第三章  -02









恰好いいとか憧れだとか、そんなありふれた言葉で表せる感情ではなく。
そもそもその感情や気分を人間の言葉に変換した途端、それが何か一つのまとまった、別なものにすり替えられてしまうような気がしていた。

「緑木君とあんた、付き合ってるの?」

だから雫にそう訊ねられた時、正直何と答えたらいいのか頭の中が真っ白になった。
音色は驚いて横を歩く雫の顔を見て、それから彼女の言葉が何を意図したかを悟り、慌てて辺りに視線を走らせた。
だが放課後のこの時間帯、閑静な住宅街の間を伸びる道には、家へ帰るために駆けて行く子供以外あまり人影は見られなかった。

「えっ?」
「え、って……。答えはイエスかノーか、単純に二択よ」

呆れ顔の雫は、肩を竦め渋々と助け舟を出した。が、それが助け舟と言っていいのかどうかは判別しかねる。

「あ、ありえないって……」
「あら。そう?」

苦心した末に呟いた言葉は十分返答条件を満たしていたはずだ。
だが雫はどこか物足りなさ気に眉をひそめつつ口先を尖らせた。
勘の鋭い雫のことだ。もしかしたら公には幼馴染と偽っている日和との関係を見透かされたのかもしれない。

まさか前世に関係があるとまで考えは及ばないだろうが、いったい何が疑わしかったのだろう。
やはり日和と幼稚園が同じという点がまずかっただろうか。親同士が旧知の仲、と言った方がまだよかったかもしれない。
音色がぐるぐると混乱する頭を抱えて歩き出して数分後、雫はまた唐突に口を開いた。

「緑木君の家に行くとか何とか?さっき話してたじゃない?」

その言葉が悩む音色に更なる追い討ちをかけた。
まさか聞かれていたとは、気付かなかった。確か日和はあの時かなり周囲に気を配っていたはずで、すると雫はどこから聞いていたのだろう。
地獄耳なのだろうか。悩むどころかぼんやりそんなことを考える音色からはもう聞き出せないと思ったのか、雫はふうと浅い溜め息をついた。

「てっきり音色と緑木君がそんな仲になったのかと思ったわ。残念……」
「ちょっと待って!残念って!?」

落ち込んだふりを見せる雫はこちらを顔色をうかがうとにっと笑った。その妖艶なまでに美しい笑みが今では寒気を感じるもの以外の何物でもない。
音色は慌てて首を横に振った。

「ないない。それこそありえません」
「ふうん?」

とてもありえない。ありえないことなのに、なぜか顔が熱くなっている気がする。
雫の言葉にいちいち翻弄される自分に恥ずかしさを覚えてしまう。

「そんな関係じゃないんだったら……その日、私も行っちゃおうかしら」
「あ、うん、いいよ。じゃあ私から伝えておくね」

どうにか誤解を解けたらしい、と思うと同時にほっと気分が落ち着いた。火照っていた頬の温度も一気に引いていった。
公園でのことも聞く予定だったが、後回しにしても日和の性格からして怒るということはまずないだろう。
音色は肩の荷が下りたような軽やかさで、隣を歩く雫に何時集合にしようかと相談するため振り向いた。

しかし振り向いた先にあった雫の眉間の皺は、いつもより数倍深く刻まれていた。
ぶすっとふてくされた顔で、じっと顔を覗きこまれている。
音色はたじろぎながらも笑顔を崩さずに小首を傾げた。

「な、なに?」
「……やっぱりいいわ。なんかもうそこまで無自覚すぎると逆に嫌になってくる」
「え?」

何故かは分からないが、疑いをかけられている。そう思った。
雫はだらりと気の抜けた腕を持ち上げて、それを頭の上でひらひらと振る。そしてそのまま音色の帰り道とは別の道を歩き出した。

「なんでもなーい。せめて変な男に引っかからないようにしなさいよー」
「声大きいー!」

まるで自分の男運が悪いみたいな言い方ではないか。
音色はさっきよりもいっそう広範囲に視線を走らせながら、去り行く雫の後ろ姿に向かって小さく静かに抗議した。

しかしここで一息つくべきではなかった。
それから無事、何事もなく家路へ着いて玄関の扉を開けて「ただいま」を言った、そこまではまだいい。
だがその玄関の扉を開けた途端、奥のキッチンでどうやら夕食を作っていたらしい温子が、わざわざ出迎えに来た時の驚きと言ったら半端ではなかった。

「はい」
「はい、って?なに?」

当然の如く手を差し出してくる温子に、音色は玄関でローファーを脱ぎかけた姿勢のままぴたと固まった。
普通温子はわざわざ我が子を迎えに出てきたりしない。だが今日のこの豹変振りとこの手は、いったい何事か。

「一学期末テストの結果、今日返ってきたんでしょ。はい」

ずい、と胸の先まで手を突き出されて、音色は思わずうっと返答に詰まった。
どうして、どうして知っているのか。テストは返ってきたら温子の機嫌のいい時を見計らって渡そうと考えていた、もちろん返却日を報せた覚えはない。
焦って考えても記憶の綻びは見付からない。

「な、なんでそれ知って……」
「さっき買い物に行ったら偶然雫ちゃんのお母さんに会ってね、今日が返却日だって言うもんだから、お母さん驚いたわよ」

もしや今日は雫に憑かれているのだろうか。音色は雫の名を出されて一気にこれが現実だと思い知った。

「隠していたのはこの際言及しないから。はい、とっとと渡す」
「はい……」

できるだけテスト結果のことは考えまいと思っていたのに。
音色はローファーを脱ぐと、渋々鞄の中からファイルを取り出し、その中に挟んである一枚の白い紙を取り出した。

温子はそれを淡々と受け取ると素早く隅から隅まで目を通し始める。
昔はテスト結果にいちいちこだわるような性分ではなかったような気がするのだが。音色は温子の反応を気にしながら考えた。
前はもっと大らかだったと言うか自由放任主義だったというか、とにかく勉強にあれこれ口出しをするのは最近になってからだった。

つまりそれは換言すると、受験が近いから。
音色の通う咲が丘中学校は併設されている咲が丘高校に内部進学が可能だが、成績が悪いと容赦なく落とされる。
音色は温子と自分たちの間になにか暗い雰囲気が漂っている気配を感じて、心の中で重い溜め息をついた。

「なに、姉貴赤点取ったの?」
「うるさい!ちゃんと平均行ったわよ!」
「平均行ったって……理数系ギリギリじゃない」

はあ、と溜め息をつく温子の横で、突然二人の間に割り込んできた少年はにんまりと嫌な笑みを浮かべた。
あとで仕返ししてやる、と考えることで音色は怒りを辛うじて抑え込んだ。

「……りつ、覚えてなさいよ」
「べっつに。ただ訊いただけだもん」

年齢の割りに可愛げのかけらも見せない少年は、こちらも無愛想に顔を背けてリビングへと姿を消した。
本当に我が弟だろうか。音色が律と呼んだ少年は正真正銘小学四年生、十歳であるはずだった、そのはずだ。
だが彼の性格はこの家系に似合わないほどの冷静沈着ぶり、そして余計なところでませている。

あとでなにか告げ口でもしたらこちらも対策を考えなければ。
音色はリビングの奥にじっと目を凝らして、今は消えた律の小さな姿を間接的に睨み付けた。

「このまま咲が丘の高等部に進学できるのかしら……」

横から聞こえた温子の呟きに、音色は驚いて振り返った。

「できるよ!先生だってあともうすこし頑張りなさいって」
「もう少し、ね。もっとガツンと蹴落としてくれてもよかったのに……」

実の娘になんというむごい言葉を。しかし温子の静かな叱責はそこで終わりを迎えたらしい。
そのまま、はい、とテストの結果を普通に返されて、音色は面食らったような心持ちと共に受け取った。

「その文系の快挙が理系の方に転がらないものかしらねえ」

やはりこのまま終わる気は無かったらしい温子のダメ出しに、音色はちらと手元の紙を見た。
確かに今回は思いがけず文系科目が健闘していた。お陰で理数系科目が平均ギリギリでも、なんとか成績を滑り止める役割を担ってくれたようだった。
すると玄関から消えたはずの律の顔がまたもひょっこり廊下に現れた。

「ねえ母さん、宿題なんだけどー」
「母さんは手伝いませんよ。自分でできないの?」
「だからあ、学校で環境問題やっててー家のゴミの総重量を量るんだってー。一週間」
「一週間?家のゴミ全部?」
「当たり前じゃん」

宿題か、そう言えば小学校の頃の宿題は今思えば案外気楽で簡単だったような気がする。

「あー小学生が羨ましい。宿題がそんな簡単でー」

音色が二階の階段を上がる前にそう愚痴を零すと、リビングから顔を覗かせた律はむっとして言った。

「じゃあ代わりにやってよ」
「イヤ」

今の返答は自分でも気持ちいいくらいにスパッと決まったと思う。
律のあの反論しようとしてそれでも反論できない難しい顔を見て気分がスッキリした。いまのところ口喧嘩ではこちらが二十九勝五敗の好成績をキープしているのだ、だてに律の姉をやってはいない。
階段を上る途中の心の中でぐっと拳を握りながら、まあ今の件を差し引いてさっきの律の不躾な態度は忘れてやってもいいかなと考えて、音色はこっそり苦笑した。













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06/05/30