第三章  -03









自己最短記録更新だ。予定より早めに家を出てきて正解だった。
遊歩道沿いに背の高い木々が植えられた、今時の綺麗に整備された大通りは、日曜日の昼間だからなのか交通量もいつもより少ない。
だがその傍らで、音色は何度も何度も首を傾げていた。

音色の右手には白いメモのような紙が握られている。
その紙の上では黒い線が様々に交錯したり湾曲したり、思い思いの形を描いていた。

「えーっと待って、ここがあの道路だから……。あれ、ここってさっき通らなかったっけ」

それはもう地図としての役割を音色に与えてはくれなかった。
彼の家までの道程が少々複雑だと言うこともあるが、一度も行ったことのない場所では地図は所詮目印にすぎない。

あまりにも早く訪れた日曜日は、まだ音色の中に実感としてない。
こうして日和の家に向かっているのだと言うことも、この手元の地図がなければ幻だと思ってしまうだろう。

天を突くような青空が目に痛い。夏に近付いてきた証拠か、木々たちは身に纏った緑の葉を騒がせている。
音色は少し考え込んでから数秒その場に固まった。目の前の大通りを車が一台、動きも滑らかに通過して行った。

(よし、とりあえずこれでよしとしよう)

地図と現地を何回見比べても埒が明かないのはこの何分かの間に立証済みだ。
音色はとりあえずこの地図通り律儀に足を前へ進めることにした。

「でも……やっぱり間違えたかも。この地図じゃ、もう着いてもいい頃なんだけど……」

ぶつぶつと独り言を呟きながら、音色はじっと地図を食い入るように見詰めた。
実はこの地図、日和お手製のものだったりするのだが、正直ここまで迷うとは思わなかっただけに驚いてしまう。
やはり自分の理解度が低いのだろうか。なにせこの地図の細かなことと言ったら、本物の地図よりも見やすかった。

―――これで家まで着くはずだから。

一向に着く気配がないんですけど。
金曜日の授業の終わりに手渡してくれた地図と日和の言葉を思い出しながら、音色は更に項垂れた。

紙には、今歩いている大きな通りのことだろう、一直線に黒い線が引かれている。
そのちょうど真ん中くらいの場所に四角く囲まれて黒く塗り潰されている箇所がある。
それが日和の家なのだと分かるが、さっきから大通りを歩いているというのに家らしきものはまったく見られなかった。

道路の反対側には様々な色形をした住宅が建っている。
しかし大通りを挟んだこちら側には、驚くべきことに家と呼べるものなどなにもない。
広い歩道を歩く音色の横には、ただ黒く細い柵が連綿と続いている殺風景な風景しか見受けられない。

この柵の向こうは恐らく広大な緑地公園なのだろう。
ちらちらと垣間見える柵の向こう側の風景は多くの緑で溢れていて、まるで平和の象徴ともいえそうなほど幻想的だった。

(案外しっかりしてないんだ……)

音色は地図を見詰めて、それから日和を思い出して、ぷっと吹き出した。
今まで日和のことはなにかと完璧な人間だと思っていたから、余計におかしかった。

もしかしたら日和も少々方向音痴だったりするのかもしれない。
だから地図もちょっと方向や位置がずれてしまって、それで日和の家がなかなか見付からないのかもしれない。
日和と交わした約束の時間まであと十分だということも忘れて、音色は悠長に歩きながらそんなことを考えた。

『音色』

急に頭の中に現れた声に驚いた。もちろん顔を上げても誰の姿もない。
音色はそこでようやく、他の誰でもないリーネが心の中から声をかけてきたのだと理解した。

『ここですよ、彼の家』
「え?」

リーネに言われなければそのまま通りすぎてしまっていただろう。
音色はリーネの指すまま足を止めて辺りを見回して、そして絶句した。

まさか、何かの冗談ではないだろうか。
今までこの柵の向こうは緑地公園だと思っていた。だが、その緑地公園の敷地は公園にしてはあまりに不自然だった。

音色はいつの間にか「緑地公園だと思っていた場所」の正面に立っていた。
しかし眼前には何故か自分の身長の倍以上もある、見上げてしまうほどの大きな黒い鉄柵を備えた門がそびえ立っている。
中世ヨーロッパを感じさせる柵の間から敷地内の様子がうかがえるが、音色はそれよりもほとんど言葉を失ってどうにもできなくなっていた。

手元の地図をぴらりと持ち上げて、何度も何度もしつこいくらいに地図と現物を見比べる。
ピッタリだ。信じたくないくらいに、奇妙なほど位置が一致している。

日和の家はどうやらこの、さっきまで音色が緑地公園だと思っていた敷地そのもので合っているらしかった。
よく見てみれば門の横にインターホンや表札までかかっている。
ここは間違いなく公園などではない、人間が住む家だ。柵の向こうに漫画でしか見たことのない立派な邸宅が見えて、やはり、と思わざるをえない。

『音色、どうしました?』

どうしたもこうしたも、この状況をどうすればいいのか、そっちを教えて欲しい。

「待って、リーネ。日和の家ってまさか本当に……ここ?」
『はい。確かに日和の気配と力はこの向こうから感じます』
「でもこれ、家って規模じゃないって。あ、もしかして何かの間違いじゃ……」

そう言いながら目に入った柵の横の表札には、あろうことかきちんと「緑木」と名が掲げられていた。
ああ、逃げ出したい。日和と初めて会った時以上に、この場から全速力でお暇させていただきたい。

「……あの、さ。私やっぱり場違いかも」
『どうして?彼の家に招かれているのですから』
「うん、そうなんだけど……」

リーネが不思議そうに訊ねてくる。
音色はそれでも門の横の、いかにも高価そうなインターホンを押そうなどとは微塵も考えなかった。

緑木家の前にしばらく立ちつくしていたからなのか、近所の人が不審そうな目でじろじろこちらを見ては去っていく。
音色はもどかしい気持ちで、けれどどうすることもできなくて、ただ門の前で行ったり来たりを繰り返した。

『ここまで来て引き返すのは大変でしょう。それに約束の時間ぴったりですし』
「いや、その……。あ、ちょっと具合が悪くなってきたような……」
『彼が待っていますよ』

よく考えてみれば、一般人には見えないリーネと普通に会話をしている時点で超不審人物だろう。
音色は泣く泣く胆を据えて、インターホンにこわごわ指を伸ばした。
四角いボタンは少し硬い感触がして、インターホンは静かで厳かな電子音を発した。が、それきり沈黙した。

「……やっぱり帰った方が」
『いけません』

リーネの、優しくも厳しい口調で音色はすっかり撃沈させられた。
仕方がない。そもそも誘ってくれたのは日和なのだ、こちらが気にするべきではないだろう。

しかしインターホンを鳴らしたきり応答がまったくないことに、だんだん不安になってくる。
音色はさっきまでの焦る気持ちを忘れて、じっとインターホンの滑らかな形を見詰めた。
するとかすかに、インターホンの向こうで何かの動く音がする。

『はい、どちら様でしょう』

ようやく答えたのは渋みのある、男の人の声だった。

「あ、あの、日和君と同じクラスの流水と言います」
『ああ流水様ですね。お待ちしておりました。門を開けますので、少々お待ち下さい』

もっと職務質問的なものをかけられるのかと意気込んでいたのだが、それはどうやら杞憂で終わってしまったらしい。
あっさりと受け入れられて、なんだか出鼻を挫かれた気分だ。

『どうぞ、お入りください。流水様』

彼の一言の後、大きい黒い鉄の門は真ん中で綺麗に分かれ、誰の力も借りずにゆっくり開いた。
同時にさっきまではあまり見られなかった敷地の全容が見て取れる。

目指す邸宅はここ門から随分と離れた場所に堂々と天を仰いでいた。
それはまるで中世の一貴族の屋敷のような絢爛さで、右と左にそれぞれ小さな塔があり、上から見ればコの字型をしているだろうなと予想がついた。
更に邸宅へと続く道の両脇には綺麗に刈られた木々が等間隔で並んでいて、そして道のちょうど真ん中には大きな白い噴水までもがある。

(……なに、これ)

確か日和は、ここ藤波市にあるこっちの家は本邸とは別の、単なる別邸なのだと言っていた。
だがこの規模ははっきり言って「別」どころではない。普通の家をも軽々上回っている。

外側から見て緑地公園だと勘違いできるほど、家をぐるりと取り囲む柵伝いに木々や低緑が植えられている。
起伏の変化なく広がる綺麗に借り入れされた芝も、その真ん中を、噴水と家を一直線に貫く白い道も、なにもかもが未知の領域。

―――緑木家は確か日本でも五本指に入るくらい大富豪の名家だったはずよ。

雑誌でちらっと見かけただけ。そう雫は言っていた。
だが問題なのは雑誌でちらっとというそこではない。

(……名家、って、こういうこと?)

音色はただ呆然と開いた門扉の前に立ち尽くし、更に数分間、幻のようなその光景を眺め続けた。













BACK/TOP/NEXT
06/05/30