そのあと?ああ、なにもありません。
日和は単に私の眩暈を心配してくれたのであって、それ以上はありません。
今日は特別に暑いねとか、この温暖化が進んでいる原因はどこにあるんだろうとか、だいたいそんなことを話しながら体育館まで戻っただけです。

前世に甘える自分を、私は許したくもないし許すつもりさえ毛頭ありません。
彼との繋がりは前世だけで十分です。









第三章  -10









「……あれ?」

一歩先を歩いていた日和が、体育館を覗くと同時に怪訝な声を出して足を止めた。
いったいなにがあったのだろう。少し遅れて音色も日和の横に追いつくと、彼の見ている方角に目をやった。

午前に覗いた時に熱気が溢れていた体育館は、今は片面のコートだけ試合が行われていない。
日和の呆気にとられたような表情からして、恐らく自分たちのクラスは試合が休止されている方のコートなのだろう。

「え?試合、終わってる?」
「いや。多分中断されているんだと思う」

試合が休止されている方のコートの得点ボードは、わずかに自分たちのクラスが負けてはいるが結構な接戦だった。
たしか光之は、今対戦している相手は体育会系が多いクラスだと言っていた。理由はそれでほぼ間違いないだろう。

音色はもっとコート内の状況を見ようと身を乗り出す。
中断と言うことは、もしかしたら日和が抜けてきたためにそうなったのだろうか。だとしたら自分の所為である、申し訳ない。
するとこちらに気付いたのか、休止中のコートの脇にいた選手の一人がぱっと振り向いた。見る見るうちにその顔は喜色へと変わっていく。

「日和!日和だ日和!帰ってきたぞ救世主!!」

こちらに振り向いて大声を上げた選手は、光之だった。
声を張り上げながら駆け出す光之に、今までどことなく心配そうに顔を曇らせていた音色たちのクラスの面子も期待の眼差しと共に一斉にこちらを向いた。

「ミツ、うるさい」
「そっちこそふらっと消えるなよー。危うく不戦敗の危機だったんだからな!」
「試合、止まってないか?」
「そうそう。今スタメンの一人が鼻血出して倒れてさ、ちょうど控えの選手がいなくて困ってたんだよ。ほれ、日和行くぞ!」

光之は半ば強引に日和の腕を掴むと、駆け寄って来た時と変わらぬ勢いで駆け出した。

「おーい審判、メンバーチェンジー!」

コートの周りに集まっていた観衆から、恐らくは日和が出るとあってのことだろう、大きな歓声が上がった。
その中に、気のせいか自分たちのクラスや対戦相手のクラス以外の人間も紛れているように思えるのは自分の幻視だろうか。

光之に引きずられていく日和の背中を追う音色の横に誰かが寄ってきたのは、日和が連れ去られてからすぐのことだった。
その誰かは、未だに体育館の入り口で突っ立っていた音色の肩を躊躇いがちにぽんと叩く。
音色が気付いて振り返ったそこには雫が立っていた。いつも冷静な雫にしては珍しく、可憐な笑みはその美しい顔から消えていた。

「音色……もう平気なの?」
「あ、うん」

音色がなんの躊躇いもなくそう答えると、雫はへなへなと力をなくすようにして寄りかかってきた。

「もービックリさせないでよ。こっちはほんと、心臓が止まるかと思ったわよ。急に倒れるんだもの」
「た、倒れ……?」

養護教諭の櫻井は詳しくは語ってくれなかったのだが、話から推測するに、もしや自分は雫の心臓を停止させそうになるまでの倒れ方をしてしまったのだろうか。
若干自分の記憶力の乏しさに自信をなくす音色の様子を変だと思ったのか、雫は大きい瞳をぱちぱちと瞬いた。

「え、なに、もしかして覚えてない、とか?」

半笑いで、そんなことはないだろうとでも言いたげな雫がこちらを見る、が、それが当たっているので返す言葉が見付からずに口篭る。
すると雫は物凄い勢いで音色の肩を掴むと詰め寄ってきた。

「ウソ!だってお昼終わってから二人で体育館に行こうとしていたじゃない!ミツと緑木君は試合で先に行ったから!」
「う、うわー……そうだったっけ……」
「そうだったっけ、じゃないわよー!」

何が何でも思い出させようとする雫の瞳が怖い。そのままがっちりと頭を掴まれそうになって、音色は慌てた。
しかしそうはならなかったのは、それまで静かだった半面のコートにいきなりホイッスルの鋭い音が鳴り響いたからである。

音色と雫は同時に顔をそちらへ向けた。
コートの真ん中ではちょうど日和が相手からボールを奪ったところだった。と同時に、コートのあちらこちらからきゃあと黄色い声が上がった。
息を付く暇もなく、日和の手が弾いたボールを拾い上げた光之はゴール目がけて威勢よく走り出す。

「うおっしゃー!いくぜ下僕ども!」
「誰が下僕だ!」

今の体育館はさっきまでの静寂からは考えられないほど、コート外から飛び交う声援やボールが体育館の床の上でバウンドする音でいっぱいに満たされる。
雫はそれらの光景をすました顔で見つめながらなんとはなしに言った。

「案外私たちのクラスって運動神経いいのね。ミツのテンションも上がりに上がっているし」
「確かに。相手のクラスも気圧されてるみたい」

光之の獣のような顔を見て思ったままを言うと、雫はそうねと言って笑った。

「でも、今の対戦相手のクラスは今まで対戦したどのクラスよりも強いみたい。前半から見ていたけど、やっぱり運動部ぞろいはまずいわね」

それから一息置くと、雫は意味ありげに溜め息を付いてから口を開いた。

「緑木君はやっぱり何でもそつなくこなすのね」
「え、そう……?」

日和の話題を出されて、一瞬音色はどきっとした。
自分のことを言われたのではないと分かっているのだが、なぜか彼の名前が出てくると敏感になってしまう。

「特に音色には殊優しいし?」
「そんなことないって」

にんまりと、こちらの反応を楽しんでいるような雫にそっぽを向くようにして音色は否定してみせた。
今の言葉で十分否定しきったはずだ。それなのに心の奥ではなにかが熱を持ったように熱くなった。

だがたとえ日和が特別自分に優しくしてくれるのが真実だとしても、日和が自分のことを気にかけるのは、きっと自分という人間がリーネの生まれ変わりであるからだ。
彼の前世であるサーンがリーネを守れなかったことを気にしているから、ただそれだけだ。
それは一見すると強引な考えのような気もしたが、だがそう考えないと感情だけが先に先にと急いて理性が追いつかなくなって、いっそ収拾が付かなくなりそうだった。

日和が自分を単体で労わってくれるなど、ありえない。
音色は心の奥でその言葉を噛み締めながらぐっと拳を握った。

「緑木くーん!頑張ってー!」

それはあまりにも唐突だった。いったん体育館内に黄色い声援が響くと後から後へと声援が増え、その勢いに思わず音色は固く握り締めた拳を解いてしまった。
コート内に送られる日和への声援は、他の男子にもあるにはあるようだったが、まるで雨嵐のようだ。
当の本人はというとコートの中で何とも気難しい顔をしている。そこを光之が肘で小突きながら笑っている。

「う、うわあ……すごい……」
「さっきから二次曲線でも描けるんじゃないかってくらい他のクラスの女子が増えているわねー」

ちらり、と横目で体育館内を見回した雫は呆れたように言った。

「音色も応援してあげたら?」

考えもしなかった雫の提案に、音色は少し遅れてから慌てて答える。

「別に……応援しなくても。それにここからじゃ応援、届かないし」
「でも幼馴染なんでしょ?声を張り上げればいいじゃない」
「だ、大丈夫。勝つって信じてるから!」
「さすが。幼馴染の勘ね」

なにを知っているのか、雫は意味ありげにそう言ったあとでくすくすと笑った。
これ以上なにかを言えば失態を犯してしまいそうな気がしたので、音色はあえてなにも答えないでおいた。

「緑木先輩、頑張ってー!」
「頑張ってー!」

先輩と口にしているところを見ると、恐らく一学年か二学年の女子も混ざっているのだろう。音色は日和が異常に慕われている現実に驚いた。
そして音色自身もさっきの雫と同じように体育館内を見回してみれば、この試合の女子の参観率はかなり高いのだと容易に分かった。
もう一つの半面のコートでも同様にバスケットボールの試合が行われているが、こちらが特に突出していた。

まるで遠い国の人みたいだ、と思った。
遠い国どころではなく、おとぎ話の国の住人である本物の王子様みたいに、今の日和は別の世界にいるようだった。
そこまで考えて、日和は現実の王子の生まれ変わりだと言うことに遅れ馳せながら気が付いた。

(……夢みたい)

しかしこれが夢ならば、どうしていつまで経っても醒めないのだろう。
早く誰か叩き起こしてくれればいいのに。これは夢だと、誰かが叫んで目覚めさせてくれればいいのに。

長いホイッスルが耳をつんざくような勢いで鳴り響いた。
音色ははっとして顔を上げる。するとコート内に散らばっていた選手は落ち着いた足取りでセンターに集まり始めているのが見えた。
どうやら色々と考えているうちに試合が終わったらしかった。

しかし得点ボードは音色たちのクラスの負けを表していた。
それなのに試合後の日和や光之など彼らの姿は清々しそうで、汗まみれになりながらも仕方ないなと言わんばかりに笑い合っている。
そうして試合が終わった日和と光之は、互いになにかを話しながらこちらへ来た。

「お疲れさま」

雫が微笑を湛えた顔で二人に声をかけると、光之が満面の笑みで応じた。
試合を観戦していた大勢の生徒たちも、試合が終わったとあってぞろぞろと体育館をあとにし始める。
音色もその流れに乗って体育館の外へ出ようとした。

「音色。眩暈はもう平気なのか?」

出ようとしたその時、背後から声をかけられて驚いた。
顔には出さなかったが、振り向いて目に入った姿に心臓が高鳴るのが分かった。日和だった。

「うん、大丈夫。ありがとう」

咄嗟に作った笑顔で返すと、日和も納得したようで笑み返してくれた。それがなぜかひどく嬉しかった。

「あ、あの、日和」

音色はすぐに、どこかに行こうとしていた日和を呼び止めた。
と同時に、ここでこの話をしてもいいだろうかと周囲を見回す。
すると今まで横にいた雫はそれとなく光之と共にどこかへ去っていった。他の生徒はこちらを気にしている風ではないようだ。

「今日、また本を借りに行ってもいい?」

実を言うと、神の魂にまつわる例の本を探しに日和の家に行くときはいつも日和が誘ってくれていた。
積極的に本を探そうとしている日和に反して、彼の手伝いくらいしかできない自分が情けなかった。だが音色はこの瞬間、今日ばかりは自分から言おうと思えた。
しかし日和はそのことをまるで予期していなかったのか、振り返ったそのままその場に硬直している。

「あ、ごめん。無理だったらまた今度で……」
「いや」

焦って今の言葉を撤回しようとする音色に、彼の答えは呆気なさすぎるほど簡単に返ってきた。

「待ってる」

その一言がこのときどんなに嬉しかったか、彼に伝える手段があるものなら伝えたかった。
日和の、返答と同時に見せられた零れるようなその笑顔も、優しい彼の仕草もなにもかもが、今の自分には勿体ないと思えるほどだった。

ああ、前世や後世のくくりなど、ぜんぶぜんぶなければよかったのに。













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06/08/07