第三章  -11









それはまるで二日や三日を強引に詰め込んでしまったかのような一日だった。
人々の喧騒は風に乗って去ったかのごとく、数時間前までは球技大会であれやこれやと騒がしかった校舎は今や静かに落ち着いている。

夏が本番になってきたからであろうか。そろそろ午後五時くらいなのだが辺りはまだ明るい。
夕日が周囲の風景を橙色に染め上げる時刻にはまだ程遠く、教室や廊下などの窓辺から差し込む陽光も少し強い。
そんな夏の匂いがする閑散とした廊下をいつも通りの歩調で歩いていた音色は、ふと顔を上げて辺りを見回した。そのとき、生徒の一人が音色を追い越して昇降口の方へと駆けて行った。

校舎内を通り抜けていた風の強さというか向きというかが、音色にはたった今のこの瞬間だけ変わったように思えた。
そして同時に、以前にもこれと似たようなことを経験したような気がした。が、気のせいだろうとだけすぐに思った。

恐らく風の力を持っていることに敏感になりすぎているのだ。だからちょっとした風の変化にも、あれ、と勘繰ってしまうに違いない。
音色はそう結論付けるとそのまま廊下を歩き続けた。
風は窓の外で相変わらず木々の葉を揺らし続けている。平気だ、いつもとなんら変わりない。

(……気のせい、だよね?)

それでもなにか引っ掛かるものを感じたが、このあとは日和の家に本を調べに行かなくてはならなかった。音色がこうして雫とも別れて一人で校舎を歩いているのはそういうわけだった。
昇降口に着いた音色は下駄箱からローファーと運動靴を引っ張り出すと、運動靴の方は適当な袋に押し込んだ。

もちろん日和と一緒に下校したそのまま家に行くという方法もあったにはあった。だが今は、なぜか日和と帰りたくなかった。
「帰りたくない」というと語弊がありそうだが、要するに日和と一緒にいると他人になにか勘違いされそうで、それが原因で日和に迷惑をかけるのが嫌だったからである。一緒に帰るなんてもっての外だ。

そんなわけで、日和には少し悪いような気もしたが、用事があるからといって彼には先に帰ってもらっていた。
それに日和の家には本を探すためにこれまで数回だけだが行っており、道順は分からなくもないのだ。
放課後の風が気持ちよく頬を撫でる中を、昇降口を出てからも校門を抜けてからも、音色は真っ直ぐに緑木家へと向かって歩き始めた。

そうして長い距離を歩き、ようやく緑木家の身長の倍以上もある黒い門が見えてきたと思ったとき、音色は門柱の前に人影があることに気が付いた。
いつもならこの閑静で広大な豪邸の前に、通り過ぎる人を除けば滅多に人の姿は見られない。もしかしたら客だろうか。

音色は小首を傾げながらも、それが誰であるのかを近付いて初めてやっと理解した。
門柱の前に立っていたのは他の誰でもない日和本人だった。
なぜ日和が門の前にいるのだろう。そう思うより早く、日和に近付いた音色の口は勝手に開いて言葉が自然に出てくる。

「え、あ、おはよう……」
「お早う」

言ってしまってから、「おはよう」は少し時間を間違えたと思った。
日和もそのことに気付いたらしく、しかし彼は苦笑しながら返してくれた。

「え……っと、もしかして日和、ずっとここにいた?」

まさかと思いながらも音色がそう問うと、門を開けるためにインターホンに向かってなにかを言っていた日和はこちらを振り返り、なんでもないという顔で答える。

「んー、ずっと、ではないけど。また門を開けるのもなんか面倒だったからさ」
「わ、ごめん!」
「いや。そんなに重大なことじゃないから、大丈夫」

微笑みながら優しくそう言ってくれる日和に、罪悪感を覚えると共にほっとする。
これがもしサーンだったらどうなっていたことか。そう考えて音色は嫌な汗を背中に感じた。
目の前で独りでに開く門の中へ入っていく日和の後ろ姿を眺めながら、サーンの後世なのにこれっぽちも似ていない彼の性格を不思議に思った。

それを言うと自分もリーネのあの美しさや気品を受け継いでいないのが疑問符のつくところではある。
そうやって色々考えながら日和の後について門の中へ入った音色に、日和はそれとなく喋りだした。

「それにしても咲が丘って、結構体育会系が多いんだな」
「え、そう?」
「前の学校は球技大会であんなには盛り上がらなかったから、余計にそう思うのかもしれないんだけど」

日和が前の学校について話すのがなんだか珍しいな、とこのとき音色は思った。
そう言えば日和はこれまで前の生活のことをあまり口にしていない。だが恐らく、日和の前の学校は自分の想像を上回る私立なんだろうなとだけ思った。
彼は名家のご子息様なのだ。どんな凡人にだって、彼はそれなりの学校に通っていたのだろうという大体の予想はつく。

「でも結局優勝しなかったしね、うちのクラス。総合五位っていう、どっちつかずの順位だし」
「俺は楽しかったよ。ま、あと心配なのは……文化祭だけど」

日和のその言葉の語尾に不安というか、疲れみたいなものが見えた気がした音色は、思わず苦笑した。
確か日和は文化祭で演劇の王子役に大抜擢されていただろうか。周囲に強引に決められた彼が不憫であるような気もしたが、意外に似合うのではないかと言う期待から、音色は日和のその姿を一目見てみたくもあった。
演目は何であれ、きっと日和は王子役を難なくこなすのだろう。そしてそれがサーンに見えてしまうに違いない。そう考えると、なんだか本当に楽しみになってきた。

そうしててんでんにてんでんなことを考えながら、邸宅へ向かって伸びる白い砂利の道を音色と日和は並んで歩き続けた。
あ、噴水、今日もきれいだ。数メートル離れた場所に大きな噴水を見つけた音色はそんなことを考えたりもした。

その日もいつもと同じ一日であるはずだった。
東から昇った日が西へ沈んでいく、そういう風に今日という日も始まり終わっていくのだと、てっきりそうだとばかり思っていた。
しかし今まで目にしていた噴水の水飛沫がいきなり写真のようにぴたりと止まったとき、音色は一瞬自分がおかしくなったのかと思ったあまり立ち止まってしまった。

「な……っ」

噴水に端を発した変化は、瞬く間に空間そのものが凍りついていくような大きな変化へと変わった。
音色は驚いて辺りを見回す。するとそれまで動いていた木や花や鳥も次々に動きを止めていくのが分かった。

風にそよぐ木々は風にそよいだまま。なにもかもが一瞬を永遠にした形で留まる。
いったいこの瞬間になにが起きているのかが、まったく分からない。次第にこれは現実なのか夢なのかさえも分からなくなった。

「……言い忘れていたことがある」

しかし音色が動揺し始めたとき、傍から冷静な声が聞こえてきたのでこれは夢ではなく現実なのだと分かった。
音色が咄嗟に隣を向くと、なぜかこの変化に驚くことも流されることもなく顔を伏せている日和がいた。

「恐らく俺たちは、時間を止めることができるんだ」
「え?」

急だということもあるのか、日和の言わんとしていることが飲み込めない。それでも日和は続けた。

「それが神の力によるものなのかは分からない。でも止められるんだ。止めようと思うだけでいい。それだけで時は簡単に止まる」

周囲の風景が止まっていく。まるで一気に瞬間冷凍したみたいな、そんな呆気なさで。
音色は日和の言葉を理解しようと努めた。しかし理解しようとすればするほど彼の言葉の意味するものそれ自体が分からなくなっていく。

「つまり、俺たちは時間を無視できるんだ」

一拍置いて紡がれた言葉と同時にこちらを向いた日和の視線が、真剣を通り越して絶望に変わっていた。
音色はそんな日和の顔を見つめて、言いようもない不安が全身から湧き上がってくるのを感じた。
心の奥がざわざわと波立つ。と同時に、そうだ、だから変だと思ったのだと音色はようやく理解した。

自分たちが時間を操り無視できると言うことはつまり、同じく神の力を持つ空也や、まだ会ったことのないサラの生まれ変わりである宵宮泉という人間にも可能だということだ。
音色は時間を止めているという自覚はない。それはもちろん日和も同じことだろう。
それではこの状況は誰がつくりだしたのか。そう考えたとき、答えがほぼ一つに決まった。

あれは単なる自分の思い込みではなかったのだ。
空也と初めて出会ったとき、風は警告をしてくれた、それと同じなのだ。校舎で感じた変化はただの風向きの変化とかそういう自然的なものではなくて、ちゃんと意味が含まれていたのだ。
きっと、あれは―――。

「おいおい。本当に教えてなかったのかよ」

背後から突然呆れたような低い声が聞こえてきたのは、音色がなにかを掴みかけたまさにその時だった。
音色は反射的に振り返る。しかしそこに人の姿は見当たらず、目に入るものと言ったら緑木家の大きな洋風の黒い門だけだ。
どんなに辺りを見回しても、静止した景色を背景にして隣に立つ日和以外誰もいない。

「だから言っただろ、音色。俺の方がこの力について多く教えてやれるって」

再び頭上から降るようにして聞こえてきた声に音色は視線を上げて、そこで見付けた。
自分は今まで見当違いな場所を探していたのだと思い知った。

彼にとっても身長の倍以上はあるというのに、それでも彼は少しも臆することなく黒い門の細い枠部分に自然体で立っている。
クリーム色の制服は初めて会ったときと同じかそれ以上に着崩されていて、こちらを見下ろす黒の双眸もまったく変わっていない。
黒い門の上に立っていたのは、空也だった。













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06/08/13