第三章  -04









この広大な敷地は、いったい自分の家をいくつくらい放り込んだら埋まるのだろう。
感嘆、と言うよりはむしろ放心したあまり、音色が我を取り戻して緑木家の門を越えるのにはしばらく時間がかかった。

しかし音色が門をくぐるとすぐに、開いたきり微動だにしなかった中世風の鉄柵の門がいきなりガラガラと大きい音を立てて動いた。
音色が驚いて振り返ってみると、門はちょうど音色の背後ピッタリで閉まったところだった。
どこかから見られているのだろうか。音色は不審者だと思われないようにちらりとだけ周囲の様子を伺った。なんとも厳重な防犯設備だ。

(それにしても、これは……)

この数秒間に起こったことから目を逸らすように、音色は顔を正面に戻して一息ついた。
日和が別宅だと言っていた所為で、音色はてっきりログハウス的なものを想像していたのだが、これは完全に予想を裏切られた。
門から家まで辿り着くのにいったい何分かかるのだろう。その絢爛たる姿はテレビでさえあまり見かけない邸宅と呼ばれる建築物に相応しいものだった。

こちらもようやく落ち着いて気づいたのだが、いつの間にかリーネの声や気配は音色の傍から消えていた。どうやら彼女は戻ってしまったらしい。
「戻る」という言葉が適切かはよく分からなかったが、感覚的に、守護霊であるリーネの出現は自分の体の中から「出て」「戻る」という表現が合っているような気がしていた。

「……きれい」

白い砂利で固められた道が門から邸宅まで一直線に伸びている。その道をちょうど半分に分かつ形で、門と邸宅から等距離の場所に横たわっている大きな白い噴水が、音色の目を引いた。
大理石のような白い石造りの、いっそ中で泳げそうなほど大きい噴水の中では、透き通った水が陽光を反射して輝いている。
その中央から天へ向かって噴き上げられる水飛沫はとても気持ちよかった。

しかしいつまでもこうして日和の家の庭を散策しているわけにもいかない。
音色は後ろ髪引かれる思いで噴水から離れると、さらに長く邸宅へ向かって伸びる白い道の上を歩いた。

最終的には、インターホンを鳴らしてから五分くらいは優にかかってしまったと思う。
音色がようやく邸宅の玄関先まで辿り着いたとき、寄り道しすぎたためにもしや自分の存在を忘れられたかもしれないと考えたほどだった。
コの字型を九〇度反時計回りにしたような形の洋風の邸宅の真ん中には、シックなこげ茶色をした両つがいの、これまた大きな玄関の扉が設けられていた。

音色は玄関前の数段の階段を恐る恐る静かにのぼった。
しかしそこでどこかに設置されているであろうインターホンを探したのだが、どこにもそれらしき物は見当たらなかった。
どうやって自分の到着を知らせるのだろう。この堅そうな扉を叩くのだろうか? そんなことを考えながら音色が焦っていると、急に目の前の扉が開いた。

「流水様、ようこそいらっしゃいました」

扉の向こうから姿を現したのは白髪混じりの老年の男だった。
細身にきっちり背広を着込んでいる姿が珍しい。音色は、今の声色からして表のインターホンで応対してくれた人と同一人物だと直感した。

「あ、こんにちは。えっと、日和君は……」
「日和さんでしたら奥でお待ちです。どうぞ、お入り下さい」

招かれて、音色は一瞬判断に戸惑った。
と言うのも、彼が音色を迎えるために身を脇に寄せたときに目に入ったのは、外観を見たとき以上に豪華絢爛な内装だったからである。

まさかここまで来てお邪魔しない、ということはないだろう。
音色は彼に案内されるまま靴を脱いでフロアに立った。というより、立ち尽くした。

玄関は玄関とは思えない広さを有し、見上げてみれば吹き抜けのような高い天井からシャンデリアが吊るされている。
突き当たりの壁は一面ガラス張りになっていて、応接のためのソファやデスクなど、並々ならぬ調度品も輝いているように見える。
右手の奥のほうにある螺旋階段の上部からは暖かい昼の日の光が差し込んで、このフロアを白色の元に照らし出していた。

一応付け加えておくが、音色は生まれも育ちもこの藤波市である。
物心つく前からこの地で生まれ育ったにも関わらず、こんな場所があることを知らなかったことに音色は自分でも驚いた。

「広いんですね……」
「はい。現当主、日和さんのお父様が中世貴族の屋敷をモチーフにしてつくられましたので」

いったいどんなモチーフなのだろう。
音色が心の中で疑問符を浮かべる、その傍で白髪混じりの老人はふっと柔らかく目を細めた。

「わたしは倉石くらいしと申します。なにかございましたら遠慮なく仰ってくださいね」
「あ、ありがとうございます!」

軽く会釈する倉石に、音色も慌てて深々と辞儀をする。

「……音色?」

聞き慣れた低い声に顔を上げると、いつ来たのか、目の前には日和がいた。
いつもと感じが違うなと思ってしまうのは、彼の服装がいつも目にする彼の服装と違うからなのだろう。

学校では黒い学生服の日和の服は、ここでは裾を軽く捲くった白いトップスに紺のジーンズといったシンプルな服装だった。
だが割とセンスはいいし、いつしかの夢で見たエターリアの服装を除けばだが、学生服以外の服を着る日和を見るのはこれが初めてだった。
本当に一回だけ、心臓がいつもより強く拍動した。

「ではわたしはこれで失礼します」
「ありがうございます、倉石さん」

倉石がその場からそれとなく去って、音色はようやく日和が抱えている本に目が留まった。

「これって……日和のお母さんが集めてるっていう本?」
「ああ、けど読み終えた本なんだ。どれもサーンが言っていた本じゃなかったから今から戻しに行くところで、ちょうどよかった」

日和が数冊見せてくれたが、タイトルがもはや異国のものなのでいっそ拒否反応さえ出てしまう。

「それじゃ行くか」
「あ、うん」

微笑んでくれる日和について音色も歩き出す。
まるで博物館のような家だった。埃を探そうとしてもきっと見つからないに違いない。

音色と日和は、先程目に留まった玄関フロアの右手奥にあった螺旋階段をのぼって、邸宅の左側へと進んだ。
目的の場所に行くまでに、廊下越しにずらりと並ぶ何枚もの大きい扉が音色を出迎えてくれた。
博物館と言うよりはホテルのような邸宅だ。音色はしきりに辺りを見回しては目を見開いた。

「着いたよ」

日和が立ち止まったのは、邸宅の左部分の突き当たりにある部屋の前らしかった。
正面玄関から入ってずっと左に進んできたため、恐らくはこの部屋が行き止まりで合っているだろう。
そこは今までのどれよりも大きな扉で、外観からして年月も大分経ているようだった。

日和がその扉を開けた。途端に、暖かな日差しと色取り取りの色彩が音色の視界いっぱいに飛び込んでくる。
音色は、庭で見かけた白い噴水や玄関上部のシャンデリア、それらを含めて考えてもここが一番すごいと思った。

「これ全部……本?」
「そうだよ」
「本当に全部!?」
「色々混ざってるけどな」

日和が扉を開けた場所、そこは本ばかりが所狭しと並んでいる広い部屋だった。
図書館の一室みたいな内装に、壁伝いには本棚が天高くそびえ、しかも天井というものが普通の部屋の二、三倍あるものだからなおさら驚愕せざるを得ない。

近くの本棚に綺麗な背表紙の本を見つけた音色は、いつの間にかそれを手に取っていた。
深緑色の表紙には独特のタッチで極彩色の草花が描かれている。だがとても繊細な本だ。

「わ、この本きれい!」
「それは……アラビア文学だな」

音色の肩越しにひょいと日和が覗き込んでくる。
何万冊もの本の中からその本を取ってページを捲った音色は、中身を見て今の日和の言葉に納得した。
どんなページの一字一句はやはり少しも読めない、まったくもって解読不能なのだ。いや、それならどうして――。

「ねえ、日和」

確かここにあるのは日和の母が集めた異国の伝記や神話などで、日本語で書かれたものではない。
それなら同じ外国の分野に入りエターリアで書かれた本など、英語さえ危うい自分に読めるはずがないのではなかろうか。
音色が抗議しようとすると、日和は近くの本棚から抜いた一冊の分厚い本を手渡してきた。

「それ見て」
「え、これ? この本?」

音色は日和から手渡された褐色の分厚い本を、不思議に思いながら捲った。
その本にも例に漏れず、先程の深緑色の本と同様に見たこともない文字が書かれていた。
だが根気よく紙の上の黒い文字を目で追った音色は、あることに気づいた。

「"見渡す限り、青い水平線は天と地を分かち、さらにその境界目がけ黒い鳥がゆっくりと飛んでいく。"――って、あれ」

音色は異国の黒い文字を震える指で恐る恐るなぞった。
ゆっくりではあるが、分かるのだ。読むことができる。身体がすべてを知っているように、自分の口を通じて言葉が自然に流れていく。

「どうして? 私、日本語しか知らないのに……」
「その本はエターリアに近い場所のものなんだ。えーと、言語系統が似ているというか」
「え、エターリアがあった場所分かるの!?」
「前世の記憶だったり、サーンからエターリアの特徴をいくつか聞いて見当つけたりして、大体は分かってるんだ。その証拠にエターリアに近い場所の昔の言語なら読めるからほぼ確実かな。とりあえずよかったよ、その本を読めるの俺だけかと思ったから」

苦笑する日和に、やはり彼は行動そのものが早い、と音色は感心した。
やはりサーンの記憶と日和自身が憶えている前世の記憶が大きな救いになっているのだろう。

「こう言う私たちが読める本って結構あるの?」
「まあこの部屋の中で三分の二くらいはあるだろうな」
「さっきの『アラビア文学』とかは?」

音色の問いに、日和はうーんと考え込んでからすっと肩を竦めた。

「あるにはあるんだろうけど、揃ってるのが各国の稀な書物ばかりだから、ジャンルとしては数は少ないかもな」

それほど稀な書物を、日和の母はいったいどこから探し出してくるのだろう。
それにしてもこの膨大な数の書物の中から一冊を選び抜くのは、聞いてはいたのだが途方もない。

「あ、確立計算してみようか。何冊目でサーンが言っていた例の本を見つけられるか」
「……結構な確立になるだろうな」

終着駅までの道程は、遠い。













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06/06/16