愛のシルベ









暦の上ではまだ九月だったが、あと少しで十月というところまでくれば夜の寒さは身に堪える。
そろそろ長袖を出してもいい頃かもしれないな。だいたいそんなことを考えながら、愛美はひっそりと静まり返っている夜の閑静な住宅街の道を、自分の家目指して進んだ。
コンクリートで綺麗に整備された道を歩くたびに、カツカツと硬い音を立てる自分のローファーの音だけが辺りに響く。

歩みを進めるたびに家々の玄関が見受けられる大通りは、今、自分以外誰も歩いていない。
先程にいたっても、恐らく自分と同じ年齢くらいの男子高校生一人とすれ違ったきりで、それ以来本当に誰とも出くわさないのだから気味が悪い。
どこからか湧き出てくる若干の恐怖が感じられなくもなかったが、もともとそれくらいの恐怖でビビる性質ではない。愛美は制服の袖をひらひらと揺らす夜風を肌で感じながら、いっそこの時間帯では軽快とも言える足並みで地面を蹴った。

だがなにも、好き好んでこうして夜の道を歩いているわけではなかった。
それに愛美はなにを隠そう今をときめく女子高校生なのだ。
教師からはことあるごとに「夜遅くに出歩かないこと」とか「怪しい場所には決して立ち寄らないこと」などの文句を飽きもせずに説かれる日々である。

「……まずいな」

腕時計をちらと見れば時刻はとっくに九時を回っていた。十時前には家に着くだろうが、どちらにしても遅い時間には変わりない。
帰ったら親になんと言われるか、想像しただけでも嫌になる。

親はどちらとも門限に関して神経質ではないのが救いだったが、やはり今日ばかりは誘いを断るべきだっただろうかと愛美は思案した。
久し振りに学校帰りに友人たちと遊んでしまって、気づいたらこんな時間になっていたのだ。
だがそれは本当に楽しかったし後悔することはないのだが、唯一気にかかるのはやはり親の反応だ。ここにきて初めて大激怒でもされたら笑い話どころでは済まない。きっと一生のトラウマになるだろう。

帰宅していると言うのになんだか気分が重くなってしまったように感じた愛美は、しかしふと、ぱっと顔を上げた。
愛美の前にはまだ大通りが真っ直ぐ続いていて、道路の両脇には相も変わらず似たような家々の玄関が連綿と並んでいる。
しかしそこにはさっきまではなかったはずの違和感があった。もっと咀嚼して言えば、誰かの気配がするのだ。愛美は少しだけ辺りを見回した。だが愛美が見る限りではどこにも人の影など見当たらない。

それでも愛美は歩く速度を落とすことはなかった。しかしそうしたことで、愛美は気づいた。
道の右側に建ち並ぶ住宅群の、今自分が歩いているところから数軒前の家と家の間から、「誰かがそこにいる」気配がする。

通りすぎるときにでもそれとなく覗いてみよう。
愛美が危機感もなくそう思ったのは、しかし愛美にとっては極普通のことだったし、今までにだって何度もそんなことを思いついてそうしたことはある。だから事実、それは当たり前の行動だった。
こんな遅い時間帯だからそこにいるのは柄の悪い人間かもしれないなどと言うようなことは、このときの愛美の脳裏には不思議と思い浮かばなかった。

そうしてそのままの調子で歩き続けた愛美は、すぐにその場所へ差しかかった。
「たまたま」ここを通りかかって「たまたま」見てしまった通行人を装うため、愛美は何食わぬ顔でちらと右を向いた。

家と家の間は、愛美が予想した通り人一人が優に入れるくらいの隙間しかない。両脇には洒落た家の塀があり、奥はどうやら袋小路になっているようだった。ようだった、としたのは、奥の方は街路灯の明かりも月の明かりも届かないらしく、暗く視界が利かないためである。
しかしよく目を凝らせば、そこには確かに「人」がいた。一番奥の暗くなっているところに上半身があるので、ぱっと見ではこちらに足がぽんと投げ出されているだけに見える。なんとも奇妙な光景だ。

愛美は少しだけ歩調を緩めた。
一瞬で目が慣れたのか、そこにいるのは一人の男だと言うことが分かった。いや、よく見ればまだ若い。自分と同年齢かそれか少し上か、それほど歳は違わないだろう。
どうしてこの時間に、それもこんな奥まった狭いところに彼がいるのかは知らなかったが、ただ一つだけ明らかだったのは、彼は何故か気だるそうに座り込んでいると言うことだった。
彼がしきりに肩で大きく息をする、その振動で、辛うじて袋小路に差し込んだ街路灯の明かりに彼の髪がちらちらと映っては消える。

酔っ払いか、それとも喧嘩にでも巻き込まれたか。
ようやくここで思い出したかのように危機感を覚えた愛美は、とりあえずこの場から去ろうと視線を外した。少なくとも、外そうとした。

(……嘘でしょ)

このときなにもかもを無視してしまえばよかったのだ。しかし愛美が彼から視線を逸らそうとした矢先、今まで見ていなかったところに目が行ってしまって、そこで愛美は絶句した。
彼の左肩からは、大量の血が流れ出て彼の黒っぽい上着を濡らしていた。彼は今、その左肩を右手で抑えて歯を食いしばっている。
その痛みに耐えようとしているためか、だから彼は大きく息をしていた。

まずい場面に出くわしてしまった。愛美は頭の中が真っ白になって冷えていくのが分かった。
もはやここまでくると危機感どころではない。逃げなくては。このままここにいては、"なにかまずいこと"がある――。
しかし、ちらりと、今までこちらにはまるで無関心だった彼の目がこちらを向いたのは、愛美が直感的にそう悟った瞬間だった。

「……あ」

黒の瞳だ。それも寒気を感じるくらい真っ黒い。
しかしこのときの愛美はそれどころではなかった。彼に気づかれてしまったと言うどうしようもない焦りが全身に広がっていく。

愛美は頭の中でわんわんと鳴り響く警鐘の音を聞きながら、彼に怪しまれないよう急いで口を開いた。それは万が一、彼が喧嘩をしていてこの結果だったとしたら、この光景を目撃してしまった自分も巻き込まれるかもしれないと思ったからである。
もっと分かりやすく例えると、彼に、「あア? 人様をじろじろと見てンじゃねえよ!」などと言われて手をあげられたらたまったものではない、と言うことだ。
それを回避するためには、善良な一般市民の皮を被っておくしかない。

「あ、あの、大丈夫……ですか?」

咄嗟に出した声は自分でも驚くくらい震えていた。
しかし彼がなにも言わずに眉間に皺を寄せたままこちらをじっと見てきたので、愛美は慌てて首を横に振った。

「あっ、いえ、ごめんなさい。なんでもないです」

それだけを捨て台詞のように言い残すと、愛美は足早にこの場を去ろうとした。
もともと話しかける前から危ないと感じていたのだ。少し善良、と言うよりはお人好しすぎたかもしれない。
しかしそうして愛美が素早く身体の向きを変えたとき、ちょっと、と背後から声をかけられた。愛美は途端にびくりと肩を震わせて、ゆっくりと振り返る。愛美が肩越しに振り向いた先では、彼は今やこちらに大きく身を乗り出していた。

「……お前、人間?」

だが殴られるとばかり思っていた愛美の耳にその一言が飛び込んできて、わけの分からなかった愛美は反射で閉じてしまった目蓋を持ち上げた。
愛美が改めて真っ直ぐ彼を見ると、彼は数秒前と変わらない体勢でこちらを見上げている。
もしかしたら彼は喧嘩の衝撃かなにかで頭がやられてしまったのだろうか。先程までの緊張感はどこへやら、愛美は口を半開きにしたまま目先の彼の姿を凝視した。

「俺が見えるのか? なあ、今見えてる?」

やばい人間に関わってしまった。愛美は、ああ、と額に手を当てるとうんざりと顔を曇らせた。

「なあ、見えるのか?」
「え? ああ、はい……」

彼があまりにしつこく聞いてきたので、つい投げやりな口調で答える。
すると、しん、と水を打ったかのような静寂が、瞬時に周囲の空間を支配した。

「……希少種」

愛美がその静寂に驚いてはっとすると、ふわ、と、まるで背に羽が生えたかのような動きで立ち上がった彼は、そのままの動きで愛美の頬に触れた。
彼の細く長い指が、つっと愛美の肌を滑る。触れられたところから、言葉では言い表せない冷たさを感じる。
彼の黒い瞳が食い入るように自分に向けられているのにも、悪い意味ではなく、ぞっとする。

「あ、あの」

まるで夢を見ているかのような感覚に襲われたので、愛美は咄嗟に身体の奥からなけなしの声を振り絞った。

「病院、行った方がいいんじゃないですか?」
「あ? 病院?」

彼が立ち上がって、完全に街路灯の明かりに照らされるようになって分かったことなのだが、彼は意外と背が高かった。
しかも今までの意味不明の言動を抜きにすれば、どこかの雑誌モデルに推薦してもいいのではないだろうかと思えるほどの容姿を備えていた。黒い猫毛の髪ときめ細かな肌は女の目から見ても羨ましい。
だからこそ、愛美は彼に触れられたときにいっそう夢見心地に陥っていた。

だが彼がいちいち口にする言葉の不明瞭さの残念なことと言ったらない。それさえなければ完璧に美少年で通っただろう。
それにまだ九月だと言うのに、彼は膝近くまである真っ黒なロングコートを着ていた。

「ああ、無理だぜ。だってこれ、毒抜きしなきゃ終わらないからな」

愛美の問いに、彼は素っ気なくそれだけを言うと左肩を押さえ直した。

「じゃあやっぱり早く病院に行った方が……」
「だから、『一般の』ところじゃ無理なんだって」

そこまで言った彼は、今気づいたかのようにはっと顔を上げると、しばらく愛美をじっと見つめた。

「それかここでお前が協力してくれるのなら俺的には結構、いや、かなりありがたいんだけど」

一瞬、なにを言われたのかが分からなくなって愛美は目を瞬く。

「……はっ?」
「お前の体格からして一気に四〇〇抜いたらまずそうだな。よくて一〇〇mlってところだな」
「……えっ?」
「あーこれだったら一人や二人、練習台を作っておくべきだったな。まだ俺、吸血したことないんだよー」
「ちょ、ちょっと待って!」

愛美は両手を突き出して彼から一歩後退した。本能が、こいつには近寄るなと告げている。

「さ、さっきから、あんたなに言って……」
「人間の血を入れればこの怪我は治る。……ああ、知ってるか? お前らの血って俺にとっては良薬なんだぜ。それもとびきりのな」

残念な美形と言う表現はもはや撤回だ。彼は危険人物、それも最上級の要注意人物に当てはまるに違いない。
愛美はぐっと学生鞄を握り締めて、すぐさま逃げる準備に取りかかった。

「と言うわけで、お前の血くれないか?」

しかし逃げ出そうとする愛美の心情を知ってか知らずか、彼の腕が伸びてきて肩をがっしりと掴まれる。
だが愛美はここで恐怖を感じるよりも、何故か彼のその言葉に腹が立って、いの一番に声を張り上げていた。

「だから! なんでそうなるのよ!」
「俺が吸血鬼だから」
「相変わらずわけの分からないことばかり言ってるんじゃないわよ! そろそろ目え覚ましたらどうなの!?」
「いや、覚めてる。まったく覚めてる」

すっ、と彼の手が眼前に突き出されて、このとき分別なく憤っていた愛美は突然のことに驚いたあまり次に言おうとしていたことを飲み込んだ。

「いいか? 俺は正気。信じる信じないはお前の自由だけど」

彼の黒の瞳が、今は妙な真剣味を帯びてこちらを向いている。それがどことなく寂しげに見えるのは幻視だろうか。
普段からこうして落ち着いて行動していれば普通の美少年に見えるものを。場の空気を無視してそこまで考えた愛美は、ひとまず落ち着こうと一回深呼吸をした。それから、ゆっくりと彼が言っていたことを思い返す。

「……吸血鬼?」

愛美のぼそりとした呟きに、そう、と言って彼はすぐに頷く。

「ま、ただお前から血をもらえばいいってわけじゃないんだけどな。やっぱり『契約』ありきだ。知らないって言うんなら教えてやるけど」

吸血鬼という単語もまだ信じられないと言うのに「契約」だなんて、さらに未知の領域に属するであろう言葉の意味など知りたくもない。
愛美は思わずそう口に出そうとしたが、またも彼の言葉に遮られた。

「で、協力してくれるのか?」
「なんでそうなるのよ!」
「なんで、ってそりゃ、お前が希少種だからに決まってるだろ。こんな他の野郎に狙われそうな逸材、みすみす見逃せるかっての」

彼の発言の中になにか聞き覚えのない単語が混じっていた気がして、愛美は聞き終わってから数秒を挟んで、恐る恐る聞き返した。

「私が、なんですって……?」
「希少種」

当然、とでも言わんばかりの彼の口調に、愛美はまたもや苛立ちを覚え始める。
さっきから支離滅裂なことをつらつらと、もう一発その頭に衝撃でも与えれば戻るだろうか。愛美はじっと、鋭い目つきで彼の顔を睨めつけた。
だがどうやらゴーイング・マイ・ウェイを突っ走って止まらないらしい彼は、愛美の反応などお構いなしに安堵の表情を浮かべると、ぺらぺらと喋り出した。

「いやーここで行き倒れていて正解だったな。お前、俺の姿が今も見えてるんだろ? それって極一部の人間だけなんだぜ。ああ、こんな最高なパートナーが見つかるなんて、やっぱり俺の日頃の行いの賜って気がするよな! そうだ、そう言えば俺の名前、ロイ。ロイ・フォン・ヴィターハウゼン。って言っても覚えられないだろ? だから単に"ロイ"のままでいいから。お前の名前は?」
「え? ええと、鈴原愛美――じゃ、ないわよ!」

雰囲気に流されて自分の名を明かしてしまったのが悔しくて、愛美は肩にかかっていた彼の手を乱暴に振り払った。
とりあえず、自分ではこのロイと名乗った男の相手はし切れない。

「分かった、分かったわ。とりあえず病院に行きましょう。それも精神科があるところがいいわね。あ、でもこんな夜だからやってないか……。でも緊急だからこの際内科でも外科でもいいわよね。そうね、そうするべきだわ」
「愛美、お前……頭イッてんのか?」

頭のネジが吹っ飛んでいるのはどっちだよ。
ひくひくと頬を痙攣させながら、そろそろ本気で怒った方がロイのためにもなるのかもしれないと思い始めた愛美だったが、しかしそうはできなかった。

ズガン、と、静寂の中にあった住宅街に突如、それはそれは凄まじい音が響き渡る。
愛美が驚いて背後を振り返ると、数メートル先のコンクリートで敷きつめられた道の上には、鈍く銀色に光る十字のものが突き刺さっていた。それは大人一人以上の背丈があり、あちこちにごてごての装飾が施されている。

(あれ、コンクリートってあんなに脆かったっけ……)

ふっと笑みを零してから、これは夢ではないかと思った愛美だったが、何度目をこすってみても華奢な外形をした十字は地面に突き刺さったままだ。
そして遅ればせながら気づいたのだが、十字の傍にはそれを支えるようにして一人の人間が立っていた。

「……やっと見つけたよ、吸血鬼」

白いワイシャツと紺のスラックスから、どうやらどこかの男子学生らしいことが窺える。
ロイとはまるで正反対の明るい色をした髪が、ふわりふわりと夜風にたゆたう。見方を変えれば金髪のようにも見えた。
だがその珍しい容姿でありながら、鎌首をもたげるようにしてこちらを見据える明るい髪の彼の目はひどく冷酷で、いっそ背筋の下から上までが一気に凍りつくのではないかと疑ってしまう程だった。

見れば見るほど知る由もない少年だ。しかし、愛美は彼を知っていた。
それはつい先程、誰もいない夜道で愛美が唯一すれ違った男子高校生その人であったからだ。

「手間、取らせないでくれよ。こっちだって忙しいんだ」

しかしあのときは、彼はこんな巨大な銀色の十字など手にしていなかったはずだ。
吸血鬼と言い、銀の十字を手に突然現れた男子高校生と言い、今夜はいったいなにが起こっているのか。ロイも意味不明のことを言っていたと思ったら、明るい髪の彼も同じくわけの分からないことを言っている。
これは夢なのか、それともまさかとは思うが、夢ではないのか。愛美はややあってから混乱する頭を抱えた。

「言い忘れてたけどな、俺ら吸血鬼には昔から忌々しいお友達がいるんだよ。俺らの血筋が途絶えればいいと思ってる、なんとも一途なお友達だ」

後ろからロイにぐいと腕を引かれて少しよろけた愛美は、背後に待ち構えていたロイ自身によって支えられた。
そこで計画されていたかのように、ロイがそっと顔を寄せて小声で耳打ちする。

「……けど愛美、お前の血さえあればこいつから『今すぐ』逃げられる。俺はまだ生きられる。この怪我が治るだけじゃない、一石二鳥だ」

彼の甘い誘惑の言葉がぐるぐると頭の中で巡り回る。しかし愛美はなにも答えられなかった。
なにが正しくてなにが間違っているのかさえも分からない。ロイと、目の前にいる明るい髪の彼との関係は強引に理解できたが、ゆえにどちらについた方が「正解」なのかまでは読み取ることができない。

しかし今までの流れから考えるに、ロイは吸血鬼でしかもどうやら追われている身だ。
ならばここでロイの誘いを断る方が賢明と言えるだろう。少なくとも追われる身に加担すれば、無関係の自分であっても巻き込まれることくらい、このお粗末な脳味噌でも容易に予想できる。ここで断らなければもっとひどい目に遭うに相違ないと言う確信はある。
それなのに、どうしてか彼のこの腕が振り解けない。ロイが掴む場所がじんわりと温かい、その温もりを何故か手放したくないと思ってしまう。

「愛美、協力してくれないか?」

最後、ロイにそう耳元で囁かれて、ぞわりと全身に鳥肌が立った。
ああもう。愛美はかっと熱くなってしまった頭で、自分の愚かさに対して知り得る限りの毒を吐いた。
こんなやり方で了承しない人間がどこにいるのか、いたら是非ともこのシチュエーションでの断り方をご教授願いたいほどだ!













過去連載小説「愛のシルベ(2006/12/05〜2008/01/01)」リメイク


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2009/10/30