第二章  -20









困った。未だにこの状況が上手く飲み込めない。
自分の身体を今も抱き締めているのは、本物の日和だ。そして外観から予想は付くが、ここは緑地公園だ。
選択肢は、今思いつく限りでは、日和に理由と経緯を訊くという一つしかなさそうだ。

音色が一回瞬きをし、もう一回瞬きをしても、この異様な現状は何ら変わることがなかった。
心臓がさっきから小刻みに高鳴っている。心地良いがどこか恥ずかしい気もする。

しかしやはりいつまでもこうしてはいられない。
日和は今も何も言わずに抱き締めているが、ここは文字通り公の場である。
敷地の周囲を囲むように緑の背の高い木々が立ち並んで、その真ん中にはどこまでも、野球場が幾つも入ってしまいそうなほど広い芝生が生い茂っている。
どちらかと言うと公園の出入り口に近い芝生の上で、音色は両膝を突いて日和に抱き締められる形になっていた。

日和に聞きたいことは山ほどあった。
どうして日和がここにいて、何故こうやって訳も分からぬまま抱き締められているのか。

『ぶはっ』

日和の身体から吐き出されるようにして、金髪の少年がぽんと空間に放り出されたのは、音色が慌てながらもそんなことを考えていたまさにその時だった。
音色の驚いた視線と突飛な声に気付いた日和は、驚いた拍子に腕の力をやや緩めたらしく顔を上げた。

「……あ、無事だったのか」
『あ、じゃない。こっちはずっと砂の中に全身埋まってるような感覚だったんだからな。あー窒息死するかと思った』
「もう死んでるじゃないか」

サーンはこきこきと肩を回しながら疲れた疲れたと呟いている。
守護霊である筈のサーンが疲労を感じるとは、いったい今日の日和とサーンはどうしたのだろう。
そこまで考えて、ふと音色は自分にもそれが当てはまることに気付いた。

「窒息死って……なんで?」

だがそれよりも先にサーンの言葉に違和感を感じて質す。
途端に日和とサーンはぎょっとした顔付きになった。冷静な二人の瞳は、今や逆にこちらが驚いてしまうほど見開かれている。

「いや、なんでもない」

所謂アイコンタクトというものだろうか、日和とサーンはほんの一瞬だけ鋭い視線を交わした後、互いに逸してからすぐに日和が頭を振った。

『音色、リーネ呼び出せるか?』
「あ、うん」

調子を取り戻したらしいサーンがいつもの何を考えているのか分からない、それでも真剣さを残した顔で口を開く。
音色がリーネ、とどこと言う当ても無く宙に呼びかけると、金色に降る光と共に傍にリーネが現れた。

日和と対面する場所が公園に移っていて、委員会に出ていた筈の日和がここにいて、サーンは出会ったいきなりリーネと会おうとしている。
次から次へ堰を切ったように押し寄せる事象に、頭の中はもういっぱいいっぱいだった。
今日は変だ。いや、正確に言えば今日も変だと言った方が適当に違いない。

呼び出されて現れたリーネはいつもと変わらない美しさを持っていた。
純白のドレスがふわと風に乗って、まるでそこに天使がいるかのような幻覚を見せる。
しかしいつもなら美しく心から感嘆してしまうリーネの顔には、薄らと憂いの表情が満ちていた。

『年長組は密談だ、理由聞くなんて野暮なことするなよ。お前ら若者は先に帰ってな』

サーンはそれだけ言うとリーネの耳元に顔を寄せて二言三言囁いた。
二人は途端に真面目な、どこか落胆したような顔付きになり、すぐに何の前触れも無く煙のようにその場から姿を消した。

彼らの行動が目に留まらなかった訳ではないが、理由は後でリーネに直接訊けばいいのだ。
音色はようやく緩んだ日和の腕の中から、どさくさに紛れて抜け出ることに成功した。

「音色、ほら鞄」

近くに放ってあった砂と土にまみれた学生鞄を軽く叩きながら、日和が寄こしたそのまま音色は受け取った。

「あ、有難う。……って、日和の鞄は?」
「ああ。そう言えば投げっ放しだったな」

日和は今気付いたようにすくと立ち上がると、辺りをぐるりと見回してから歩き出す。
そうして公園の入り口の近くの茂みの前で立ち止まったかと思うと、ずぶりと茂みの中に二の腕まで突っ込んで彼の鞄と思われるものを引きずり出した。
何故そこに、と眉間に皺が寄らざるを得ないが、それはすぐに解消された。

「ひっ日和!?」
「え?何?」

鞄を茂みから引っ張り出して帰ってきた日和の顔を見た音色は、一瞬身体中の血が凍った感覚に陥った。
それはあまりに不自然な色だった。
通常、普通に暮らしていれば見ることの無い、赤くて、それにしては純度の低い、赤黒いと言った方が適当な色だった。

「その切り傷どうしたの?」

音色の驚愕の視線を受けて、日和は焦るでもなくただ、ああ、と呟いてから左頬にできた真新しい切り傷を指でなぞった。

「さっき転んで切っただけだよ」
「転んだの!?」
「いや、そこまで驚かなくても。それに傷は直に治るし、ほら、俺達の魂はアレな訳で」

違う。自分たちの魂が神の魂で、どうやら驚くべき治癒能力を持っているということは前世の記憶から分かっている。
驚いたのは、日和がその辺の道で転んだということだ。

しかし日和当人はそんなことまったく微塵も気にかけていないらしい。
制服の第二ボタンを、鞄を持つ手とは反対の手で器用に嵌めながら、一回傷口を指で拭ったきり再度触れようともしない。
そうして見る見るうちに傷口は塞がって行った。まるで最初から傷を受けていなかったかのようなそんな呆気無さで。

「……あれ?」

無意識の内に考えていることを口にしてしまったようだ。
音色の呟きに気付いた日和は、肩越しにこちらを振り返った。

「どうかしたか?」
「あ、ううん。なんでもない」

音色は反射的に否定していた。
ここで内緒にするのも悪かったかもしれないと一抹の罪悪感を覚えたが、あとで状況が落ち着いた時に報告すればいいとすぐに思い直した。

(夜霧空也……)

彼はいったいどこに行ったのだろう。
確か彼に強く腕を掴まれた辺りまではまだ覚えている。しかしその後の記憶が変に曖昧だ。

自分の隣には空也の代わりに日和がいる。
先程の、サーンとアイコンタクトをして首を横に振った時の、あの日和の複雑な表情が忘れられなかった。
空也に会った後の記憶が抜けていることに気付いて、散々過去の記憶を探って思い出そうとしてみたが、これもやはり思い出せなかった。













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06/05/04