第三章  -05









手が付けられない、とはまさにこのことを言うのであろう。
長年押し入れの奥にしまってあったような少しきつい臭いを発する数冊の本を手にとって、音色ははあと溜め息を付いた。

初めは色を頼りに数多ある中から選び抜いていく。鮮やかな藍がかった青色、群青色の定義はよく分からないがそんなところだろう。
その次は表紙だ。「例の本」の表紙には見たことのない紋様が描かれていたと、確か出会った当初、サーンはそう言っていた。

しかし音色は「例の本」を探し出すと言う使命感に燃えるどころか、逆に心の中で嘆息していた。
周囲には何本もの本棚がずらりと並び、しかもかなり高い天井付近まで伸びる壁にはめ込まれた形を取る本棚はもはや圧巻だった。
ざっと簡単に見ただけでも青系の本はざらにある。頼みの綱の「見たことのない文様」と言うキーワードも、ほとんどの本の表紙には「見たことのない異国の文様」が入っているのがオチで何の解決策にもならなかった。

無意識の内に音色の頬はひくりと引き攣っていて、音色はそんな半ば諦めかけている自分がいることを自覚すると、慌てて手近な本棚から群青色と思われる本を抜き出して誤魔化した。
ぺらぺらと適当にめくってみる。しかし、まったくと言っていいほど意味も内容も分からない。

「いや、なにもこれ全部をこの一日で調べ終えるわけじゃないから」
「……そうだよね」

いつの間にかこの本だらけの部屋から消えていた日和は、ティーセットをのせたトレイを手に戻ってきていた。
腕時計をちらと見ると音色が日和家に来訪してからまだ数十分しか経っていなかった。

「前に一応、母に聞いたんだ。群青色で、なにか予言染みた本は蔵書室の本の中に混ざってないかって」
「それで?」
「見事にはぐらかされたと言うか何と言うか……。俺もそっち方面に興味を持ったと思われて、抱きつかれそうになった……」

がっくりと肩を落とす日和の姿がどこか可笑しくて苦笑した次の瞬間、音色は弾かれたように小さく叫んだ。

「あっ!挨拶、忘れてた!」
「ああ、大丈夫だよ。倉石さんから話は聞いてるだろうし、それに今は多分また東京に行ってると思う」

日和の母親は忙しいらしいとこの時、音色は思った。
毎日が多忙で日和に抱きつこうとするなんともお茶目な珍しい各国の本を収集する癖のある日和の母、なんだか一度会ってみたい。

「とりあえず今日は下見程度でいいんじゃないか?分母を知っておくだけでも、ってことで」
「あ、幾つか家に持ち帰ってみてもいい?」
「そうだな。一応隅々まで読んで確認しなきゃ、途中にその記述が隠れてるっていう可能性もあるからな……」

呟きながら歩き出した日和の横に並んで音色も本棚の森の中を少し進む。
すると、この部屋の中央に当たるのだろうか、少し開けた場所に窓辺から差し込む微弱な日の光を受けてあったのは、一組の落ち着いた色合いの木製のテーブルと椅子だった。

「じゃ、ここで一息」

手にしていたティーセットをテーブルの上に置いて、日和がテーブルの片側に腰をかける。
なんだか午後の優雅な一時を過ごしているような心持ちだ。音色も静かに、日和と反対側の椅子に座る。

そうして日和がなにか用意をし始めるなと思っていると、彼はティーセットばかりでなくデザートまで持ってきていたらしい。
まず先に紅茶の入ったティーカップを音色と自分の元に置いてからデザートの準備にかかった日和の手元から、ふわりと甘い匂いが漂ってくる。
音色は思わず目を見開いた。それはキャラメル色のシフォンケーキだった。

「わ、美味しそう……!」
「口に合うといいんだけど」
「合う合う!絶対合う!」

身を乗り出す音色に対して、日和は優しく微笑んだ。
彼は慣れた手付きでワンホールのシフォンケーキを切り取って、いかにも気品を感じさせる白のプレートにのせるとどうぞと言ってそれを差し出してくれた。
かなり高価そうなケーキだ。音色は胸の前で手を合わせてしばしの感動を味わった。シフォンケーキの横にはふわふわの生クリームまで盛られている。ああ、なんて夢みたいな光景なのだろう。

そう言えば今日はあまりの緊張から手ぶらで来てしまったが、次からはなにか手土産を持ってこなくては。
日和がシフォンケーキに次々とナイフを入れていく前で、音色はいただきますと言ってからフォークを手に取った。

「実は今日作ったばかりだからまだ味見してないんだ」

日和のなんでもないその一言に、音色は食べかけていた生クリームたっぷりのシフォンケーキを吐き出しそうになった。

「はい!?」
「……え?」
「作った?もしかしてこれ、日和の手作り?」

音色の剣幕にやや驚いたらしい日和は、躊躇いながらも首を縦に振った。
衝撃のあまり二の句が継げない音色の頭上で、実は母が料理が得意じゃないから俺が作る羽目にとかなんとか呟く日和の声が聞こえたような気がしたが、それを容易に聞き流せるほど音色はこの日和の料理の腕にショックを受けることができた。

万が一競いでもしたら絶対に負ける自信がある。
シフォンケーキのきめ細かい食感を噛み締めながら、音色は自分も料理の腕を磨くべきだろうか考えた。

「……で、この前の、公園でのことだけど」

日和自身はシフォンケーキには手を付けず、紅茶を一口だけ飲んでから神妙な声で言った。

「あ、ごめん。それ聞きに来たんだった」
「……いや」

日和はなにやら浮かない顔で手元に視線を落としている。
そんな彼にどことなく違和感を覚えたのか、自然と音色のシフォンケーキを食べる速さも遅くなった。
この部屋のどこかにあるのだろう時計の針の音がくっきりと聞こえる。そんな静けさの中で、日和はゆっくりと口を開いた。

「リーネからどのくらい聞いた?」
「う、うーん。あんまり……」

リーネに聞く、という手段ももちろんあったのだが、リーネはそれとなく何かを隠そうとしているようだった。
あの公園での一件以来、リーネとエターリア国でのことなど時折前世の話はしたりするのだが、公園でのことを聞こうとするとなんとなく場の空気がまずくなると言うか。
リーネは恐らく音色の中で何かを見て、そして起こった一部始終を知っているはずだ。
しかし居心地の悪い雰囲気が流れるのが嫌で、音色はリーネから事情をなかなか聞き出せなくなっていた。

「俺は知ってるんだ。神の力を持ってる、残りの二人を」

音色が言葉に詰まった理由が分かったのか、日和は数回頷いてから話を進めた。
ぴっと己の顔の前に左手の人差し指を立ててみせる。

「一人は宵宮泉、っていう、私立の明英学園がこの辺りにあるだろ?あそこに通ってる、中等部三年の女子生徒。サラの生まれ変わりは彼女」
「……ヨイミヤ?」

どこかで聞いたことがある名前のような気がして音色はふと考え込んだ。

「もしかしてヨイミヤって、YOIMIYAっていうあのブランドの?」
「知ってた?」
「知ってるよ!すごく有名じゃない!」

地平線に細い月がかかっていて、その月の周りを数本の土星の輪に似たリングが取り巻いている。それはYOIMIYAのシンプルかつ美しいロゴマークだった。
自分みたいな凡人でも知っている。YOIMIYAと言えば宝飾系を中心に市場を賑わせ、世界規模で名を馳せている有名ブランドである。
しかしまさかそんな有名な家の、しかも同い年の少女が同じく神の魂を持っているとは信じがたい。なんだか格の違いに気が引けてしまう。

「そしてもう一人は、セルガの生まれ変わり、夜霧空也」

日和は人差し指の次に中指を立てて数字の二を表してみせた。
しかし音色が気になったのはそこではなく、日和が出したその名前だった。

「私、その人に会った」
「だろうな。俺も会った」

今の日和の言葉の後半部分がどこか暗めの調子だったのに遅れ馳せながら気付いた音色は、口の中に残るシフォンケーキを強引に丸呑みして、こわごわとフォークを置いた。

「あ、あの、日和……。その、言い出すタイミングが分からなかったと言うか、えっと、隠してた訳じゃないんだけど……。その人にこの前その公園で、力を、取られそうになっ、て……」

語尾にかけて言葉が弱弱しくなっていくのが自分でも分かった。
今までなんだかんだで空也とのことを隠していたことを、やはり日和は怒っているのかもしれない。音色はちらと顔を上げて日和の顔を見た。

「それは……俺が、話さなかったから……」
「えっ!?」

だがここで弱気になったのは日和の方だった。
さっきよりもいっそう落ち込んだ様子を見せる日和に、慌てて音色は椅子から立ち上がる。

「俺が事前に話しておけばよかったんだ……」
「ううん、私の不注意もあるし!あ、これからは簡単に知らない人についていかないから!」

日和に向かって力強く宣言してみせながら、あれ、と今の自分の言葉に首を傾げる。
まるで小学生への注意事項のようだ。そう気付いたのは言ってから数秒たった、大分後のことだった。

音色が正気に戻ると、机を挟んだ向こう側の日和はぽかんと呆気に取られた顔をしていて、それからぷっと吹き出して笑った。
恥ずかしい。音色は日和が腹を抱えながら笑いを堪えている間に着席した。

「でも……なんで神様の魂が私たちの中にあるの?」

こほん、とまだ笑いの緒を引いている日和を諫めるためにもあえてわざとらしい咳までして言った。
この流れから突拍子もないことを言ってしまったとも思ったが、元はといえば神の魂がリーネたちの代にあったためにその力を巡った争いが起こり、この時代まで影響を及ぼしているのである。

神様など、規模が大きすぎて今まで漠然と「そういうもの」なのだとしか思っていなかっただけに、自分たちがいざその神の魂と力とを持っているとは未だに実感しにくかった。
しかし、使おうと思えば今は莫大な力を己の身体から引き出すことができるのだ。
だからこそ「故意に」この世界に余計な力を加えてはいけないと思う。

「これは俺の推測なんだけど」

音色の問いに、うーんと腕組みをした日和はそのまま難しい顔をして考え込むと言った。

「前世でウィリネグロスが言ってた。サーンたちが生きていた時代に既に神の魂はサーンたちの魂としてあった訳だから、その前か直前くらいになんらかの形で神の魂は分裂したんだと思う。そしてそれがなんらかのルートを通ってサーンたちの本来の魂を押し出して入れ替わった。そう考えれば不思議はないかなとは思うんだ。まあ、神と言う存在を入れるから特殊な宗教観になるんだけど」

日和のその説明が、彼が比較的早口で言ったということもあったのだろうが、音色にとっては微妙に分かったような分からないようなものだったので、とりあえず曖昧に頷いておいた。
そんな歯切れの悪い音色の反応に気付いたのか、日和は苦笑した。

「……最後に」

日和は人差し指を天に向かって立てた、その指先から不意に細い枝がするりと伸びる。
いったいなんなのだろう。目を瞬く音色の前で、日和はまったく自然な動作でその枝を自分の頬に向かって縦に滑らせた。
枝先は一段と細く鋭くなっていて、それは日和の左の頬の上に切り傷となって残った。

どくんと嫌な心臓の音が聞こえてきた気がした。
縦に切り付けられた傷口から、赤黒い血が日和の頬の上を流れ始める。

「神の力は不滅。よって治癒力は生まれ変わったとしても健在。"その異常なまでの回復力は、不滅を称する神のもの"」

数百年前のウィリネグロスの言葉を忠実に言い直しながら、日和はふっと笑った。
一方で頬にできた傷口が見る見るうちに、ゆっくりとではあるが治癒していく。

「ちなみに傷が今までの何倍もの速さで治るようになったのは力が覚醒してから。この春にウィリネグロスからブレスレットを託されてからなんだ。それまでは怪我をしたら普通に傷口は何日も、こんなに速く治るなんてことはなかった」

それは音色も同じことだった。
音色はまだこれと言って怪我をしたことはなかったが、風邪を引く回数は格段に減ったような気がしていた。
ある日には喉が痛かったり微熱があるような身体がだるいような感覚があってもいいものなのだが、四月から、ウィリネグロスから真珠のネックレスを託された時から、そんな不快感は日常から綺麗さっぱり消えていた。
これが神の力が覚醒したからなのだとでも言うのだろうか。

「でもきっと、重傷を負えば助からない。生まれ変わって治癒力は明らかに衰えてる。その証拠にリーネは腹部を貫かれたけど一瞬で治した。でも俺はこの小さい傷を治すだけのことに数十秒から数分はかかる」
「でも重症って滅多に……」
「過去でのことが、この時代でも繰り返されないとは限らない」

それは前世でセルガとサラが神の力を奪うためにリーネとサーンを手にかけた、そのことを言っているのだろう。

―――命を狙われます。

ああ、だからウィリネグロスは出会ったあの時そう言ったのだ。
無闇に他人に真珠のネックレスを見せることで、前世の影響を受けかねない空也か泉に知られたらまずいと彼女は考えた。故にできるだけ隠し通させようとしたのだ。
だが幸運と言うべきか、初めに音色を見付けたのは日和だった。

けれど、どうしてだろう。音色は心の奥で自分自身に強く問いかけた。
なぜこの時代にあっても争わなくてはならないのだろう。なぜ空也と泉といがみ合わなくてはならないのだろう。
音色から見た空也は普通の少年だった。泉という少女にはまだ会ったことがなかったが、きっと一般人が羨むべきほどのお嬢様なんだろうなと思う。それ以上でも以下でもない。

もちろん前世のような惨状が起きるのはご免だ。あの経験はもう二度と味わいたくない。
だがそれ以上に、「神の力」を巡った争いがなにかとてつもなく醜いもののように感じていた。
争って争って、ではその末に残るものは?何も残らないのではないか。そう思った。

音色は自分でもいつ判断したのか分からない内に立ち上がっていた。
テーブルの上のティーセットが立ち上がった反動でかちゃりと硬い音を発した。周囲の風景が早送りの映像みたいに勢いよく動いた。

音色の両手は今やそれぞれ違うものに触れていた。
片方はテーブルの上にあった日和の右手に、もう片方は治りつつある日和の左頬をしっかりと包んでいた。
自分の目と日和の驚いてこちらを見上げる目とが合った。

(……あ、れ……?)

それは自分ではないもう一人の自分が勝手に行動したみたいだった。
今自分が何をしているのかをやっとのことで理解した時、音色は慌てて日和から手を離そうとした。しかしその寸前に、儚い笑みを浮かべた日和の表情に行動が止まった。

「大丈夫だよ」

日和のその言葉が今後の自分たちの運命に対してなのか、それとも日和自身の傷のことに対してなのか、彼のその「大丈夫」がどっちを意味していたのかは分からない。
だがそのどちらだとしても―――。
なにか胸の奥に込み上げてくる悲しさがいっぱいに溜まってしまったような心持ちで、音色は首を小さく横に振り、声を振り絞った。

「私が……つらい」

なにが大丈夫なのか、誰かわかる人がいるのなら教えてほしい。
音色は言葉には言い表せないやりきれなさを感じて、そっと日和から手を離した。
日和の左頬に添えてあった指は、離れるほんの間際に完治したばかりの彼の頬の傷口に触れた。

「空也君たちが、過去のようにしてまで力を奪うかもしれないって、こと?」
「その可能性はなくもない」

椅子に座り直しながら小声で言った音色の言葉に日和も真剣に返す。

「でもそれって一歩間違えば事件にならない……?」
「そこで俺たちの回復力を基準にするんだろうな。あの二人も馬鹿じゃない。回復が追いつくギリギリまで追い詰める、という手法を取ると思うんだ」

前世のように神の力を持つ者を殺して力を奪うのではなく、現世ではあえて自分たちの側に与させる。
そうまでして莫大な力を手元に置きたがる理由は何なのだろう。
音色は何日か前に出会った空也の顔を思い出しながら手元にあるティーカップの中の、赤茶色の紅茶をじっと見つめた。

「どうして力が欲しいんだろう……」

無意識に口から漏れた音色の呟きだけが、この広い部屋の中に吸い込まれて消えた。
日和からの返答はなかった。

「あ、それで、公園でなにがあったか聞いていい?」

話の流れとは言え、なんだか微妙な空気に変わってしまったので、無駄に明るい声で音色は日和にそう問うた。
日和はまたシフォンケーキを、どこぞのパティシエかと疑うほど手早く切り始めていた。

「ごめん。もう少しだけ時間くれないか?」
「え?」
「説明、順序を追わないと俺も分からなくなりそうなんだ。それにまだ不確定要素も多くて」

二個目、いる?と自然な流れで訊いてきた日和に頷いて、音色は戸惑いつつも新たなシフォンケーキを受け取った。
相変わらず買ったようなシフォンケーキの美しさといったら健在だった。

日和でさえ説明に手がかかる、自分の記憶がない間の出来事とはいったい何なのだろう。
この時はその出来事を然程重要なことなのだと考えることもなく、日和がなぜここで言い淀んだのかその理由に気付く訳もなく、音色はシフォンケーキの上品な甘さと優雅な時間を堪能していた。













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06/06/23