような気がする。

「そうそう、他の相談役の者がどこからか天深国の情報を持って参りました」

そう言ってシダは目線を宙にずらす。
訊いたことを思い出そうとする、彼女の癖だった。

「天深国の若長はやはりゼフィ様と同じ御年十八歳だそうで、名は……ええと、何と言いましたか……」
「レアス?」
「そうそうそんな名でした。何ですか、先にお聞きになっているとは」

薄々予想していたことだが、最終確認が取れてゼフィは撃沈した。
病状の悪化と相なって、今は人生の中で最悪な時期と言えるだろう。

やはりレアスは長だった。そして自分も長になった。
これからいったいどうなってしまうのだろう。ゼフィは何をする気にもなれず黙り込む。
あの国境際の土地が永遠に両国を隔てている限り、絶対に報われないのだ。

「戦に、なるかも。あの場所は陽明と天深を切り離したっきりだから」
「まあま、そのようなことを」
「両国が分かり合える日は、永遠に来ないのかもしれない……」

不覚にも涙が溢れてきそうで、瞳を覆い隠すように両手を額の上にかざした。
ふっと目の前が暗くなって、部屋の天井もシダの姿も見えなくなる。

悲しくてどうしようもなかった。心が潰れたまま戻らなくなってしまいそうだった。
どうしてこんな悲痛な運命を背負ってしまったのだろうか。
せめて長にさえならなければ、レアスと普通に話したり接することができたに違いない。

考えれば考えるほど悪い面ばかりが見えてきていっそ耳を塞ぎたくなる。
長になってから、レアスと出会ってから、自分は以前よりも遙かに多くの道に迷うようになってしまった。

「いつか、やって来ましょう」

ふとシダの強く凛とした声が聞こえた。
ゼフィは手を少しだけ浮かせて、シダの顔をちらと垣間見る。

「いつまでも同じ状態にあるものは限られております。陽明と天深は、きっと分かり合えましょう」

どこか明後日の方向を見て、誰に話すでもなく告げられたシダの言葉は、いっそうゼフィの心を揺さぶった。
そうだ。ここで挫けている場合ではない。
せっかく長と言う国を変えることができる立場に立ったのだ。ここで弱気になっては、国ごと潰れてしまう。

涙が堰を切ったように溢れてきたので、すぐにまた両手で目蓋を押さえた。
ゼフィは涙声になりながらも、強く強く誓った。

「私が何とかする。きっと……絶対」
「頼もしゅうございます」

いつまでレアスを欺き続けられるだろうか。
いつかは自分が長と言う立場にあることを伝えなければならない時も、恐らくはやって来る。

窓の外では橙色の太陽が地平線にかかりつつあった。
そこでゼフィは最近レアスの姿を見ていないことに気付いた。早く彼に会っていろいろな話をしたいと思った。
複雑な想いが複雑に絡まりあって、この時、胸が張り裂けてしまいそうだった。













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06/07/17