残り香









それはまるで世界ががわりと変わってしまったかのような衝撃だった。
懐かしい匂い、忘れることのできない感覚、そしてなによりも彼女がこちらを振り返り微笑んだとき、今自分が立っているこの大地が数世紀前に遡ったのかと勘違いしてしまうほどの激しい錯覚に囚われたのだ。
本当に一瞬だけ、生前のようにみずみずしい身体を伴っているかのような気持ちになった。そのあまりの懐かしさに、リーネはいっそ涙さえ感じられそうだった。

彼女があの人でないと言うのならその証拠が欲しいと思った。
けれど彼女がややあって口を開いたとき、リーネは遅れ馳せながら思い知った。
ああ、彼女は、この時代は、自分が強く郷愁を感じるものとはまったく別の、それも遠く離れたところにあるものなのだと。
けれどああやってただ佇んでいるだけならば、彼女の身に纏う雰囲気は実に自分のよく知る人物と似ていた。似すぎていた。

――母様。

そう叫んで、あの胸に飛び込むことができればどれだけよかったことだろう。
馬鹿なことを想像していると、それくらい自分でも痛いほど分かっている。
けれどそうやって呼びかけたとき、ひょっとしたら彼女は認識できるはずのない自分の声に反応してくれるのではないかと、一瞬困った顔をしてみせるけれど、それからすぐに、仕方ないわね、とでも言いたげな表情で腕を大きく広げてくれるのではないかと言う気がした。
そうしてそのままあの優しい柔和な微笑みで、懐かしい響きで、いっそこの名を呼んでくれるのではないかと。

――母様。

置いてきてしまってごめんなさい。
あの広いお城に、一人だけ残してきてしまってごめんなさい。
一人っきりで寂しかったでしょう。心細かったでしょう。
だってあのお城はとても大きいのに冷たいんですもの。大勢でいる分には構わないのだけれど、一人で住むのには気が狂ってしまいそうなんですもの。

目蓋を閉じれば、自分と同じく、どことなくくすみがかった銀色が雪のカーテンの向こうでちらちらと映っては消えていく。
広い銀盤の上に真っ直ぐ立ちながらこちらを見つめる彼女の瞳は、どことなく儚げだ。
あのとき嫌だと言えばよかった。不思議とそれまで駄々を捏ねたことはなかったけれど、気まぐれにでも首を横に振っていればよかった。

――母、様……。

飛び込みたい。胸に縋りつきたい。

――母様、私……。

ずっと後悔してきた。
数世紀前に記憶を取り戻してからと言うもの、この世界で取り残されたように自分だけが生き続けていることが理不尽でしかたなかった。
けれど音色の背中越しに彼女の姿を見たとき、音色が自分の後世として転生したように彼女もまた生まれ変わることができたのだとなぜだか自然とそんな考えが湧き出てきた。

今度は別の人のところへ。別の系譜を持つ、前よりも幸せな人のところへ。
リーネはそのときどうしてか、よかった、と、思った。悲しいのかそれとも嬉しいのか感情ははっきりしなかったけれど、胸がぐっと苦しくなってじんわりと熱いものを目頭に感じてはじめて、それまで胸にわだかまっていた悔恨が薄くなった。
よかった。今度こそ、あの人は幸せになれる。
この手からは零れてしまったけれど、それで済むのならなにを躊躇うことがあるのだろう。

それでも時折うしろめたいようなずうずうしいような、少し惜しい感じがするのだ。
自分勝手で贅沢な願いだと自覚している。それでもいざ目の前に来られたら、求めずにはいられない。
過去に失くしたはずのものが再び手の届くところに現れたのだ。この状況で耐えることができる聖人染みた人など、この世界中探してもきっとどこにもいないだろう。
だから願う。報われないことと知っていても、どうしても願ってしまう。

もう一度、もう一度でいいの。
本当の本当よ。それだけだから。他にどんな我儘も言わないから。

だからあと一回だけ、この馬鹿で愚かなあなたの娘の名前を呼んでくれませんか。母様。













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2011/06/09