第三章  -01









「今週の日曜?」

音色が言われた言葉をそっくりそのまま返すと、日和はそうと言って頷いた。

「そろそろ例の本を見つけないとさすがにまずいかなと思って」
「それは……そうだよね」

本当は別にそうでもない、と答えるところだったが、垣間見た日和の顔を見て咄嗟にフォローの言葉が口をついて出た。
今の日和の疲れ切った顔にはありありと、サーンの所為で寝不足、と書き記してある。
それとどことなく彼の瞳が死んでいるのではないかと思わせるほど曇っているのは気のせいだろうか。

だが音色にとってのリーネは、まるで常に傍にいる女友達のような感覚だった。
前世、現世と言っても考えはまるで違うし、それになによりもリーネは天然だ。
恐らくは彼女の生い立ちの影響だろう。自分と話すときでさえ敬語ばかり使うリーネと一緒にいるとそれだけでどこか楽しかった。音色はそんなリーネの顔を思い出して、こっそり口元に微笑を浮かべた。

「ようやくこっちの手が空いたと言うか、家が静まったというか……」

こちらの表情に気付かない日和は、眉間に皺を寄せたまま胸に溜まる鬱憤を吐き出すかのような口調で呟いた。
そのどこか不自然な言葉に、音色の思い出し笑いもすっかり収まる。

「でもまだ立て込んでるなら、後延ばしでもいいよ?リーネもあんまり焦らないし」
「大したことじゃない。母親の療養だけだから」
「え……病気?」

音色の心配そうな視線を受けた日和は、小難しい顔をしてしばらく考え込むとゆっくりと口を開いた。

「……まあ、そういうことになるかな。でもまあ、俺の家の蔵書調査は単に手始めで、他にも幾つか古い書物を持ってる書店とか個人とか一応リストにしたから。終わったら次ここ回って行こう」

はいこれ、と極普通に一枚の紙を手渡されたはいいが、音色は紙面を埋め尽くすその文字の小ささを目にした途端思わず眩暈を覚えた。
ざっと見ただけでも後半からは英字や見たこともない国の言語が連なっていることからして、日和はあえて言わなかったが、恐らく彼は文字通り隅から隅まで、世界規模で調べたのだろう。

手伝えなくて本当にごめんなさい。
口にするのは少し恥ずかしかったので、音色は心の中で強く呟いて懺悔した。

「あ、一つ訊いてもいい?」

そろそろ昼休みも終わる時間だ。
他の生徒と同様、自分の席へ戻ろうとしていた日和を音色は慌てて背後から呼び止めた。

「えっとあの、この前の公園でのことだけど……。理由、知ってる?」

ここであえて疑問形にしたのは、肯定するように言うと口調がきつくなってしまうだろうと懸念したためだった。
理由知ってるんでしょ、なんてとてもではないが言えた義理ではない。

リーネはあの件以来、それとなく理由を訊こうとしてもただ首を横に振って曖昧に笑むだけになった。
しかしあの時、なにかがあったくらいは分かっている。
セルガの後世である空也のことも、その時の自分の記憶が少し朧になっていることも、すべてが不可思議のままだ。

それにここ何日かに渡って続いていた日和の「行き過ぎた付き添い」までもが、今となっては自然消滅していた。
だがなによりも、自分が記憶を失っていた数分の間に起こって消えたもの、それがどうしても知りたい。

「あー、それさ……」

周囲の人間が誰もこちらの会話を盗み聞きしていないことを確認してから、それでも日和は顔を寄せて声を潜めて言った。

「それも日曜ってことで」
「分かった」

他人に聞かれては色々とまずいことがあるということらしい。
それならば無理に言及しようなどとは思わない。どうせ話してくれるには違いないのだから、それまで待つのも苦痛ではなかった。

大丈夫、と日和に笑みかけたので彼もそれで納得したのか、それきり何も言わずに自分の席へ戻って行った。
音色も窓際の自分の席についてから横を向き、外をぼんやりと眺めて小さく息をついた。

リーネとサーンは人間ではない、守護霊。
その事実を今の今まですっかり忘れてしまっていた訳ではない。が、やはりどこかで忘れていたのかもしれない。
例の本を見付ければ自分たちのこの特異すぎる能力は神の下に還り、そしてリーネとサーンの魂も昇天する。

前世のことが現実に侵食してきて戸惑ったこともある。
だがリーネたちと過ごす今はとても楽しかった。すんなり受け入れられたことが奇妙なくらい、それが今や「普通」になってしまった。

音色は何故か心の底が焦ってきたようで、思い余って机の上にがばと突っ伏した。
いつかは消える。リーネもサーンもある日を境にして目の前から消えていなくなる。そして繋がりを失った日和も自分の前から姿を消す。
日和がこの学校やこの土地に住んでいるのは恐らく、音色と例の本を見付けなければならないからだ。それだけだ。

そう考えた時、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように苦しくなった。
まさか、寂しいとでもいうのであろうか。音色は驚いて自分自身に問うた。
だが何が心残りなのかというところまで辿り着くと、不自然なほどそこで思考はぴたりと止まった。

(……何が、嫌なんだろう)

すっかり他人ではなくなったリーネやサーンと別れることが辛いから?
それもある。実際、リーネとは過去を知った時から文字通り一心同体、彼女の名を小さくでも呼べばすぐにリーネが傍に立っている。
だが音色は散々躊躇った挙句、それが少し違うような気がして首を傾げた。何がそれまでに気がかりなのだろうか。

その時ふっと唐突に、眼前を誰かの残像が横切った気がした。
明るい色の髪の毛。第一印象は鋭くて真面目なのに、時折見せる笑顔がほんのり暖かい陽だまりのような―――。

「あ、ごめんなさい。お昼休みもあとちょっとで急なんですけど、文化祭の出し物を決めたいと思いまーす!」

勢いよく教室の前のドアを開け放ち飛び込んできた少女は、駆け込んできた勢いのまま教壇の前に立った。
肩まで届くくらいのセミロングの髪が全速力の賜物かあちこち逆立っている。
音色はそこではっと正気に戻り、今少し掴みかけた何かを再び靄の中へと手放さざるを得なかった。

「ヤマノちゃーん。それって今日で確定?」
「じゃなくてちょっと事前調査みたいな?案と決だけ採るんで軽く考えてください!それだけ!」

ずれていた赤縁眼鏡の真ん中を人差し指でくいと押し上げて、ヤマノちゃんと呼ばれた少女、三の五の学級委員長こと山野陽子やまのようこは笑いながら明るく言い放った。
廊下から教室に集まりだしていた生徒はいったいこの騒ぎは何事かと顔を輝かせながら席に着く。

「今配ってる紙には去年とかその前の年の出し物の例があります。あ、もちろん新規に出してもらってもオッケーです!」

レク団体はありとあらゆる名前がずらりと並んでいた。よくもこれだけの発想力があるものだと感心してしまう。
一方の食品団体はジュース販売、お菓子販売、喫茶店などが例年多く見られる。これがオーソドックスで無難だろう。
音色は前から回ってきた紙を眺めながら、数年前はこんなものがあったっけ、とどこかあの文化祭独特の匂いが蘇ってくるような気がしてふと何とも言えない感情にとらわれた。

「文化祭、ねえ……」

横を向いてみれば、いつの間にか自分の席についていた雫が、回ってきた紙を目の前に翳しながらぽつりと儚げに呟いた。

「もうそんな季節なんだね」
「最近時が経つのがこう、早くない?まだ球技大会だって始まっていないじゃない。でも……私は食べ物関連以外なら何でもいいけど」
「あ、雫。去年売り子に借り出されて大変だったからでしょ」

隣の席で雫がこれ見よがしに大袈裟な溜め息をつく。
だが確かに、去年の雫の借り出されっぷりは相当なものだった。そのお陰で売り上げは飛躍的に伸びたのだが、雫の仏頂面も時間と共に凄まじく変化して言ったことを考えれば手放しでは喜べない。

「レク系がいいわ。一発で終わるような」
「一発?」

突拍子もなく紡がれた雫のやる気のない言葉に、音色は思わず吹き出した。
一発で終わるようなレクはそうそうないのではないか。
じっとりと不審そうな雫の視線を受けて、音色は誤魔化すためになんとか苦笑を堪えつつ手元の用紙を眺めた。いったい今年は何をやるのだろうと考えれば、少しだけ心が弾む。

「……演劇?」

ふと耳に飛び込んできた声が音色の意識をすべて掻っ攫っていった。
音色はちらと僅かばかり肩越しに後ろを盗み見た。そこでは日和が難しそうな顔をして紙を一心に見詰めている。

そう言えば日和は転入生だ。彼がこの学校に慣れすぎているせいで忘れていた。
他校はどうなのかあまり知らないが、咲が丘中学校では文化祭は学校の一大イベントとも言えるほどの盛況ぶりで有名だ。
特に演劇部門はそのクラスの人間の素質が問われると囁かれるほどである。言うまでもなく、精鋭揃いの演劇部は部員がそのまま高校に進学しても同部に所属するケースが多く、レベルが高い。

「そ、演劇!体育館のステージ使ってやるの、毎年何クラスかがやるんだよ!」
「ふーん?」

通路を挟んだ日和の隣の席の女子生徒が待ってましたとばかりに身を乗り出して、身振り手振りを加えて説明した。
日和はその度に感心したり笑ったりととても多くの表情を見せる。そんな様子を見てずきんと心のどこかが軋んだ音を立てた。

「演劇部も勿論やるんだけどね、毎年すごいの」
「へえ」
「衣装とかメイクとか本格的で配役も恰好いいし、前売り券も当日券もすぐに完売。……あ、緑木君なら王子様役とか似合いそう」

そこまで言った彼女は急にはっと顔を強張らせるとガタンと椅子ごと後退りした。

「そう、似合う!緑木君なら似合う!」
「え?いや、俺似合わな……」

制止しようとする日和を完全に無視して、彼女はすっくと立ち上がると真っ直ぐ天に向かって手を挙げた。

「はいはい!演劇っ!演劇に入れて!」
「あっ、私も一票!」
「ちょっとずるい!それ早く言ってよ!」

広い教室の中であちらこちらから次々に手の花が咲く。
それはあまりにもあっという間に始まって、あっという間の速さで幕を閉じた。

「えーっと……演劇が過半数近いんですが、他に案ありますか?」

黒板に正の字を書き終えた陽子が教室全体を、気のせいか頬に冷や汗を垂らして、ぐるりと軽く一回見回す。
だが誰も一言も漏らさなかった。普段は誰か一人くらいおどけてみせる生徒がいるのだが、彼らもどうやらこの重圧に圧されているらしい。

怖い。音色は中ほどの席だったが、それでも前後からの無言の威圧を全身に感じた。
隣を見れば雫はこの現状を面白がっているのか口元を緩めて、しかも今の騒ぎに乗じて手を挙げているではないか。
ダメだ、雫が楽しんでいる時ほど現実はそのままノンストップで進んでいく。過去の経験が雄弁に物語っている。

「じゃあ私たちのクラスは第一希望『演劇』ってことで、一応出しておきます。え、えーっと、また後で変更とかできるので……」

最後にそう付け加えたのは彼女なりの心遣いだろう。
日和支持者が強者の立場にいる現在、ひとりくらい「喫茶店やりたい」と言ったところで容赦なく潰される。冗談ではなく。

スピーカーから流れる軽やかな本鈴が教室中に鳴り響いた。
これでおしまいです、と強引にその場を締めた陽子は慌てて教壇から飛び降りて自分の席に着く。同時にドアが開いて、次の授業の教師がいつもと同じ少し微笑を湛えた顔で入ってきた。

(演劇、確かに一日で終わるって言えば終わるけど……)

雫の要望がある意味達成されたというべきだろう。
恐ろしきは雫の予知能力、いや未来変動能力。ひょっとすると自分が持つ神の力よりもすごいものなのでは、とさえ思う。

一斉に教科書のページをめくる音が辺りの空間を占めた。
三年目にしてまさか演劇をやることになるとは。まったくの新境地だが悪くはない。音色は黒板に英字を書いていく教師の背中をじっと見ながらそんなことを考えた。
しかしふと日和のことを考えた時、あれ、と思った。

(まさか、現代でもオウジサマ……?)

この時の音色の予感が見事当たるのは、それからまた後の話。













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06/05/25