第三章  -08









教室の風景はいつもとは違い、普段は整然と並ぶ四十あまりの机と椅子は、今やすべて教室の前に押しやられていた。
そうして生徒は後ろの空いた教室の床の上に座って、円になりながらいそいそと弁当を広げ始める。

球技大会も昼休みになると、午前で高まりに高まっていた熱気は小康状態になりつつあった。
しかしそれでも生徒は互いに今の自分のクラスの順位や、午後の試合に向けて話し出すと止まらないらしく再びあちらこちらで笑い声が起こる。
そんな中からこっそりと、弁当片手に音色は教室を抜け出した。

廊下をやや早足で歩いていくと、階段近くの壁にもたれながら立っている誰かの姿が目に入った。
どうやら音色よりも先に教室を抜け出したらしい、彼も同じくランチボックスを手にしているが、廊下を歩いていく女子生徒の熱い視線に困っているようで、視線を伏せたままにしている。
音色は内心笑いそうになりながらも彼に近付いた。

「日和、ごめん」

苦笑しながら音色が話しかけると、彼、こちらを見た日和はほっとしたような笑みを見せた。

「お昼、どこにする?」
「屋上……はさすがにまずいな。中庭にしよう」

中庭は教室棟と図書館棟との間に位置している、ただ芝があり木々が植えてあるだけの場所だ。
教室棟が面していると言っても、一階から四階まで音楽室や美術室などのいわゆる特別教室ばかりなので比較的閑散としている。
恐らくそこであれば誰にもこの後の会話を聞かれることはないだろう。

予想通り、音色と日和が中庭に出た時には、辺りにはすっかり生徒の姿は見えなくなっていた。
膨れ上がりそうな蒸し暑い空気の中で、時折そよぐ風を涼しく感じる。
そうして二人は校舎に沿うようにして根を張る一本の木の下に並んで腰を下ろした。木陰の下は思ったよりもひんやりしていて気持ちよかった。

「数百年、は長いよな……」

開口一番に呟かれた日和の言葉からは気のせいか苦労が滲み出ている。
それが前世関連のことなのだと悟った音色は、やはりこの一件は神の力絡みだと確信した。

「どうかした?」

ちらと横目で窺った日和の顔は、いつもより憔悴して見えた。

「例の本のこととか、色々と訊いてはいるんだ、サーンに。このことを言い出したのはサーンだから」

ランチボックスを手際よく開けながら、しかし日和のテンションは言葉とは裏腹に下がっていく。
音色も弁当の包みを開けながら彼の言葉に数回頷いた。

「サーン、なにか分かったって?」
「時間が経っているせいか記憶が乏しいらしくて、結構曖昧だったんだけどな」
「でも訊けたんでしょ?」
「……まあ」

そう言うと、日和は苦い表情で応えた。

「サーンは城の蔵書室で例の本を見つけたって言う。実際、俺の記憶にもそれはある」
「あ、そう言えば会った最初にそんなこと言ってたっけ……」
「ああ。でも問題はここから。あの本は、どうやら最初から蔵書室にあったものではないらしいんだ」

音色は思わず自分の弁当包みから日和の方に視線を移して数回瞬きした。

「え?それって……どういうこと?」
「サーンは結構サボリ癖がひどかったと言うか……。幼少期はまだよかったんだけど、物心付く頃から剣術の稽古以外の英才教育は嫌がって、よく蔵書室を含めてあちこちに隠れていた」

日和の昼はサンドイッチらしい。
色とりどりのサンドイッチを手にすると、日和は再度ふうと溜め息を漏らす。

「でもある時に、ああ、王妃候補を探しにいく日のことかな。サーンが偶然隠れた蔵書室の一角に一冊の本が落ちていて、それがあの本なんだ」

話の繋がりがよく分からなくなってきた音色は、ただ日和の話を聞くことだけに集中しようと思った。

「性格はああでも、サーンは意外に洞察力が鋭いんだ」
「うん?」
「で、そのサーンが以前はそんな本は蔵書室のどこにもなかったって言う、ここが変なんだ」

いきなり提示された矛盾に、音色はすぐさま頭を抱えて考え込んだ。

「え?じゃあ、誰かが持ってきたってこと、だよね?」
「そうかもしれない。だけど、もし百歩譲って『突然』その本が現れたと仮定する。……それって、何か変じゃないか?」
「……ごめん。もう少し噛み砕いて説明してくれると助かるんだけど……」

申し訳なくなって小声で音色がそう言うと、日和は、ああ、と言ってから笑った。

「あの本には色々な予言じみたことが書いてあったってこと、覚えてる?」
「あ、サーンが言ってた、あれ?」
「そう。ここまで考えるのはもしかしたら行きすぎかもしれないけれど、でも数百年前と同じ姿のウィリネグロスが俺たちの前に現れたり、神の力のことを考えるとそうでもないかなっていう気はするんだ」

日和は一呼吸置くと、急に真面目な顔付きになってぽつりと呟いた。

「あの本は、俺たちをどこかへ煽動しようとしているような……そんな風に思えるんだ」

日和のその言葉と意味深な雰囲気に、音色は思わず弁当の箸を持った手を止めた。
もしかしたらそれは単に日和の考えすぎなのかもしれない。一瞬だけ音色もそう思った。
しかし今自分たちが探している例の本のことを考えると、なにか釈然としないものを感じるのも事実だった。

予言を内包する本。それを、リーネとサーンは守護霊として呼び出される前に会った神から探せと諭された。
そしてそれは恐らくサーンが蔵書室で見つけたものと一致しており、リーネと出会うきっかけになったものでもある。
そこまで考えた音色は、その本は少なくとも「人」が書いた物ではないような、どこか不気味な感じがした。

「で、考えたんだけど……」

ぱくりと手元のサンドイッチを口に放り込んでしばらくして、日和は唐突に言った。

「いっそエターリアに行ってみないか?」

音色は度肝を抜かれたような気がして、驚いて日和の顔を凝視した。
あまりの意外性のある発言に脳が停止を決め込んだらしく、まだ話が上手く飲み込めない。

「エターリアに例の本があるって言う可能性も否定できないかなと思ってさ」
「え、でも……エターリアって、今のどこの国?そこって行けるの?」
「ああ、だいたいの場所の見当はついているんだ。遠いことには遠いから、夏休みとかの長期休暇の間で行けると好都合だけど、どうする?」

なんと言うべきか、この時の音色はただ頷くしかなかったと説明するのが適当だろう。
探す探すと口で言ってはいたが、ここまで日和の計画が進んでいるのだと思うと、逆に今まで自分がなにも考えていなかったように錯覚させられてしまう。

今度はもっと日和に協力できるように頑張らなくては。
眉根に皺を寄せたまま心の中で反省会を開催する音色の一方で、それまで冷静だった日和の視線が急に変わった。

「音色、ちょっとそのまま、止まって」

突然、日和の声が頭上から降ってきて、音色は反射的に顔を上げた。
すると顔を上げた先にはいつもより鋭くて清廉な日和の顔があって、胸が奥の奥から大きく高鳴ったのが分かった。

日和の髪が自分の頬にかかってしまうのではと思うほど近付いてくる。
彼の腕がゆっくりと伸びてきて、指が音色の肩の体育着越しにすっと触れた。
伏しがちな彼の真剣な視線が、驚くほど心臓に悪い気がした。

「日、和……」

いつの間に口から零れた彼の名を呼ぶ自分の声も、この穏やかな風の中に解けてしまいそうだった。
そうしてこのまま時間と共に、二人を埋める空間もどこかに流れ去ってしまうようにも思えた。
まるでそれは共にこの世界の時間の中ではないような、奇妙な感覚だった。

色々な思いがほんの数秒の間、音色の体中を駆け巡る。
そんな中で日和の手は肩から離れた、しかし途端に目に入った日和の指上を蠢く何かに、音色は思わず叫びそうになった。

「け、毛虫っ!?」

驚き後ずさりする音色に対し、日和はなんでもないという表情で毛虫の動向を眺めている。

「ちょうど袖に毛虫がいたのが見えたから。ああ、危なかった」
「だからって……ビックリした……」

音色は思わず口元を両手で覆った。
それは毛虫に対してなのか、それとも普段は見せない日和の表情に対してなのか。なんだか後者のようで決まり悪かった。

「……ね、大丈夫?刺されない?」

日和の指には相変わらず一匹の焦げ茶色の毛虫が乗っている。
心配そうにする音色に、日和はおかしそうに笑んだ。

「俺は地の力を持っているから、地に属するものが何を言いたいのかだいたいは分かるんだ」

毛虫は日和の指先を目指してゆっくりと身体をくねらせながら這って行く。
だが途中で、その毛虫の様子がどこかおかしいことに音色は気付いた。

「結局俺たちは、普通の枠を少し越えただけなんじゃないかな。先人が持っていて現代人が忘れたものを継承しているのと似たような感じで」

日和は風に逆らうように腕をすっと横に翳す。
すると指先に進んでそれきり止まっていた毛虫が、突然身動きをし始めた。
毛虫のからだは少しだけ膨らんで、すると白みたいな金みたいなそんな光に包まれる。

あっと思う暇さえなかった。
毛虫は一瞬の内に姿を変え、今やひらひらと羽を閉じたり開いたりするまでになっていた。
幼虫から成虫へと成長したそれは、なんの前触れもなく、日和の指先から鷹揚に外界へと飛び立っていった。

「俺は未だに、この力を御しきれないよ」

寂しそうに笑う日和のその表情が、いつまでも頭にこびり付いて離れそうになかった。
午前中の、ソフトボールの試合でホームランを打った時の躍動感でもなく、ただ単純に悲しいでもない、微妙な感情が心の奥から沸き起こった。

日和は神の力を持つことに躊躇っているのだ。音色はそう思った。
それは自分もあてはまらないことではなかった。けれど日和は、躊躇う以上に、力を持つことに畏怖している気さえした。

「あら、音色と緑木君。こんな所にいたのね」

突然二人の間に縫って現れた声が、朦朧としていた意識を一気に現実に引き戻した。
いつの間に現れたのか、音色が背後を振り返ると、教室棟の方から雫と光之がこちらに近付いてくるのが見えた。

「雫と、原くん?」
「そんなに驚いた顔しなくても……あ、お邪魔だったかしら」
「そ、そんなことないって!」

慌てて否定する音色に、近付いてきた雫はそっと耳打ちする。

「大丈夫よ、私たちも教室から抜けてるから。他の人も邪推はできないんじゃないかしら、ねえ?」

雫は完全に勘違いしている。音色は青ざめた表情で離れ行く雫の美しい笑みを呆然と見つめた。
そんな音色の反応を図星だと思ったのか、雫はうんうんと数回頷くとそれきりなにも言わなくなった。

いや、肝心なのはむしろそこではないだろう。
音色はしばらくすると、日和と一緒にいることよりも、今さっきの日和の行動を見られていないかが気にかかった。
だが日和の方を見てみると、音色の心配をよそに、そんな心配はいらないという顔で彼は光之と話をしている。

「この昼休み終わったら俺ら対戦だってさ!でも、運動部が大半占めてるクラスと当たっててさー」
「まだ予選続きか……」
「いやいや!次の試合勝ったら準決勝!ベスト四!」

嬉しそうに日和の目の前に指を四本立てて見せる光之に、日和もつられて笑う。
そんな二人に応援とも挑発とも取れる言葉を送る雫に、光之がまるで小学生のようにむきになって反抗する。

さっきまでの日和の、どこか寂しそうな雰囲気は完全に消し飛んでいた。
だが音色は、そんな三人を見て同じく笑いながら、それがいいと思った。それで十分だった。













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06/07/06