第二章  -18









息はすっかり上がっていた。
周りにはどこまでも住宅街が広がる、今は時間が停止したその中を日和はひたすら駆けて行く。

道行く人々が見事に静止している。すべての根源である時間が止まっているのだから当然と言えば当然だった。
今にも動き出しそうなほど現実染みているのに、彼らに話しかけたところでなんら反応は得られない。

畜生、と日和は心の中で憤る怒りをぶつける。誰に対してでもない、自分への怒りだ。
もっと他に方法は無かったのか、考えれば考えるほど答えから遠ざかっていくような感じ。
もう二度と音色を巻き込みたくは無いと思っていたのに、だがそれがこの結果だ。

(いったいどこに……!?)

とにかく砂埃が上がった方角を目指し道を進んできたのだが、原因がどこなのかまでは分からない。
日和は住宅街に伸びる道の中で一旦立ち止まって辺りを大きくぐるりと見回した。
しかしさっきまでは辛うじて残っていた砂埃も、大分時間が経った今となっては跡形も無く消え失せている。

それまで姿を消していたサーンが日和の身体からするりと抜け出したのは、日和が足を止めたのと同時だった。
彼は瞳を閉じてなにやら考え込んでいたかと思うと、すぐに目蓋を持ち上げてその青い双眸は見開かれた。

『……近い』

サーンは落ち着きながらも、すっと警戒を含んだ視線を辺りに走らせる。

『けどこの感覚は……。おいおい、冗談だろ』
「サーン、分かるのか!?」

日和が強く問い詰めると、サーンはその剣幕に面食らったのか少し口篭った。
何をそんなに躊躇しているのか、一刻を争う自体だということに変わりはないと言うのに。
するとしばらくしてからサーンは渋々と口を開いた。

『付いて来い、日和』

サーンは地面から数センチ浮きながら、日和の先を抜けていく。
先導されるままに細い道から大通りへと出る。二人は車の勢いもゼロになった大通りの真ん中を突っ切ってただ走る。

日和はまだこの土地に越してきたばかりだ。
この場所には過去に数回来たことがあるとは言え、どれもかなり小さい時だったためほとんど覚えていない。
その見知らぬ場所ばかりの中でサーンが止まったのは、広大な敷地の入り口の前だった。

『間違いない。ここだ』

日和は荒い息を抑えて、入り口横の看板に目をやった。
縦置きになった丸太の側面が薄く切り落とされて均された上に、藤波市立緑地公園と表記されている。
確かに、外観からするに木々は所狭しと並んでいる。緑地公園で合っているようだ。

(こんな場所に音色が?)

日和は疑問に思いながらも足を一歩、敷地内へと踏み入れた。
だがその途端に、身体を押し潰してしまいそうそうな重量の威圧が肩の上に圧し掛かる。

間違いなく音色はここにいる、と思った。
重圧の中にほんの僅かに含まれている力の気配、それは紛れもない音色のものだ。
そう思えば思うほど、先へ進む歩幅は大きくなり速度は増した。

しかし公園内に入ってすぐに開けた風景に、日和は唖然とした。
走ってもいないのに心臓が強く鼓動している。汗が全身から吹き出ていると手に取るように分かる。

突如、数メートル離れた青々と茂っている芝生の上に何かが上から勢い良く叩きつけられた光景に我が目を疑った。
同時にやって来た大きい振動と爆風に身体が流されそうになる。
日和はそれらを何とか凌ぐと、濛々と砂煙が上がるその向こうに目を凝らした。しかしそこでその姿を見て、やはり驚かざるを得なかった。

「……チッ」

口の端を切ったらしい、乱雑に血を地面に吐き捨てて、上から叩きつけられた一人の人間が立ち上がる。
彼はこちらの姿に気付くと、口元に残る血を手の甲で拭いながら笑んだ。

「よう、遅かったな。オウジサマ」

最後の言葉に只ならぬ棘を感じて、日和はむっと眉間に皺を寄せる。
日和の視線の先にいるのは今年の春に出会った少年、セルガの後世である生まれ変わり、夜霧空也だった。

漏れなく夜霧家も祖父から教え込まれたリストの内に入っていた。
彼の父は外資系企業の副社長、彼の母は一流企業社長秘書を務めている。
空也の黒髪は今、風に倣って崩れている。彼はそれをくしゃと掻き上げるとふうと溜め息を付いた。

「お前が、何故ここにいる?」
「……ったく、お陰様で制服が砂まみれの泥まみれ。仕方ねえ、さっさと退くか」
「夜霧空也!」

それまでこちらの話を聞こうとしなかった空也がぴたりと動きを止めた。
日和は額に流れる汗を感じながらも、にっと無理矢理口の端を吊り上げる。

「合ってるだろう?」
「フン、世界に名を馳せる名家のご子息様に覚えて頂けたとは至極光栄です……ってか?」

空也はわざとらしく肩を竦めて明後日の方向へ視線を移した。
どうやら辺りに吹き乱れる風に触発されて真新しい切り傷が息を吹き返したらしく、いて、とまたも日和がそこにいないかのような素振りで再度、彼は口の端を親指でなぞる。

「ま、情報量不足だったのは認めるぜ。ターゲットが一般人は滅多にないからな、資料が少ないんだよ」

空也はパンパンと、クリーム色の制服に付いた砂埃を数回軽く叩き払った。

「さて、音色の後は任せた」
「おい待て!」
「じゃあな緑木家の一人息子」

彼は何故ここにいるのか、それに前世について話したいことなど、ここで別れてはいけない理由は腐るほどあった。
どうやらリーネやサーンから聞くに神の力を持つ者を一度一箇所に集めなくてはならないと言う、その機会を逃したくは無かった。

しかし空也はひらり、と右手を上げると、日和に制止させる暇も与えずにそのまま霧になって散った。
去る間際に見せた不気味な笑みが今も残影の如く、辺りに残っているかのようだ。

(……音色?)

日和は空也の言葉を思い返し、そこで聞き慣れた単語が含まれていたことに疑問を持った。
それに空也は恐らく上から叩き付けられていた。その原因は何なのか。

ゆっくりと、日和は顔を空に移した。
遅過ぎたのだと途端に心が喚いた。顔を上げたそこで、空也が何故この場所にいたかの一部始終を知った。
彼の身体を糸も簡単に地面に叩き付けた原因は、地面から数メートル離れた場所で静かに佇んでいた。

「音色……」

確かにその姿は音色に違いなかった。
しかしその姿はすっかり変わり果て、何も反映しない無表情のまま宙に浮く恰好でこちらを見下ろしていた。
いつもの自分に向けられる眼差しとは程遠いものだ。その目は日和を見ているようで、遠く彼方を漠然と見透かしているようでもある。

今や音色は制服ではない白いシルク地の簡素なドレスを身に纏い、柔らかい髪は身長以上も伸びて浮遊している。
身体中を巡る血液が凍ってしまったように感じた。
音色のその姿が、一瞬、なにか触れてはいけない存在のように思えた。

「音色、なのか?」

硬直した身体から無理矢理振り絞って出した声は、あまりにも震えていた。
しかし音色は冷えた視線をこちらに送って寄こすだけで、何も答えなかった。

咄嗟に、来る、と日和は直感した。音色の表情のほんの僅かな変化を見逃さなかった。
素早く身を翻した日和の頬を、空也の時と同様、勢い良く放たれた突風が掠め去る。

「音色!」

力の暴走だ、隣でサーンが呆気に取られたような表情で呟いた。
このままでは壊れていく。何もかも、時間も世界も音色の身体さえも。

音色が放った力の残滓は辺りに吹き乱れ次の攻撃の糧となる。
空也はきっと音色の力を誤って引き出した、引き出し過ぎたのだ。
宙からこちらを見据える音色の二つの瞳は、いつもとは違ってあまりも残酷な冷たさを宿していた。













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06/05/02