艶やかな腰まで届く長いストレートの黒髪が、ふわりと風に乗って舞い踊る。
髪と同じ色をした黒い滑らかな黒曜石を思わせる澄んだ瞳が、じっと、遠く離れた場所の二人を見詰めていた。

彼女が着ているのは白いラインの入った黒いセーラー服。
胸元には繊細な金細工の校章が付けられている。それは紛れもない私立明英学園中等部のもの。
彼女はそうして彼らを注視した後、さっと踵を返してそのまま近くの狭い路地に入った。

(……流水音色)

時間が止まった時、驚いた。
空也のものでもない、一度面識があった日和のものでもない。それはまったく異質のものだった。
今までに感じたことの無い気と力、それが空間を捻じ曲げていくあの恐ろしい感覚。

(あれが神の……依り代……)

恐らく彼らは気付いていない。
神は消えた訳ではない。分裂した魂の内の一つに己を滑り込ませて、今も尚ある一人の人物の中で眠っているだけなのだ。









第二章  -21









カチカチ、と小刻みに時を刻む音だけが暗い部屋の中に木霊する。辺りには漠然と闇だけが広がっている。
空也は部屋の電気をつけようなどとは思わなかった。
そもそも明かりは色々と面倒にも思えていた。今の気分では、目障りな照明などない方が楽だった。

広い自分の部屋でただ同じく大きい机に肘を突いて、ふっと物思いに耽る。
そうしているとつい先程の凄惨な光景が、どこからともなく臭いまでもを伴って蘇ってきた。

あの音色の顔を覗きこんだ時の、身体中が総毛立つような力の威圧。
思い出しただけでも腹を抱えて笑いたくなる。すぐに人格が変わった音色に軽々と吹き飛ばされたあの時、恐らく肋骨の一つ二つは軽く折れていただろう。
これで神の魂が入っていなかったら最悪だ。まず病院行きは免れなかった。

―――あなたに神の力は御せません。

一瞬の間に音色は姿を変えていた。
さっきまでの彼女の呆気にとられた表情はどこへやら、こちらに恐怖を感じさせる雰囲気さえ醸し出していた。
恐らく彼女の声ではない、音色の口から紡がれるその声色は、今までに聞いたことがないくらい凛として澄んでいた。

なんだ、お前。
絶句しつつも空也が彼女にそう問うと、彼女は再度ゆっくりと口を開いて言った。

―――破滅を呼ぶのは破滅のみ。破滅の次に訪れるものは何もない。だからこそ私は、破滅させてはならない。

この世のものとは思えなかった。
音色とは違うその声色も澄んだ瞳の色も何もかも、あれはまるでそう、言うなれば「神」だ。

何が腹立たしいかと問われれば、神の核は彼女の元にあるということだ。それだけが何よりもこの苛立ちを募らせた。
なぜ自分ではなく泉でもなく日和でもない、音色の中に宿ったのか。なぜ前世と同じ器を選んだのか。
神はそうやってこちらを、いやそもそも人間の歴史自体を嘲笑っているのだろうか。

『……空也』

いつの間にか背後に現れていたセルガが、すっと辺りに冷たい視線を走らせながら口を開いた。

『何を躊躇していた?俺の力を入れれば良かっただろう』
「……さあな」

だがたとえ自分の守護霊の力を入れたところで、結果は同じだったように思える。
恐らくあの場に出くわした者だけが知るのだろう。
本当の神の力を自由自在に操ることの意味、それらを統治することの重要さを。

すっかり黙り込んだ空也を見て、セルガはふっと口元に歪んだ微笑を浮かべた。
彼は出会った当初を除いて、滅多なことでは取り乱したりなどしなかった。身体、と言うのも変だが、たとえ彼の身体がここにあってもこことは違う別の場所でいつも何かを考えているようだった。

『時はある。じっくり期を窺えばいい』
「空也様?」

それまではなかった高い声が部屋に響いて、空也はゆっくりと顔を上げた。
静かに開けられた扉の前に一人の少女が立っている。廊下から金色の光が暗い部屋に流れ込んできた。
逆光を背に受けた腰まで届く長い黒髪を持つ少女、泉は、部屋を見回してから小さく首を傾げた。

「電気もお付けにならないで……どこか具合でも?」
「いや」

不思議そうに、それでも彼女は部屋の中へ足を踏み入れた。
同時に部屋を後にしようとしたセルガとすれ違う。

「今晩は、セルガ様」

泉がにっこりと笑むとセルガは満足そうに笑った。

『サラ、来い』
『はい』

セルガの呼びかけに、可憐な声と共に彼女の身体からするりと残像が抜け出る。
それは残像のようで残像ではない、実体のようだった。
頭の高い位置で髪を一つにまとめている、面影が彼女と良く似た、異国の衣服を身に纏った少女だった。

セルガが先を行く。その後を嬉しそうに頬をほころばせながらサラと呼ばれた少女が付いて行く。
だが彼らの足元には影など一切なく、そして何よりも彼らは地から数センチ浮いたまま先を進んでいた。
守護霊の気配が消えたことを確認してから、空也はゆっくりと口を開いた。

「泉、気付いたか」
「ええ。急に時間が止まりましたもの。驚きました」
「……だろうな」
「それで以前の件ですが、彼女のこと、調べましたわ」

泉は学生鞄から一枚の紙を取り出して、一回すべてにざっと目を通してからふうと一息ついた。

「リーネの生まれ変わりであるのは流水音色。藤波市立咲が丘中学校の三学年に在籍。家庭は……まあ一般的ですわね」
「日和の情報はいらねえ」
「ええ、以前までは」

変に強調されたその言葉に、空也は肘を付いたまま眉間に皺を寄せた。

「先月彼は流水音色の通う同中学に転入。その後、彼女と接触があったようです」
「……」
「どうやら緑木日和は母親の都合で藤波市の別宅に移住してきた、と言ったところでしょうか。詳しいことはよく存じませんが」

泉が話し終えてから、しばらくどちらも何も言おうとはしなかった。
ただそのどこか居心地の悪い静寂を破ったのは、空也の漏らした一つの深い溜め息だった。

「……思惑通りって訳だ」
「はい?」

きょとん、と黒い大きな瞳を瞬かせながら、泉は理解できないという表情をしている。
空也はそんな泉を振り返り見て苦笑してから、暗闇の中にぼそりと呟いた。

「神の力を持つ人間が、同じ場所に集まる……か」

自分たちの背後に埋もれている因縁のようなものを感じた。切っても切れない太い鎖のようにすら感じられた。
前世から生まれ変わって、時代も場所さえまったく変わったと言うのに、運命だけは数百年前と何ら変わることはないのだ。

いったい神は何をしたいと言うのだろう。
だがその理由が分かったところで、空也はそれに易々と従うつもりは毛頭なかった。
掻き乱したのならば、掻き乱されたままの流れに乗るしかない。それを元の通りに引き戻そうなど、まったくもって無駄なことだ。

「今度は逃さない」

空也は今度は強くそう言葉にして泉の身体を引き寄せた。
泉はふっと嬉しそうに微笑んで、空也に身を寄せて互いに唇を重ね合う。
それは彼らにとっての愛の証であり、永遠の忠誠の誓いでもあった。他人には到底分かることのない、自分たちだけの契約。

「今度こそあいつらを従わせる。今度こそ」
「ええ」

力が欲しい。すべてを屈すことが出来る、神の力が欲しい。
自分と泉の力だけではとてもではないが不十分だ。
そのためには、あの二人の莫大な能力が必要だった。特に音色の力には思いもよらぬオマケが付いている。

空也はまた先刻の音色の豹変振りを思い出した。
間違いない、力の核は音色が持っている。音色さえこちら側につけば、日和はもはやどうすることも出来ないだろう。
唇を離して泉を強く抱き締めながら、誰も与り知らぬ場所で空也は小さく口の端を吊り上げた。

時を正確に刻む時計の音は今も一定の速さで動いている。
相変わらず薄暗く広い部屋に響き渡り、そして世界のすべてに働きかけるようにして。













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06/05/04