あの事件の後のエターリアはどうなってしまったのだろう。 守護霊としてまた世界に呼び出されてからしばらくして、それが気がかりになった。 音色の中から見るこの国の文明は、土地が違うということもあるのだろうが、数百年前よりも遙かに進歩を遂げているように思われた。 その文明進化の波はエターリアをも呑み込んだのか、考えれば考えるほど不安になる。 それはまるで、故郷が第三者の手によって組み替えられてしまったかのような辛さだった。 第三章 -06 背後でしゅんしゅんと、ヤカンの沸騰している音がする。 それから聞こえるものは小刻みに包丁でまな板を叩く音と、それに、玄関の扉ががちゃりと開く音。 それらの音を聞き流しながら、律は手元のコントローラーのスティックを親指で左右に弾いた。 画面の中を目にも留まらぬ速さで大小さまざまな敵が動き回る。それを手元のコントローラーを巧みに操作して追撃する。最近やり続けたお陰で、その手付きは大分慣れたものになっていた。 よし、これで倒した数は半分になった。律は次々に現れる敵を目で追って捕捉しながら尚もスティックを弾き続けた。 「音色はどうした?勉強なんて、明日は雨が降るんじゃないか?」 低いおっとりとした声に、振り返らなくとも父が仕事から帰ってきたのだと分かる。 ネクタイを緩めながらリビングを見回す父、孝之は、いつもはリビングのソファでテレビ視聴権をめぐって律と言い争う音色の姿を探している。 「あの子もようやく受験を考えるようになったんでしょ」 母、温子の声が台所から聞こえてきた。同時に皿と皿がぶつかる音も響く。 親を心配させないでほしいわ。ぶつぶつと呟かれたその言葉に恐らく音色だけでなく自分のことまでも含まれていたのだろうが、無視した。 律にとって「受験」など、まだ何年も後のことだ。 中学は姉と同じ地元の公立校に通うと決めているから―――中高一貫校であるから多少の試験を免れないとは言え―――本格的な中学受験の準備は必要ない。 それに中の上に位置する律の頭をもってすると、中学には楽に入れる予定だった。 「律、悪いけど音色の様子を見てきてちょうだい」 だが温子のこの言葉を、律はさっきと同様無視することができなかった。 画面上の敵を次々と倒していくその様をしっかりと見据えながら、律はコントローラーを握り締めたまま不満の声を上げた。 「えー?なんで」 「友達の家に行くって言って、帰ってきてからぱったり降りてこないんだもの。やけに静か過ぎて本当に雨が降りそうよ。生存確認してくるだけでいいから」 「嫌だよ。今忙しいんだから」 「どうせゲームでしょ。母さんの手伝いする気がないんなら、ほら、早く行く!」 温子との会話に気を取られたせいで手元が狂い、荒波の如く押し寄せてくる敵にこれでもかと連続攻撃を喰らう。 そうして数十秒とも経たないうちに、画面の真ん中に大きく太く赤い字で「GAMEOVER」の文字が現れた。 律は溜め息と共にゲーム機本体の電源を切ると、渋々と重い腰を上げた。 恐らく友人の家で遊び疲れて遅い昼寝でもしているのだろう。 姉の、音色の部屋の扉を開けたら、きっとベッドの上に突っ伏している音色の姿があるに違いない。 早く戻って次のステージに進めよう。律は重い足を引きずって階段を上がった。 階段を上がって手前は自分の部屋だ。音色の部屋は隣の、奥の方にある。 律は自分の部屋の前を素通りすると、そのままの勢いでドンドンとかったるく音色の部屋の扉を叩いた。 「姉貴起きてるー?死んでるー?」 以前は無言で部屋の扉を開けても音色は怒らなかったのだが、最近、どういう訳かやたらノックをしろと言うようになった。 これが「思春期」なのだろうか。律は自分が年下だということも忘れてそんなことを考えた。 「なに?失礼ね」 音色はてっきり寝ているのだとばかり思っていた。 しかし扉を叩いてすぐに顔を出した音色の表情は、寝起きとは思えないほど憮然としていた。 「母さんが勉強してるか見て来いってさ」 まさか本当に勉強しているとは。 多少驚きながらも律がそう言って肩を竦めて見せると、音色は急に思い付いた顔付きになって奥から一冊の本を取り出してきた。 「ほら、英語の勉強してるの。だから晩ご飯できたら呼んで」 音色が律の目の前に広げた大判の分厚い本には、びっしりと異国の言語が連ねてある。 小学四年生である律のカリキュラムにはまだ英語の授業は組み込まれていない。ローマ字だってようやく最近習い始めたばかりだ。 しかし、律はなにか違和感を覚えて目の前の本をじっと見詰めた。 確かに分からない言語なのだが、こう、言葉には言い表せないもやもやとしたものがある。 「……姉貴」 「なに?」 「これ……英語じゃなくね?」 言うが早いか、律の鼻の先でなぜか部屋の扉が勢いよく閉まった。 「お母さんには勉強してたって伝えて。本当、今すごく忙しいんだから」 扉の向こうから音色の声が聞こえてすぐに消えた。 それは要約すると、「勉強をしているカムフラージュをしておけ」と言う意味だ。 しかし、はて、今見せられた本は勉強のための参考書などではなかったのだろうか。律は視線を左上に動かして、内心首を傾げた。 だがここで真意を追求する理由は自分にはない。 それに温子に音色は勉強をしていたと伝えればこの一件は片付き、晴れて途中だったゲームを続行できるのだ。面倒ごとには関わりたくない。 律は欠伸を噛み殺しながら、階下へ通じる階段を降りていった。 音色はじっと扉に耳を押し当てて、廊下の様子を探った。 自分の心臓が身体の奥でまだ早鐘を打っている。 律はまだ小学生だ。それなのにこの異国の本に書かれている言語を英語ではないと、当てずっぽうだろうが見破った。 確かにこの本は英語で書かれてはいない。 日和が言っていたことをど忘れてしまったのだが、とにかくこれはエターリアがあった場所の近くの言語で書かれたもの、らしい。 しかし自分は英語すら危うい日本人だ。前世の影響で少しこの本に書かれていることが読めるとは言え、その感覚は「なんとなく」に限りなく近いものだった。 音色は扉の向こう側から物音ひとつしなくなったことを確認すると、扉から離れて溜め息をついた。 律の気配は廊下から完全に消えていた。 「リーネ、今平気?」 音色がどこともなくこっそり呼びかけると、弾ける光の泡を伴って銀髪の少女が目の前に現れた。 彼女は正面を見据えて数回ゆっくり瞬きすると、そのままこちらを向いて微笑む。 『どうかなされましたか?』 「うん。ちょっとね」 その時リーネは音色の手にしている本に気付いたらしく、きょとんとした顔でこちらを覗き込んできた。 『……それは?』 「え、あ、これ?」 音色が慌ててリーネの前に本を差し出して見せると、リーネは心なしかいつもよりも目を輝かせてこくんと頷いた。 もしかして中を見てみたいのだろうか。リーネが覗き込む傍で音色は適当にページをめくってみる。 『本、ですね。おとぎ話みたいなものでしょうか』 「リーネ、読める?」 『ええ』 音色がベッドの端に腰かけたのを追ってリーネも音色の隣に腰かける。 そうしてリーネは音色の持つ本の上に手をかざすと、安心したようにそっと目を閉じた。 『不思議な感じです。まるでこの本に数百年前のエターリアの香りがすべて詰まっているような』 音色はそのリーネの表情がなにか彼女独特のもので、たとえ後世と言っても自分には手の届かないなにかを彼女は持っているような気がして、少し寂しくなった。 「エターリアって、どういう国だったの?」 唐突に訊いたせいか、しばらくしてリーネの顔を窺うと彼女は案の定目を丸くさせていた。 音色はそんなリーネの表情にぷっと吹き出す。 「あ、ごめん。最初にリーネを呼び出した時にリーネの記憶を全部見たんだけど、でも、リーネの考えてることとか気持ちまでは分からなくて」 『……気持ち?』 リーネはまた面食らったとでも言いたげな顔をしてから、視線を宙に彷徨わせて考え込んだ。 「感じたことそのままでいいよ?」 『ええ、そうですね……』 長考のあと、リーネはややあってからゆっくりと口を開いた。 『シュラート国は少し寒かったですね。けれどエターリアは暖かくて、夏になると少し乾燥しました。砂漠、とまではいきませんが』 「へえ。そうなの?」 『なによりエターリアに吹く風は気持ちよくて心和む国でした。楽しかったですよ』 嬉しそうなリーネの言葉一つ一つに、エターリア国の断片が含まれているのだと感じる。 それが心の奥底に眠る前世の記憶と相まって、いっそ自分もその時代のその場所にいたのではないかという錯覚に陥りそうになる。 目を閉じれば、少し色褪せたエターリア国の青空が眼前に悠然と広がる。 瞬きを繰り返すごとに周囲の風景は切り替わり、その度に言いようのない懐かしさがどこからともなく込み上げてくる。 『そういえば、明日も日和の家に行くのですか?』 リーネの澄んだ声にはっとしてみれば、今まで目の前に漂っていたエターリアの風景は跡形もなく消えていた。 音色が顔を上げると、そこにはさっきと同じく住み慣れた自分の部屋とこちらを見るリーネの顔とがあった。 「あ、うん。でも日和の家ってなんだか緊張しちゃって……」 しどろもどろになりながらもそう言うと、リーネは目を細めて薄く笑んだ。 『……懐かしい』 彼女が何を差してそう言ったのかは分からない。 けれど音色には、それが前世に関係することなのだろうという大体の察しは付いた。 エターリアとまったく違うこの国の風景を見て、いったいリーネはどう思っているのだろう。 音色はこの時ふと、エターリア国に一度行ってみたいと思った。 今は別の国名を冠しているのかもしれない。急峻だった山は削られ国の中央を貫くようにして流れていたダヌヴィウス川は枯渇しているのかもしれない。 それでもリーネが数百年前に生きていたその土地を、一度でいいから踏んでみたいと思った。 何故かそれが、彼女の後世である自分の役目なのだとも思えた。 BACK/TOP/NEXT 06/06/23 |