サーンがいつしか言っていた。 リーネはきっと、四人の中で最も神の力を受け入れていた、そしてそれを無意識に使いこなしていたのだと。 だが音色は彼女とは別だと思って然して気に留めることはしなかった。 前世から引き継がれたもの、彼らの生まれ変わりである自分たちにとって、それは力だけで十分過ぎるほどだった。 第二章 -19 それは太陽の光が反射したのか、その煌きがいったい何であったのかは分からない。 だが確かに音色の七色の双眸はほんの一瞬だけ、鋭い光を宿していた。 ゆっくりと持ち上がる音色の、だが今は音色のものではない腕。 長い髪の間を縫って上がった右手の周りには、ひゅんひゅんと聞き取れるほどまでに高密度の風が纏わり付いている。 どうにかしてあの力を抑え込まなければならない。何通りか考えた解決策の中で一番マシな案に日和は勢い腹を括る。 しかしどうやって力の暴走を食い止めればいいと言うのだろう。 過去にそんな例は一度として無かった。漏れすぎた力を止める術など、今の焦ったこの頭で搾り出すにはあまりにも酷なことだった。 音色の表情が少し動きを見せたので、日和は今までの雑念を慌てて振り払った。 来る。日和は足に力を込めて、いつでも音色からの攻撃を避けられるよう構えた。音色の右手が自分の方を向く。 しかし無表情の音色から放たれた突風が獲物に選んだのは、日和ではない、彼のすぐ隣だった。 『……何っ!?』 凄まじい勢いと攻撃力を備えた風が、日和の足元のすぐ横の地面ごとサーンを抉り取る。 その上にあったサーンの姿は少しぶれたがすぐにするりと掻き消えた。そこには残像も何も残ってはいない。 「サーン!」 日和はすぐに強く呼び掛けた。しかし返答はまるで無い。 放っておいても自由に現れては消える彼が、今はぷっつりと消息を絶っている。 (まさか……な) 日和は自嘲気味に笑ってから、数メートル離れた場所で浮遊する音色の姿を見据えた。 額には一筋、冷や汗が伝った。頭が混乱を通り越して冷静になった。 今の攻撃が証明した。何の考えも無しにただ正面から突っ込めば、間違いなく暴走した音色の力の餌食となる。 もし先程の攻撃がサーンではなく自分に向いていたら―――その後は考えないでおいた。 だがここで長時間対峙しているにも限界がある。自分の体力は底をつき、その隙を同じく狙われるだろう。 結局最初の案を変更するには及ばなかった。 力を抑え込む。それはもはや天地が入れ替わっても変えようのない方法だ。 「……お手柔らかに」 にっと極上の悪巧みでもしていそうな笑顔を作って、きっとこの表情さえ判別しないであろう音色に笑んでみせる。 日和は若干の背筋に悪寒を覚えながらも学生鞄を近くの、公園の周囲に植えられた茂みに放り込んだ。 これから一勝負がかかっているのだ、この際校則には大目に見て貰おう。親指と人差し指で弾くように黒い学生服の第二ボタンを外す。 学生鞄が鈍い音を立てて茂みに落ち込んだのとほぼ同時に、日和の姿は既にそこから消えていた。 彼の身体は今、音色に向かって地上数メートル上空を切っていた。 「音色!」 先程のサーンを攻撃した時に上がったままの右腕を掴もうといっぱいに手を伸ばす。 途端に辺りを穏やかに流れていた風が急に方向を変えて鋭い刃となり、日和の身体目掛けて飛んできた。 しかしそれは瞬時に日和の身体の周りに現れた、複雑に絡み合った太い木々の枝によって阻止される。 向こうも力で押して来るならこちらもだ。日和は何もない大地から突如張り出した、大木の太い枝の上に軽々と足を付けた。 不思議な感覚だった。普段はあまり力を解放しないせいか、こうして身体を力に委ねていると気分までもが煌々と熱くなる。 そうして何となく見やった、今も身体を囲んでいる木々の間から偶然見えた音色の瞳に、日和はそこで息を止めた。 ちらり、と一瞬七色ではない、音色本来の黒い瞳が過ぎった気がした。 寂しさが篭っているような、絶望しているような細い光がその瞳の奥で揺らめいたように思えた。 「音色……なのか?」 音色は答えなかった。同時に、さっきまでの見知った瞳は消えていた。 だが音色はすぐ手の届く範囲にいる。 地上から数メートル離れて宙に浮いている音色と、同じく何メートルも急激に育った木の枝の上に立って対峙している日和の視線が真っ直ぐに出会う。 何の前触れもなく、またも地形を変えるほどの強風が音色の指示通りに放たれて日和を襲った。 だが日和はそれを避けようとはせず全身にその攻撃を受けた。 力の限り、その風を押し退けて前へと進む。頬をスパッと鎌鼬のような風が掠め去る。 日和はふと解放していた力を抑え込んだ。 途端に身体を取り巻いていた複雑な枝が光になってするりと消えた。 「平気だ、音色」 力に支配されて我を忘れたはずの音色の唇が、ふるりと小さく震えた。 「俺はここにいる。ずっと、音色が俺を忘れても、ずっと……」 吹き荒れ渦巻く風の中で日和はしっかりと音色の腕を掴んだ。 そのままぐいと力任せに引き寄せる。すると呆気ないと感じるほどに、音色の身体は軽く自分の腕の中に収まった。 日和はすっかり変わり果てた音色の身体を、しっかりと引き寄せて強く抱き締めた。 もう二度と離さないように。風に掻き消えてしまわないように。 音色の体から放たれた強風が再度日和を撥ね退けようとする。 身を刺すように風は日和を襲った。だが日和は決して離そうとはしなかった。 ここで離しては、きっと音色は一人でどこか広い海を漂うことになる。この時の自分の心情を例えるならば、そんな感じだった。 「頼む、起きてくれ」 荒れていた風が次第に勢力を失っていく。 「音色……」 そっとその名を呟く。 気付かない訳がない。日和は手元で困ったように笑った。 ここで必要なら口にしてもいい。それで今までの、本当の音色が帰ってくるのなら。どれだけ自分が音色のことを―――。 その時、音色の無関心な瞳から大粒の涙が零れ落ちた。 それを封切りにして一つ、また一つと音色の頬の上を涙が伝っていく。睫毛の上に溢れた涙がぼろぼろと零れていく。 (……誰?) 少しの間、深い眠りに付いていたようなそんな気がする。 目蓋をゆっくりと持ち上げた音色は、ふと幾つか離れた場所に誰かがいることに気が付いた。 音色の周りの空間は純真の白が一分の隙間もなく埋め尽くして満たしている。 ふわふわと、まるで重力を無視して羽の中に埋もれているよう。体験したことが無いくらいに心地いい。 時折訪れる微風を肌で感じながら、音色はその誰かの方へ手を伸ばした。 しかし手を伸ばそうとすればするほどその姿は遠ざかって行く。 自分と同じか少し上くらいの歳の少女の後ろ姿だが、誰なのだろう、見たことがあるようなないような。 (待って!) 引き止めようにも声が出せなかったので音色は心の中で思い切り叫んだ。 待って、そっちに行ってはいけないよ。確信はないにもかかわらず叫んだ。 すると彼女の去って行く速度はがくんと落ちた。そればかりか数秒後に静かに立ち止まる。 長い髪の一房がふわと風に乗って、彼女はこちらに振り返った。顔は良く分からないが、口元に薄らと微笑を湛えていると分かる。 音色は急な展開に驚いて彼女のその微笑だけを、白い周りの光越しに凝視した。 (……あなたは、誰……?) 音色の思念に対して、彼女は優雅な仕草で口を開く。口の動きに数秒送れて声が辺りに響き渡る。 『今はまだ、話す時ではないのです。まだ意思が一つではない。集めるだけでは、私の魂は昇天しない』 何を言っているのだろう。 彼女の言っている意味は分からなかったが、言葉の一つ一つが脳に細かく刻み込まれる。 音色がその言葉に何でもいい、答えようとした時、既に彼女の姿は消えていた。 辺りは白から黒へとその背景色を変化させていた。 天も地も左も右も真っ暗で何も見えない。感覚で自分の目の前に翳したはずの手のひらさえ、それを反射する光がない今では認識できなかった。 どこに行けばいいのだろう。何をすればいいのだろう。 暗闇しかないと分かった次に心を占領したものは、他でもない恐怖だった。 (怖い……) 目の前で惨状が起きた訳ではない。幽霊と接触している訳でもない。 だがこうして黒の世界に立っていて平衡感覚がほとんど失われている、その状況下で恐怖が背筋の下から上へ這い上がってきた。 あまりの寒気に反射で腕を擦ろうとして、ふと自分の服装が尋常でないことに気付いた。 この時音色が身に着けていたものは、リーネと同じ肩が大きく開いている純白のドレス、夢で銀の世界に飛ばされた時に着ていたものと同じものだった。それが微かにぽうと光っている。 いったいどうしてこんな恰好をしているのだろう。音色はそれでも腕をゆっくり擦りながら考える。 しかし突然、それまでただ黒しかなかった無の世界に一点の光が差し込んだ。 音色は驚いて顔を上げる。顔を上げた先、遠くから洞窟の出口を思わせるような真っ白な光が覗いている。 それを認めた時、思わずぐっと力いっぱい手を伸ばしていた。誰かの自分の名を呼ぶ声が聞こえた。 途端に心のどこかで何かが静まっていく気がした。 光に身体の心から引っ張られて、今まで焦っていたものすべてが広がる水面の下にひっそりと沈んでいく感覚。 「……日和?」 瞳が久し振りに太陽の光を通した、と思った。 何故か気を取り戻してすぐに目の前にあった日和の顔に、音色は数回ゆっくりと瞬きをしてから首を傾げる。 どうして日和がここにいるのだろう。いや、そもそもここはどこなのだろう。 どうして自分はそんな彼の苦しそうな顔を呆然と見上げているのだろう。 どうしたの、音色がそう言おうとする前に日和の腕が伸びてきて、身体が彼の胸の中に引き寄せられた。 「……よかった」 ぎゅっと、苦しみを噛み締めるように呟いた日和に強く抱き締められる。 いったい何なのか。音色は驚きではっと我に返った。 混乱がいっそう酷くなった頭で、音色は日和の腕の中からこっそりと自分の服装を確認した。 学校指定の白いラインの入った緑色のセーラー服が視界に入った。あの純白のドレスではなかった。 そう自覚してほっと気分が落ち着いた。理由は定かではないが、よかった、と思った。 いつの間にか止まっていた時間が元の通り、濁流の如く流れ始めた。 道行く人々はいつもと変わらない生活を始める。 数十分の間時間が止まっていたことなど誰も知る者はいない。ただ、神の力を持つ者を除いては。 BACK/TOP/NEXT 06/05/04 |