天陽国  -02









いったい誰なのだろう。ゼフィは一瞬硬直してしまった身体に鞭打って正気を取り戻した。
目の前に立っている天深国の民と見られる若い男も、今はゼフィの姿に気付いたのか呆然とこちらを見ている。

ゼフィはすぐに現状を無理矢理丸呑みした。相手は同じ人間でも諍いの絶えない敵国の人間だ。
少しでも動いたらこちらも考えよう。万が一のため服に忍ばせてあった短刀の位置を、人差し指で軽く触れて確かめる。
相手に悟られないよう袖口から手中にするりと刀を落とすと、ゼフィは相手を鋭く一瞥した。

だがゼフィの予想とは裏腹に、天深国側の草地に立っている彼は何秒経過しようとも身動き一つすることがなかった。
そうしてどれくらい経ったのだろう。二人は長い間、ただ緊張を保ちながら黙って互いを見詰めていた。

「そんなに、怖い顔をしないでくれ」

最初に口を開いたのは、驚くことに天深国の男だった。
口元に薄ら微笑を浮かべて、こちらの態度がそんなに可笑しいのだろうか。

「お前が陽明国の者だと分かっている。だが俺はお前を殺す気はない、本当だ」

ゼフィはそれでも口を噤んだまま相手をじっと睨み付けた。
剣術を習っている影響なのか、自分でも気付かないうちに相手の行動パターンや仕草を観察していた。

彼の身に着けている服装や装飾は、ただの民にしては豪華すぎる。
腰には二本の長剣を帯びているようだ。装飾からして一本は名誉の証、もう一本は実戦用だろう。
そして、年齢は自分と同じか少し上くらいの青年。多分彼は天深国の兵かなにかだ。それも上の役職に就いているに違いない。

「俺がここで争いを起こして何になる?」
「……分かったわ」

ゼフィはまた彼に悟られないよう短剣を元の袖口に隠した。
ここにきたのが自分だけでよかった、と思う。連れを伴っていたら、すぐさま騒ぎ立てて一騒動に発展していたはずだ。

二つ目に助けられたのは、ここで出会ったのがどうやら戦を起こす気がないらしい男だと言うことだ。
どことなくやる気のない、それでも何か研ぎ澄まされたものを隠し持っているような彼の素振りは穏やかだった。
ゼフィはとりあえず緊張を解いてほっと胸を撫で下ろした。

しかしふと、彼の左胸に付けられていた勲章が目に留まった。
眩いほど金色の輝かしい装飾。それはゼフィまだ幼かった頃に見た、何かの話し合いをするために陽明国まで来た天深国の長の胸に付けられていたものと酷似していた。
もしかしたら、彼は―――。

「この場所に立ち入ったこと、申し訳ありませんでした。すぐに去ります」
「陽明国に?」

他にどこへ帰れと言うのだろうか。ゼフィの心内を読んだかのように彼は口を開いた。

「もしかしたら天深の民かと思ったが、違うらしいな」
「もちろんです。そこには国境がありますから」
「それもそうだ」

草地の真ん中に食い込んでいる太い木の杭は、今もなお二人の間を隔てるようにしてどっしりと居座っている。
それは同時に国境がそこにあるのだということをも如実に示している。

しかし今はそんなことなどどうでも良く、ゼフィとしては何としても、一刻も早くこの草地を去ってしまいたかった。
短刀しか持っていないという分の悪さもあるが、異国の人間と面と向かって会ってしまったと言う動揺もあった。
まさか敵対する天深国の者と直接会話をする羽目になるとは。心臓が今も不規則に鼓動している。

「レアス」
「……え?」

急に聞こえた意味不明な言葉に、ゼフィは思わず面食らった。
勢い伏せていた視線を上げた先の彼は苦笑していた。

「レアス、俺の名前だ」
「あ、そう……」

何故彼は自分の名前を教えたのだろうか。ゼフィは心の中で焦りと共に首を傾げた。
教えたところで自分にも彼にも何の利もないはずだ。
いや、もしかしたら向こうが「口封じのため」に何か要求をしてくるのかもしれない。

ゼフィは恐る恐るレアスの顔を伺ったが、そこで驚いて目を瞬いた。
レアスが不思議そうにこちらを見てきて初めて、ようやくゼフィは今の状況に気がついた。

「あ、ゼフィ……私の名前」
「じゃあゼフィ、その薬草は何に使うんだ?」

彼の言葉はきっと、ゼフィが手にしている篭の中に摘まれた薬草のことを指しているのだろう。

「病気の進行を遅くするの。私、持病あるから」
「……薬草?ああこれか。なら、手伝おうか」

ゼフィは今度こそ本当に驚いた。
まさか天深国の民からそんな言葉をかけられるとは、微塵の予想もしていなかった。

「もう十分。これ以上摘むとここの薬草自体が死んじゃうわ」

なんだか変だ。ゼフィはふと、あれ、と思った。
もし薬草を摘んだ手篭を手にしていなかったら、そっと胸に手を当ててこの異常を確かめようとしていただろう。
どくんどくんと、自分の心臓の拍動する音が耳にまで届くほど大きく聞こえてしまう。

会話の相手が争うこともある敵国の者だというのに、普通に接している自分の態度に対しての不思議さもある。
しかし何よりも変なのは、他ならぬ自分自身なのだ。
さっきからずっと心臓が高鳴ってしまってどうしようもない。こんな気持ちは生まれて初めてだった。













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06/07/08