ひっそりとしたある場所に、ある二つの小さな国があった。

その二つの国は名を「天深国」と「陽明国」と言う。
しかし両国の境界線は一部のところ曖昧で、二国の間にはどちらの国の領地とも言い切ることのできない土地があった。
そこは森のように草木が生い茂り自然豊かな場所で、毎年春になると多くの果実が宿り、何羽もの小鳥が自慢の歌声を披露した。

だが人々は滅多に自然豊かなその場所の土を踏むことはなかった。
それは「天深国」「陽明国」の両国がこの土地をめぐり、長期に渡ってそれぞれ領有権を主張していたからだった。

どんなに時を経とうとも変わらない。
彼女が長に就くその時まで、両国は決して相容れることはなかった。









天陽国  -01









ゼフィは、はあと一つ深い溜め息を付いた。
この場所に呼ばれた時点で薄らとそんなことを考えてはいたのだが、まさか本当だとは思わなかった。
のうのうとこの場所にきてしまった自分が愚かしい。できるものならば今すぐ逃げ出したい。

辺りには不気味なほど重苦しい雰囲気が漂っている。
そんな中で深く頭を垂れながら、ゼフィは心の中で嫌と言うほど悪態を付いた。

「天深国に新しい長が就任した以上、この陽明国も長を若い者にしなければならぬ」

跪くゼフィから見て何段もの段を経たその上には、数人の老人が豪華な装飾の施された椅子に腰かけていた。
だが彼らはただの老人ではない。陽明国の長の補助役となっている、国でも重要な位置にいる者たちだ。
この国で彼らは「相談役」と呼ばれ、長年培ってきた知識と見解を持ってして長に助言を与える、国民から尊敬される存在でもある。

ゼフィの国、陽民国はたかが小国とは言え、昔から長と相談役の繋がりには強いものがあった。
もちろんそんな彼らの言うことは「絶対」だ。彼らが何を言いたいのか、どうして自分がこの場に呼ばれたのかも既に頭では分かっている。
それでも尚もゼフィが往生際悪く黙り込んでいると、相談役のうちの一人である老父が重々しく口を開いた。

「次の長にお前以上の適任者はおらぬ。お前はこの国のどの男よりも腕が立つ。悲しいほどにな……」
「それはどうも」

頭上からわざとらしい啜り泣きが聞こえる。
どうせ懐柔しようとしているのだろう。ゼフィは眉をしかめながら、再度溜め息を漏らした。

「折角のお誘いで有難いのですが私は女です」
「なに、性別の一つや二つ、どうにかなる」
「ですが近隣諸国の手前もありますし、長が『女』は少々まずいかと」
「相談役全員一致だ。勿論今の長は齢六十七歳、彼もそろそろ引退を考える身でな」
「……だから」

ここでいつまでも呑気に話を続けてはいられない。相談役の決定に異論は無効だが、こちらとしても断る理由はざらにある。
ゼフィは相談役たちの言葉を無視して、すっと立ち上がった。
そのまま挨拶もせずにその場を下がって、背後の大きな両開きの構造になっている扉を開け放つ。

扉を開けた先には数人の近衛兵が警護に当たっていたが、ゼフィにとって彼らの存在など関係なかった。
彼らはゼフィの姿を認めるなり驚いたように目を見開いて、道を開けるため恐る恐る後退した。

剣術の腕が強すぎても考えものだ。
ゼフィはふとそんなことを考えて、自嘲気味に小さく笑った。

「ゼフィ、待ちなさい!まだ話は終わっておらぬ!」
「拒否よ拒否。私は長になんかなりません。他を当たって下さい」

相談役たちの必死に止めようとする声も聞かずに、ゼフィは捨て台詞を残してその重苦しい雰囲気の部屋を去った。
雰囲気が重苦しい部屋―――国民には会議室と呼ばれている―――があまりに暗かったせいで、辺りの風景が緑色のフィルターをかけて見た世界のように見えた。
長い廊下を進んだ先にある出入り口の扉を開けて空を仰ぐと、眩しい太陽の光が嫌と言うほど目に染みた。

さて、とゼフィはしかめっ面のまま振り返る。そこにはたった今出てきたばかりの荘厳な建物がそびえ立っていた。
だが荘厳と一口に言っても小国にあるような建物だ。その規模は大国に比べればちゃちなものだろう。
その象徴と言うべきか、建物の外では何人もの幼い子どもがこの青空の下で戯れている。

「あ、ゼフィお姉ちゃんだ」

遊んでいた子どもの一人がゼフィの存在に気付いて、いつものように笑顔全開で駆け寄ってきた。

「ゼフィお姉ちゃん、長になるの?」
「すごいすごい!いつ?いつになるの?」

前述の通り陽明国は小国だ。近所の人とはもちろん、一族のような結びつきが強いせいか、国中が家族みたいなものだった。
足元に駆け寄ってきた子どもたちとも、ゼフィはよく遊んだ記憶がある。

ゼフィは彼らの無邪気な言葉を受けて困ったように笑って誤魔化した。
小さい子供を騙すのは、どうも気が引けて仕方がない。

「えっとね、もうちょっと後かなあ」

しかしそう言った途端に背後に走った気配に、ゼフィは思わず目を剥いた。
素早く背後を振り返ると、建物の入り口にはさっきまで会議室の上段にいたはずの相談役たちがずらりと並んでいる。
彼らは少なくともとうに六十歳は越えている。それなのにこの追いつきの速さ、やはり侮れない。

今の彼らの表情はどれも感慨深い、何かをしみじみと思い返しているような表情である。
だがこの時になって初めてすべてが遅かったとゼフィは自覚した。さっきの一言が人生の落とし穴だったと気が付いた。

「ゼフィ、やはりやってくれるのか……!」
「さすが国一番の剣の使い手だけある」
「なんと頼もしいではないか。早速今夜、就任式を催そう。おい誰か、これを前の長に報せてくれ!」

まさか相談役が俊足の上に地獄耳だとは、一生の不覚だ。

「ちょ、何で勝手に……」
「ゼフィお姉ちゃんすごーい!」
「すごいすごーい!」

ゼフィは反論しようとして、しかしできなかった。
自分を取り囲んではしゃぐ子どもたちの嬉しそうな顔を見たとき、ゼフィは、ああだめだ、と思った。
どうしてこの笑顔を一瞬で壊すことができようか。とてもではないがこの時のゼフィにはできそうになかった。

もう後に引き戻せなくなってしまったことは明白だ。
ゼフィは背中になにか重い塊が覆い被さってきたかのように感じられて、がっくりと肩を落としたまま集団の中から抜け出てふらふらと歩き出した。
その行き先を察したのだろうか、相談役の一人がいきなり声を張り上げた。

「ゼフィ、あの場所に行くのは遠慮しなさいと言っただろう!」

だがたとえここで止められても今は一人になりたかった。
あの場所を危険地帯だと見るのは仕方がない。だが一人になれる場所はそこしかない。

「薬草なら使いの者が採りに行く。もしあの場所で天深の者に会ったらその腕で負かしてくるんだぞ!いいな!」

その場所はゼフィが国で一番剣術が長けていたから、だから行くことのできた場所なのかもしれない。
だがそれは恐らく偏見だ。恐怖を捨てれば、あれほど静かな場所は他にないのだ。

ゼフィは頭上に広がる青空を視界の隅に留めながら、次第に真正面に現れてきた木々の生い茂る中へと歩を進めた。
この向こうに、今も論争が続く誰のものでもない土地がある。







「まったく、これほど家を恨んだことはないわ……!」

葦で組まれた小さな篭の中に、次々に新芽の葉を摘んでは放り込んでいく。
ゼフィの怒りは頂点を通り越して呆れに達していたが、腸は未だにふつふつと煮えくり返っていた。

ゼフィはそうして緑の絨毯のように丈の低い草が生い茂る中で薬草を摘んでいた。
相談役たちから逃れてやってきたのは、ゼフィの国である陽民国と、隣国である天深国の間に位置する土地だった。

しかしここはどちらの領地とも言えない、曖昧な場所でもある。
天深国と陽明国の間にあるその緑豊かな土地は、ちょうど真ん中を二分割する形になって今は安定していた。
土地の中央部には人為的に丸くくり抜いたかのような開けた少し広い草地がある。両国はこの草地の真ん中に一本の木の杭を打ち込み、それを目印に二分割と決め、両国の対立を少しでも緩和させようとしていた。

だが一旦この場所が国政上の問題として上がると戦にまで発展することもある。
ゼフィが生まれる数十年前にも、領有権をめぐって何回か小規模な争いがあったらしい。

(天深国の長……ね)

どこから手に入れたのか、陽明国保有の機密情報によると天深国の新たな長はかなり若いと言う話だった。
一説では十八歳と聞いたのだが、それでは自分と同じ年齢だということになる。
それで長に採用されたのだろうかと考えると、なんだか上手い具合に嵌められた気さえする。

ゼフィの家は国で最も古くから伝わる剣術教室だった。
親の影響で幼い頃から剣を始めたゼフィは十二歳で親の腕を抜き、十八歳となった今では右に出るものはいない。
しかし幼い頃から剣術ばかりに打ち込んだ代償は大きかった。多大な努力と引き換えに手にした強さと言う称号、だが失ったものはそれだけではない。

ゼフィは仮の境界ギリギリの場所に自生している薬草を摘んでいきながら、困ったものだと考えた。
薬草は今週の薬を作るのに十分なほど摘み終えていた。手篭の中には濃い緑の葉が、木々の間から漏れる陽光を反射している。

週に一回薬草を煎じて飲まないと、呼吸器の不全で息ができなくなる。強さと引き換えに失ったものは健康な身体だった。
よく効くと言われている薬草は、分かっている限りでこの土地にしか生えていない。
よりによって天深国と争う可能性のある草地に自生しているとは皮肉なものだ。

ゼフィは薬草を摘むために、人目を忍んではこっそりと土地の草地に足を運んだ。
だが危険を冒してまで草地に行くのは薬草のためだけではなく、この場所が好きでもあったから。ただそれだけだ。

(長になんか、なれない……)

一国の長という立場は、今までただの小娘だった立場からすればあまりにも大きい。
国民全員をまとめなければならないのだ。そんな大役が務まる訳がない。

ゼフィはふうと軽く息を吐いて顔を上げた。
草地の周囲の大地には木々が真っ直ぐ所狭しと林立しているのに、草地に入ると木が一本も見受けられない。
丸くくり抜かれたような広いその場所からは、遙か彼方の天深国さえも見渡せそうだった。

頭上を仰ぐと木々の間から微かに顔を見せている青空が広がり、その間から数羽の小鳥が舞い降りてくる。
ゼフィはすっと片手を伸ばした。その手に太陽の光がまとわり付く。

思わずさっきまでの邪念を忘れて笑ってしまった。
こんな風景を知らないから、だからきっと両国は争ったままなのだ。
いつか相談役の誰かをこの場所に連れてこよう。ゼフィは長になってまず最初の目標を設定して頷いた。

しかし突然どこからか、かさ、と静謐を揺らす異常な音が響いてきたので驚いた。
それはどうやら境界線の向こう側の、天深国の領地から聞こえてきたようだった。例えるならばそれは、草を踏みしめる音。

ゼフィは驚いて顔を天深側に向けた。
天深国の領地に根付いている木々の間から色彩豊かな衣服がちらちらと垣間見える。

(運が悪い……)

今までこの草地では陽明、天深の誰とも出くわしたことがなかった。
それはなるべく問題を起こさないように、両国が戦を避けようとしてきた慣習からであろう。
だがゼフィは恐れも知らずに立ち入っている。もし相手国の人間に姿を見られてしまえば、もしかしたらまた戦になるかもしれない。

相手は天深国の民だ。通報されて戦になれば多くの犠牲が出る。
ことによっては、口封じのために手段を選ばないことになるかもしれない。右手が衣服の中に隠してある短刀に触れた。

そこまで考えてゼフィははっと我に返って首を横に振った。
できれば別の方法で和解したいと思う自分に、それでは無理だと冷酷に告げるもう一人の自分がいる。
その時だった。天深国の誰かは、ゼフィの考えをよそに驚くほどあっさりと木々の間から姿を現した。

瞬間、ゼフィは思考が止まったのかと思った。
瞳が無意識に見開かれて、まるで吸い寄せられたかのように境界線越しに現れた相手と視線が出会った。

それは男だった。まだ若い男が、境界線を越えた草地の向こうに立っていた。













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06/07/08