マイ・ディア 他校の男子生徒に絡まれるのは滅多なことでもなかった。 いや、今通う中学校でも毎月何通かの白い封筒が自分の下駄箱に入っていたりする。漫画通りの展開に本当に笑えない。 他人と何ら変わりなく普通に普通に登校して授業を受けて帰っているだけなのに。 だから中学に進学して、心機一転と言わんばかりにそれまで伸ばし続けていた髪をばっさり切ってショートにした。これなら本当に好きだと言ってくれる人が現れるかもしれない。心から好きだと言ってくれる人が分かるのかもしれない。 けれど結果は変わらなかった。神様は不公平だ。 もっと他へ、例えばそう、親友である音色なんか男受けが良さそうなものだが。 しかし音色はその点に関してはことごとく疎い。きっと将来の彼氏は強引にアプローチしなければ音色は到底気付かないだろう。 「―――ね、聞いてる?」 雫は呼び止められたこともそっちのけで、いつの間にかそんな他愛も無いことを考えていた。 目の前の見知らぬ男子生徒は不思議そうにこちらを見ている。 呼び止められた内容を思い出して、雫はすぐに否定の証に首を横に振った。 「結構です。興味無いから」 雫は咲が丘中学校の校門を出てすぐ、一度も会ったことの無い見知らぬ男子学生に呼び止められていた。 今までの経験が告げている。彼は決して道を尋ねようとしているのではない。 既に中学二年生の冬を迎えていた。もうすぐで進級する、そんな矢先でも同じこと。 見たこともないどこかの中学校の男子生徒に絡まれた。と言うより、よくも初見で女をナンパしようなどと思えるものだ。 ええと今年はこれで何回目だったか、いや、去年よりは少なくなったはず。 「ちょっと遊ぶだけだって。そんなに時間ないの?」 「まったく忙しい。ごめんなさい、急いでるの」 あまりのしつこさにいつもより冷たく突き放しているというのに、これでも相手は引き下がらない。 雫はむっとあからさまに顔を顰めた。 (どうやって断ろう……) ましてや隣にはいつも一緒に帰る筈の音色がいなかった。大抵自分一人の時に誘われることが多い。 雫は心の中でチッと小さく舌打ちをする。いい加減帰りたい、男子生徒一人を相手に自分は何をやっているのか。 逡巡する雫に痺れを切らしたのか、男子生徒はいきなりぐっと雫の腕を掴んだ。 「いいじゃん少しくらい、ね!」 ぞわり、と肌が粟立つ。 触らないで欲しい。早く、腕を掴むその手を離して欲しい。 誰かに言われなくてもすぐに雫はその手を振り解こうとした。だが相手の力が強すぎて半ば強引に引き摺られる形になる。 雫は焦った気持ちで周囲を仰いだ。助けて、と周りに助けを求めようとした。だがすぐに、言おうとした言葉を飲み込んだ。 言うより先に視界が辺りの風景を捉えて、そこに助けてくれる人などいないのだと示唆する。 校門前の咲が丘中学校の生徒は皆一様にこちらを見て気の毒そうな顔をして顔を背ける。ただ何も見なかったという素振りで去っていく。 ぶちんとどこかの毛細血管の切れる音がした。 これなら何をしたって同じだ。あの嫌な視線は今も、そしてこの後も変わらないだろう。それなら大声を出して目の前の見知らぬ男子生徒を追い出した方が適当と言えないだろうか。 (……仕方ない、か) 雫はとにかくなにかを叫ぼうとして口を開いた。 「はいはーい。何か揉め事?」 大声を出して撒こうとして大きく口を開きかけたその時、不意に自分の横に誰かがいることに気が付いた。 いや、さっきまでそこには誰もいなかった。とするとまさに今来たのだろう。 (誰だっけ?) 人懐こくて屈託のない笑顔。黒の学生服と校章からして、同じ咲が丘中学校の学生だ。 あれ、と思った。以前どこかで彼を見かけたような気がした。 記憶の隅に眠っている彼にまつわる記憶を引っ張り出す。 クラスは違うが、学校でたまに見かける同じ学年の男子生徒だろう、恐らく。 名前は―――ああ駄目だ、思い出せない。一学年に五クラスもあると名前を覚えるのに苦労する。 「……な、何だお前!?」 「俺?いやまあここの生徒」 「そうじゃなくて、なんで赤の他人のお前が出張ってくるんだよ!」 なんだか当事者である自分が思い切り蚊帳の外だ。 「いいね、これからデートですか?」 「はあ!?本当にお前なんなの!?」 「……デートって訳じゃ、無いんだけど」 ぼそり、と小さく呟く。 視線を感じて少しだけ顔を上げると、助けてくれているのかさっぱり分からない彼に見られた気がした。 「ふーん……。ね、あんたデートに当たって彼女の承諾得た?え、貰ってない?駄目だよOK貰わないと」 「うるせえよ!お前には関係ねえだろ!」 「あ、ヤベ。これから『俺ら』行くトコあるんだった。じゃ失礼!」 俺ら、という言葉になにかの引っ掛かりを感じて首を傾げる。すると急に強く腕を掴まれて前方へぐんと勢いよく引かれた。 スピードを出して走り出したらそのまま、止まらない。 「さってと、なあ今日はどこに行くんだっけ!」 背後から、チッと小さく舌打ちする音が聞こえる。 いま自分の腕を掴んで先頭を走っているのは紛れもない彼、名前の知らない同級生だ。 助けてくれた?まさかでも……本当に? 雫はどくんどくんと奇妙に高鳴る心臓を把握しながら、恐る恐る肩越しに後ろを振り返った。 ナンパしてきた他校の男子生徒の姿は既に路上から消えていた。 「ここまでくれば、さすがに諦めたよな……」 今まで腕を掴んで先を走っていた彼が同じく後ろを振り返ると同時に二人はようやく立ち止まる。 辺りには学校帰りの普通の住宅街が広がっている。 「あ、こっちの道来ちゃったけど。家どこ?もしかして反対方向だったり?」 「ううん。こっちだから平気」 「あーよかったー。本気でビビったー」 さっきの言葉の真意は無いのだとでも言うように、彼はちらりと腕時計を見る。 雫は思い切って口を開いた。 「あ、ありがとう」 「え?ああさっきの?いいって別に。人助けはしなくちゃってウチの家訓!」 驚いた、と言うか拍子抜けした。 なんと言うかもっとこう、自分に対する男子生徒の態度は媚びていたような。彼のこの態度が不思議なくらいだ。 「じゃな。最近痴漢多いんだから気を付けろよー!」 「ちょ、ちょっと!」 「なに?」 気付けばそのままさらりと帰宅しようとする彼を思わず呼び止めていた。あれ、何故呼び止めたりなんかしたのだろう。 極普通に振り返る彼に、またも雫は呆気にとられてしまった。 「……あ、ありがと」 「おいおい。二度も言われるほど大したことなんかしてないって」 そう言って彼は何がそんなに可笑しかったのか腹を抱えてげらげら笑った。 こっちこそ何故それほどまで笑われるのかが分からなくて、つられてぷっと吹き出す。 彼といる時間はとても気持ちいいものだった。 今までとは違う。きちんと自分を見てくれている、彼の瞳に自分の姿すべてが映っている。 楽しくて楽しくて、それからよく帰り道が一緒になった時に話しかけた。そんな彼とのやりとりを音色は苦笑しながら聞いてくれた。 それから―――いったいどれくらいの時が過ぎたのだろう。 何週間か経って、いつも隣に彼がいるようになったのは、今思えば必然的だった気がする。 「え、いつ最初に雫を見たのか?」 「いつなの?まさか、あの校門の時が初見じゃないでしょうね?」 朝のHRが終わってすぐに、雫はそれとなく名前の知らない同級生、今は三年五組の教室で一緒に授業を受ける光之に訊いた。 まさかあの時の出会いから彼が自分の彼氏になるとは。これこそ考えもしなかった。 しかも彼の名前を知ったのは今年度のクラス替えで同じクラスになってようやくだ。 遅いにも程があると思ったが、別になんら不自由ではなかったし。 身を乗り出して詰め寄る雫に、焦る風でもなく光之は腕組みしながらうーんと唸った。 そして光之は明後日の方を漠然と見詰めながら、 「……さあ?」 BACK 06/05/04 |