第三章  -09









どこまでも、地平線の向こうまでも青い空が広がっていた。
音色はしばらくその色を見てから、ぼんやりと首を傾げた。ここはいったいどこなのだろう。

青にしても、頭上に広がるこの空の青は少しかすれた色をしている。
そんな中を時折、湿り気を含んだ風の匂いがどこからともなくやってきて、鼻腔をくすぐるようだった。
自分でも不思議だったが、この場にいると泣いてしまいたくなるほど懐かしい感情が胸の奥から込み上げてくるのが分かった。

「なんで人間は飛べないのお?」

誰の声だろう。
唐突に遠くから聞こえてきた幼子の声に、音色は思わず耳をそばだてる。

「そうねえ、人間には羽がないもの。羽があったら飛べるかもねえ」
「なんで?なんで人間には羽がないの?」
「……うーん」

どうやら小さな女の子と大人の女が、恐らくは親子だろう、他愛無い会話をしているらしい。
しかし音色はそのどちらの声も馴染みのある声だと思った。

「あ、そうそう。お家に帰ってお父さんに抱っこしてもらえば、ほら、飛べるわよ」
「やだ。ひとりで飛ぶんだもん」

不意に、それまで辺りに広がっていた青空の中に誰かの姿が見え始めた。
青空を背景にして、まだ小さい、幼稚園生くらいの女の子が頬を膨らませて、苦笑している大人の女と手を繋ぎながら歩いている。

「音色は空が飛びたいのねえ」

その言葉を聞いた途端、辺りの世界が一変した。
朧だった風景は、一瞬にして輪郭線をはっきりと見せ音色の眼前に展開する。
そして音色は気付いた。今まで小さい女の子だと思っていたのは、幼い頃の自分だ。

「でもね、でもね。ちょっとでいいんだよ。風さんみたいにふわっとだけでもいいんだよ」
「ちょっとかあ……」
「だめなの?」

若い母の服の裾を引っ張る小さい自分が、恨めしげに口を尖らせる。そんな音色に母はやはり苦笑した。

「そうね、少し難しいかもね―――」

最初に懐かしいと感じた理由が、分かったような気がした。
二人の後ろ姿を見送っていた音色は目蓋を閉じて、ああ、と思った。

しかし、物心が付いた頃の会話などあんなにはっきり思い出せるはずがないと、しばらく経った後にぞっとした。
過去の記憶や夢なども、あまりに衝撃的だったものしか、しかも片手で数えるくらいしか覚えてはいなかったからだ。
あんないつしたのかも分からないような会話、なぜ今になって思い出したのだろう。

「熱中症ですか?」
「でも軽いから平気よ。とりあえず彼女はこのまま安静にしておいた方がいいわね」

青い空は消えていた。音色はいつの間にか真っ白な天井を見ていた。
さっきまでの青空も、過去の自分もなにもそこにはなくて、今聞こえるものと言ったら人々の絶え間ない話し声だけだった。

「あなたは球技大会に戻りなさい。そんなに心配そうな顔しなくても、大丈夫よ」

少し笑っているような女の声の後、からからとドアが静かに閉まる音がした。
音色は意識が幾分初めよりしっかりしてきたような気がして、数回瞬きした。
いったいここはどこで、この状況はいったいなんなのだろう。

やや間があって、音色は考えるよりも先に勢いに任せてがばと跳ね起きた。
保健室だった。音色を取り巻く周囲の風景は、どこからどう見ても保健室だ。
ただそれでも訳が分からないのは、今この瞬間までどうやら自分はこの白いベッドの中で仰向けに寝かされていたということだった。

(……え?ちょっと待って)

記憶がぶっつり途絶えてしまって、保健室で寝かされていた理由が思い出せない。
音色は記憶が一部吹っ飛んでいることに焦りを感じながらも周囲を見回した。確か今は球技大会の最中ではなかっただろうか。
ベッド脇には自分の上履きが丁寧に揃えられていた。

音色は今まで寝ていたベッドから抜け出て、ベッド脇に揃えられていた自分の上履きを履いた。
そして立ち上がろうとした、が、頭の前部がずきりと痛んだお陰で少しだけよろけた。
ベッドを取り囲むようにして白いカーテンが周囲の風景を遮っている。音色がそれを力の入らない手で少しだけ開けると、そこには白衣を着た女の背中があった。

「……あの」
「あら、もう平気なの?」
「はい」

こちらに振り返ったのは、まだ若い女の、この中学校の養護教諭である櫻井だった。
彼女は驚いたように瞬きして、それから音色の額に手を当てて目を閉じた。

「ん、熱は下がったみたいね」
「熱中症って、さっき聞こえたんですけど」
「そうよ。今日はかなり暑いから、他にも何人か倒れちゃってねえ」

櫻井の視線を追うと、音色の両隣の白いカーテンもきっちりと閉められているのが見えた。

「はい。じゃあ体温測ってみようか」

音色は櫻井から体温計を手渡され、近くにあった椅子に座るよう促されて、ゆっくりと腰掛けた。

「体育館に行く途中で気分悪くなっちゃったの、覚えてる?」
「……ちょっと、分からないです」
「だったら今日は早退した方がいいかな。これから午後の試合も始まるし」
「あ、大丈夫です」

最初はいくらか吐き気もあったが、時間が経つにつれ体調は回復していくようだった。
だがそんな音色の即答に驚いたらしく、櫻井は目を丸くさせた。

「無理しないでもいいのよ?明日は振り替え休みだし、ゆっくり休んだ方がいいと思うけど」
「平気です。あの、もう試合ないので……」
「あれ、負けちゃったんだ」
「はい。結構早い段階で」
「どこまで行ったの?女子はソフトボールだっけ」
「二回戦目で負けちゃいました」

えへへ、と音色が笑うと、櫻井も、それは残念だったわねと言って朗らかに笑った。
と同時に、脇の下に挟んでおいた体温計の小さい電子音が鳴った。
音色はまず自分で自分の体温を確かめてから櫻井に手渡した。

「三十六度五分、か。少し下がったわねえ」
「じゃあ戻ってもいいですか?」

あんまり勧められないんだけどね。櫻井は苦笑してから呟いた。
だが次に音色が本当に大丈夫ですと言うと、彼女も承諾せざるを得なくなったようだった。

「でも無理だと思ったらすぐに来てね」

にっこりと微笑む櫻井に礼を言って、音色は保健室の扉を用心深く閉めた。
どうやらこの場所界隈は、静かにしないといけないという心理作用が働くらしい。

校庭や体育館の中とは打って変わって、保健室前の廊下の静けさは異様だった。
音色は、ふうと軽く息を吐いた。保健室で寝かされるに至った経緯はまだ思い出せなかった。

寝不足なのかもしれない。それとも根の詰めすぎなのかもしれない。
それはもちろん例の本を探すことに、だ。
闇雲に探し回っているような気がした。もとよりその本の情報はそれほどないためにそれは仕方のないことだったが、足掻いているだけと言う気がした。

しかし解決しなくてはならない。
リーネたちを静かに眠らせたかったし、なによりも自分の中にある莫大な力をどこかに隔離してしまいたかった。
不思議な力が使えたらよかったのにと思ったことは今までに何度もある。だがいざ持った途端、煩わしさと、それとなによりも力を安易に使ってはいけないように思えて、まるで日々荷を背負っているようだった。

「……音色?」

聞き慣れた声が、真剣に悩み始めた音色の耳に飛び込んできた。
音色が呼ばれて顔を上げると、目の前には日和が今ここに来たかのごとく立っていた。

「具合が悪くなったって、聞いたんだけど」
「あ、うん。でも大丈夫。もう平気」

なぜ日和はここまで来たのだろう。確か体育館は保健室からかなり離れてはなかっただろうか。
二人の会話が途切れてから音色はすぐになにか口を開こうとしたが、その前に日和が喋り出した。

「水沢の様子が変だったから訊いたんだ。そうしたら倒れたって言うからさ」
「別によかったのに、そこまで重症じゃないし。それに日和、このあと試合じゃなかったっけ?」
「いや、でも……安心した」

そう言うと日和はへらっと笑った。
彼のその笑顔と言葉とが影響したのか、音色の胸に一気になにかが込み上げてきた。それは体を折らないと溢れてしまいそうだった。
音色は俯いて、そっと日和の体育着の裾を掴んだ。

「……ごめん」

謝るのもおかしいと思ったが、咄嗟にその言葉が口を衝いて出た。

「目眩がした?」
「……ううん。平気」

音色は少し笑って、俯いたまま首を横に振った。
ここにいる日和が本物でよかったと思った。他人に心配されることは少し気が引けるけれど、安心したと言ってくれた日和は嬉しかった。

しかし急に身体が彼の方に引き寄せられたとき、音色は慌てた。
背中に日和の手が回っているのだと、温度で分かる。
だがこれから自分はどういう行動を取ったらいいのだろう。心なしか冷や汗を全身に感じる。

「寄りかかるくらいなら、大丈夫だけど」

頭上から聞こえる日和の素っ気ない声に、驚いてから小さく笑う。
そういうことばかりしていると、日和の好きじゃない人まで日和を好きになっちゃうよ。そう心の中で呟く。

(……リーネとサーンじゃないのに)

あの二人ではないのに。前世を引き継いでいるからと言って、あの二人の関係までも引き継いだ訳ではないのに。
だが、もし日和と前世の関係なしに出会っていたらどうなっていたのだろうか。
そこまで考えて音色はすぐに、出会いもしなかっただろうとだけ思った。

胸の高まりは次第に大きくなっていく。と同時に、少しだけ彼の雰囲気に安堵する。
これから試合が控えているはずなのに胸を貸してくれる日和に、音色は恥ずかしさを覚えながらも感謝した。

保健室前の廊下は静まり返っていた。
ただ周囲から湧き上がるようにして響く蝉の声だけが、辺りの空間を敷き詰めていた。













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06/07/22